8月、空回りするかき氷
今日は映画館のある駅で待ち合わせだった。
夏休みらしく同年代の人出が多い。邪魔にならないよう駅構内の端っこによけて、着きました、と連絡をいれる。
いったん消して、黒くなった画面を鏡代わりに前髪を直す。そこまで乱れてもいないのに。
すると、ぱっと画面が明るくなって、やなぎんからのメッセージが通知される。
慌ててスマホをおろして改札の方を見ると、見慣れた人影が姿を現した。
桐高指定のポロシャツが意外なほどよく似合っている。いつもはカッターシャツでいることが多いから、新鮮だ。あまり派手でない限りは襟のあるものなら着ていいらしく、桐高生は結構バリエーション豊かな服装をしている。
彼もわたしに気づいたようで、心なしか早足でこちらへやってくる。
そこだけにピントが合って、他の様子がぼやけていくような感覚。
(どうしよう、あれ? なんか……)
ぼーっと見つめるわたしの目の前まできたやなぎんは、ほとんど足元を見ながら小さな声を出す。
「お待たせしました」
その声にはっと我に返って、慌てて返事をする。自分でもびっくりするくらい、上ずった声が出た。
「大丈夫、大丈夫! 全然待ってない!」
そして沈黙。
うるさい心臓と、はっきり熱を持った頬と、ちっとも気の利いた言葉が浮かばない頭とを持て余して、それでもやっぱり顔が見たくて。すっかりうつむいてしまっている彼に、蚊の鳴くような声で告げる。
「あの、顔あげて?」
「ごめん。勘弁して」
間髪入れず返ってきたのは、彼にしては珍しく強い語気だった。
その場を逃げ出してしまいたいような気持ちになったけれど、やなぎんの耳が真っ赤に染まっているのに気づいて、そっと安堵の息をつく。
(嫌がられてるわけじゃない、よね)
大きく深呼吸をして、どうせ見ていないけど、にっこり笑顔を作った。
「もうすぐ時間だから、映画館行こ」
***
映画の後、感想も出尽くした帰り道。もともと観たかった映画だったからなのか、観ている間は考えなくて済んだからなのか、やなぎんは少しいつもの調子を取り戻したみたいだった。
ぱちっと一瞬目が合って、奇妙な沈黙が訪れる。
今しかない。
「あの、ね。わたしの気持ち、やっぱり昨日とおんなじ、なんだけど」
告白がこんなに勇気のいることだったなんて、昨日は考えもしなかった。どんなに勢い任せだったのか、今になってわかる。
やなぎんは急に立ち止まって、やっぱり俯いてしまった。でも今日待ち合わせに来たときとは少し違って、何か考え込んでいるように見える。
また目が合わなくなって、待っても返事が返ってこない。
「わたしと付き合うの、いや? そうなら、そう言ってくれていいよ」
せっかちな自覚のあるわたしは、自分から首を差し出すような気分で言った。初めての恋は上手くいかないことの方が多いなんてこと、いくらわたしでも知っている。そこまでわたしに都合のいいようにことが運ぶなんて、ありっこないのだ。
ようやくそう思い至って、恋に浮かれていた心が急激に沈んでいく。
やなぎんは、ばっと顔を上げて必死な表情で首を横に振った。
「沢渡さんのことが嫌とか、それはありえない」
そう言い切ってくれた真剣な瞳は、すぐに不安に揺れる。
だけどわたしは、また心がふわふわ浮かんでいくように感じた。
ありえないんだ。嫌じゃないんだ。
嬉しい気持ちが顔に出ていたのか、やなぎんはわたしを見て困ったように眉を下げた。
「正直、なんで僕、としか思えない」
「じゃあその謎を解明するために付き合うっていうのはどうですか」
勢い込んで言う。
急に元気になったわたしに、やなぎんは少し押されたように瞬いた。
「諦める気配ないね……」
「だって、なんでって言われても言葉じゃ上手く説明できないから、行動で示してるんだよ」
「……確かに、沢渡さんらしいけど」
