0179.撲殺天使
その瞬間、セリアの身体能力は、
誇張抜きに十倍へと跳ね上がった。
踏み込み一発で石畳が砕け散り、
振るわれた拳が空気を爆ぜさせる。
黒い分身たちが、まるで紙屑のように
次々と宙を舞い、霧散していく。
「な、なんじゃあれは……!?」
ベンチで見ていたアノンが、
驚愕に目を見開きながらも、
すぐに得心がいったように膝を打つ。
「そうか……! そういうことか!
あれぞまさしく『呼吸』じゃ!」
「呼吸……?」
隣で唖然としているヴェルが問うと、
アノンは興奮気味にまくし立てた。
「以前、お主に教えたはずじゃ。
マナを大気から取り込むには、
皮膚呼吸のイメージが必要だと。
……ディアモンテの『愛裸武勇』は、
肌を極限まで露出することで、
その接地面を最大化しておるのじゃ!」
アノンは戦場を指差す。
そこには、弾け飛び、霧となって
消えていくシゾットの分身たち。
「しかも、今このリングの上は、
破壊された分身たちの残滓……
純粋なマナで充満しておる!
セリアは今、無限に供給される
マナの海を泳いでいるも同然じゃ!」
無尽蔵のスタミナ。
規格外の出力。
そして、ディアモンテ直伝の
恐れを知らぬ格闘術。
水着姿の天使は今や、
戦場を蹂躙する闘神と化していた。
「はぁぁぁぁぁぁッ!!」
セリアの気合一閃。
回し蹴りが三体の分身をまとめて
粉砕し、更地を作る。
増え続けるシゾットの分身。
だが、セリアの破壊速度が、
その増殖速度に追いつき始めていた。
拮抗。
いや、気迫においては、
セリアが押し始めている。
そんな異常な光景を前に、
観客たちの目は変わっていた。
最初は色物を見るような、
揶揄を含んだ視線だった。
だが今は、ただ純粋な強者への、
畏怖と敬意が会場を支配している。
そして。
敵であるシゾットの瞳にも、
明らかな変化が宿っていた。
「……面白い」
冷徹な暗殺者の仮面が、
わずかに揺らぐ。
無機質だった殺意の中に、
探求心のような熱が混ざる。
「知りたいぞ。オマエが何なのか」
シゾットが指を鳴らす。
分身たちの動きが変わった。
ただ突っ込むだけではない。
連携し、死角を突き、
セリアを確実に追い詰める動きへ。
増えては消え、消えては増える。
黒と肌色のコントラストが、
目まぐるしく交錯する。
そして、その時は訪れた。
四方からの同時攻撃。
鋭利な手刀が、退路を塞ぐように
セリアへと殺到する。
どれか一つを防げば、他が刺さる。
回避不可能な絶体絶命の包囲網。
だが、セリアは笑った。
(……ここです!)
彼女は、避けなかった。
治療術師としての知識をフル動員し、
“致命傷にならない軌道”を見切る。
あえて、その間を通る。
肉を斬らせて、骨を断つために。
シュッ!
プツッ!
二つの手刀が、
セリアの脇腹と太ももを浅く裂く。
鮮血が舞う。
だが、足は止まらない。
包囲網を突破し、手薄になった
シゾット本体へと肉薄する。
届く。
この拳なら、届く!
そう確信した、その瞬間。
シゾットが、小さく呟いた。
「……終わりだ」
──ドクンッ!!
セリアの心臓が、早鐘を打った。
いや、違う。
体中の血液が、沸騰したように
暴れ出したのだ。
「がっ……!?」
セリアの全身の傷口から、
皮膚の毛穴から。
あり得ない量の鮮血が、
噴水のように吹き出した。
「なッ……何が起きた!?」
ヴェルが身を乗り出す。
斬られた傷は浅いはずだ。
なのに、出血量が異常すぎる。
シゾットは動揺するセリアを、
冷ややかな目で見下ろした。
「『届かぬ模倣品』。
触れたものを複製する能力……。
オレは今、オマエの血液を複製した」
「けつ、えき……?」
セリアの思考が凍りつく。
先ほどの交差。
わざと攻撃を受けた瞬間、
シゾットの分身は、
セリアの血に触れていたのだ。
戸惑うセリアの背後。
死角から現れた分身が、
無慈悲な手刀を振り下ろす。
──ズドッ!!