「遠回しに断ってるってわけじゃないでしょ、やなぎん」
どうしても確認したくて、狡いことを聞いてしまう。優しいけれど意志の固い彼が、そんな曖昧な断り方をすることはないだろうと知っているのに。
やなぎんは小さく頷いたあと、ぼそっと呟く。
「断れるような身分じゃない」
「身分?」
「なんでもないよ」
微苦笑という珍しい表情に、心の片隅にもやがかかる。
それを追求するのが怖くて、わたしは気づかないふりをしてしまった。
今この瞬間を逃したら、きっともう。
そんな予感がした。
だからわたしは、とにかく押してみることに賭けた。
「ね、とりあえず夏休みだけとかでもいいから! やっぱ無理ってなったらすぐ言ってくれていいから!」
「夏休みだけ……」
再びの思案顔でわたしの言葉を反復したやなぎんは、一度ぎゅっと目をつぶって。
照れくさそうな、観念したような、わたしが読み取れた以上のたくさんの感情が混ざっているだろう表情で、頷いてくれた。
「期待に応えられる気が全然しないけど、それで沢渡さんの気がすむなら。……よろしく、お願いします」
***
翌日、恵那との約束を果たすために、学校の最寄り駅前のカフェでご所望のタピオカドリンクを進呈。
ずっとニヤニヤが止まらないわたしと会うなり昨日の顛末を察したらしい彼女に、うざがられるのを承知で報告する。
「へへへ……わたし、彼氏できた」
「よかったね、OKしてもらえたんだ」
恵那はずっと面倒を見ていたわたしの恋愛事情が急展開を見せたことに、少しすねているのを隠そうとしない。
でも自覚がなかったから仕方ないことだ。恵那もそれをわかっていて、わたしの説明をじっと聞いてくれた。
「それでね、一昨日告白して信じてもらえなかったから、昨日もう一回告白した。なんで僕? って言われたけど押して押して押しまくった!」
「あー……」
そこまで話がたどり着いたら、恵那がちょっと遠い目をする。
「それ、大丈夫なの?」
心配そうに眉を寄せる恵那。
「なにが?」
「その、柳くん? 嫌々じゃない?」
わたしの押しに嫌々折れてくれたのでは、と心配しているらしい。そう言われると、わたしも不安になってくる。
「嫌じゃないって言ってくれた」
「うーん……柚の押し方、変な方向に受け取られてそうなんだけど」
「変な方向って?」
恵那が何を危惧しているのか読み取れない。必死に聞き出そうとするわたしをよそに、恵那は首を横に振る。
「いや、憶測で外野があれこれ言うのもダメか」
「一人で納得しないで!」
腕にすがりつくわたしを無情にも振りほどき、恵那はポンとわたしの肩を叩いた。表情は普段なかなか見られない優しい笑みである。
意味深なことを言ったくせに、自己完結してさっさと見守りスタイルに徹するのはやめてほしい。
「ま、とにかくおめでと。のろけ話待ってるね」
「……って、言われた」
夏休みも一週間ほどすぎてしまった、死ぬほど暑い日。
今日は朝から予備校に行って、夏期講習コースを進めていた。やなぎんも一日空いていると聞いていたから、時間を合わせて一緒に休憩スペースでお昼を食べて、午後もうひと頑張りして。おやつの時間を少し過ぎた今、帰途についている。
さっきまで寒いくらい冷房の効いた予備校にいたのに、少し外を歩くだけでもううんざりするくらい暑い。
でも、そんな暑さのことも脇に置いておきたくなるくらい、わたしはじわじわと恵那の言っていたことが気になっていて。
隣を歩くやなぎんに、かいつまんでそれを話した。
彼は少し困ったように、言葉を選ぶ沈黙の後、やっと口を開く。
「それを僕本人に言うところが、沢渡さんだよね」
「ほめてる?」
「……う、ん?」
どう考えてもほめてはいないだろう。
やなぎんも首を傾げ、珍しく誤魔化す。
でも今重要なのはそこじゃないから、気にしないことにする。