「あぐっ……!」
咄嗟に身をよじり、
心臓への直撃は避けた。
だが、手刀は深々と肩口に突き刺さる。
そして、再び。
傷口から、爆発的に血が溢れ出す。
まるで、体内の血液量が
倍に増えたかのように。
それを見ていたヴェルが、
眉をひそめて呟いた。
「……血が増えただって?
いや、だとしてもおかしいだろ。
増えた分が出ていくなら、
元の量は変わらないんじゃないか?」
血管が破裂するならともかく、
傷口から外へ排出されるなら、
命に関わることではないはずだ。
だが。
その言葉を聞いたシンが、
ハッとして顔色を変えた。
「いや……やべえぞ!!」
シンの絶叫と同時だった。
フィールドのセリアが、
糸の切れた人形のように、
ガクリと膝をついた。
「な、なんで……? 力が……入らな……」
視界が急速に暗くなる。
手足の感覚が消えていく。
ただの貧血じゃない。
生命そのものが、
指の間から零れ落ちていく感覚。
シゾットは膝をつくセリアに歩み寄り、
淡々と、死の宣告を告げた。
「忘れたか。
オレ以外の生物が触れれば、
複製品は十秒で消滅する」
シゾットの能力の制約。
複製された血液は、
セリアの血管の中で、
本物の血と混ざり合っていた。
そして、傷口から
勢いよく吹き出した大量の血。
それは圧力に押され、
本物の血をも巻き込んで、
体外へと排出された。
問題は、体内に残った血だ。
「……オマエの体内に残った血。
その中にも、複製は混じっている。
そして……その血はオマエの体内だ。
つまり、オマエに触れている」
十秒が経過した。
体内に残っていた血液のうち、
複製された分が、
一瞬にして“無”へと還る。
結果、どうなるか。
勢いよく外へ出た分と、
体内で消滅した分。
合わせれば、彼女の血液の
半数以上が失われたことになる。
「循環で血を無理やり回そうと、
流れる血そのものがなければ、
心臓は空回りするだけだ」
シゾットが見下ろす先で、
セリアが力なく崩れ落ちる。
「出血性ショック。
……それが、オマエの死因だ」
「あ……ぅ……」
セリアの手が、虚空を掴む。
ヴェルの名前を呼ぼうとしたのかもしれない。
だが、声は出なかった。
意識が途切れる。
数秒後、彼女の肉体は
光の粒子となって崩れ、
場外の蘇生陣へと転送された。
『し、勝者 シゾット選手!!』
審判の声が、
遠くで響いているようだった。
◇
「うぅ……ごめんなさい……。
ごめんなさい、ヴェルさん……」
蘇生陣の上で。
意識を取り戻したセリアは、
裸の肩を震わせて泣いていた。
水着姿のまま、
大勢の観客の前に晒されている。
羞恥と、敗北感と、
申し訳なさで、顔を上げられない。
そこへ、バサリと。
温かい布がかけられた。
ヴェルが、自分のマントを脱ぎ、
彼女の身体を優しく包み込んだのだ。
「……よくやってくれたよ。
サンキューな、セリア」
「ヴェル、さん……」
「お前のおかげで、
あいつの手の内は全部見えた。
……あとは、任せておけ」
ヴェルはポンとセリアの頭を撫でる。
そして、くるりと踵を返し、
リングの方へと歩き出した。
その背中には、怒りの炎はなかった。
あるのは、静かで、冷徹な覚悟だけ。
ヴェルはリングに上がり、
シゾットと対峙する。
「……別に、アンタに恨みはない」
ヴェルは静かに告げる。
シゾットは無言で彼を見返す。
「セリアを舐めず、手加減せず、
全力で、正々堂々戦ってくれた。
そのことには、感謝すらしてる」
もし手加減されていたら、
セリアの覚悟が汚されるところだった。
シゾットは、敵として、
最大限の敬意を払ってくれたのだ。
だからこそ。
俺も、全力で応えなきゃならない。
ヴェルは腰のナイフを抜き、
切っ先をシゾットに向けた。
「だが、アンタは俺が倒すぜ。
……覚悟しろ、シゾット!!」
風が、渦を巻く。
ヴェルの周囲で、大気が鳴動する。
シゾットが、
初めて口元に微かな笑みを浮かべた。
「……来い」
第四試合。
リーダー同士の戦いが。
今、始まる。