「まいいや。ほんとに嫌じゃない? 無理してない?」
「大丈夫」
顔を覗き込むようにして聞くわたしに、やなぎんは少しだけ口角をあげた。
わたしもほっとして笑みを返す。
「よかった。わたしはやなぎんといるの、居心地いいから……しつこくてごめんね」
「いや……」
話しているうちに、いつも別れる郵便局の前の角に着く。
でも今日は、ここでお別れじゃない。
本の貸し借りがてら、やなぎんがわたしの家に寄っていくことになっているのだ。
二人の兄のうち少なくともどちらかは帰ってきそうだから何か言われそうだけど、男の子が家に遊びに来るくらいおかしなことじゃないはず。
控えめに、お邪魔しますと言いながらうちにあがったやなぎんは、少し所在なさげ。
ひとまずリビングに案内したはいいものの、朝からみんな出かけていて無人だった家の中はむっと熱がこもっていて、外よりはまし、くらいの室温だ。
すぐにエアコンをつけ、冷たい麦茶を用意する。
製氷室の扉を開けたとき、ふとあるものが目に飛び込んできた。
思わずそれを容器ごと持ち上げて、キッチンのカウンター越しにやなぎんに見えるように掲げる。
「ねえ見てこの氷。透明!」
「うん」
少し戸惑い気味の返事。
「夏休みと言えばかき氷だよね!」
「そうなの?」
「小学生のときとか、毎年楽しみにしてたな~。てことで、食べない?」
「……いただきます」
母親がスーパーのくじ引きで当てたかき氷機用の氷だ。
使わないのももったいないと思って、夏休み初日に容器に水を入れて製氷室に放り込んでおいたのを忘れていた。
今日みたいな暑い日こそ、かき氷日和である。
「やなぎんシロップ何が好き? 今いちごしかないけど!」
「特には。あんまりかき氷食べないから……」
「そうなんだ、苦手とかじゃない?」
「大丈夫」
話しながら、脚立に乗って冷蔵庫の上の箱を取る。
かき氷機なんて普段使わないから、取るのにも一苦労だ。
「かき氷食べると、舌がシロップの色になるよね」
「あの、沢渡さん、気をつけて」
わたしが高いところに上っているからか、やなぎんが思わずといったように腰をあげる。
「大丈夫だよ、もう降りた」
「うん……」
まだ少し心配そうな顔で、やなぎんがキッチンまでやってくる。
箱から取り出して、取り外した部品をさっと洗っていると、手元に視線を感じる。
「かき氷作ったことある?」
「ない」
「じゃあ作ろ!」
道具をそろえてダイニングテーブルへ。すっかり存在を忘れていた麦茶のグラスも運んで、いざかき氷。
「これ、たぶん在庫整理で景品になってたやつだから、ちょっとちゃっちくて手動なんだよね」
「家庭用にも電動のとかあるんだ」
「たぶん。高いやつ」
ガリガリと音を立てながらハンドルを回し、氷を削っていく。
ガラスの器にさらさらと落ちていく氷のかけらが、白くきらめいた。
自分の分は自分で削る方式で、一つの器がいっぱいになったところで交代する。
やなぎんは少し慎重な手つきで氷を削った。
氷を削る音だけが響く時間が過ぎた後、いっぱいになった器を取り出して、彼はどこか満足そうに頷く。
「こういうの、やっぱり……小学生だったらもっと楽しいのかな」
「え?」
「あ、いや……うちにもあったら、弟が喜ぶかなって」
その言葉に、シロップをかけていた手が止まった。
「おとうと?!」
「沢渡さん、それ、シロップが」
「わわ、かけすぎた……! やなぎんの氷と交換してもいい?」
「いいよ」
真っ赤に染まってしまった氷をやなぎんの器にある真っ白な氷と交換すると、ちょうどいい塩梅のかき氷が二つ出来上がった。
シロップをかける楽しみを奪われた彼に申し訳なく思いながら、溶け出す前にスプーンを手に取る。
冷たくて甘い。
……て、そうじゃなくて。
「やなぎん弟いたっけ!? いくつ?」
「今小1」
「ちっちゃい! え、じゃあ、わたしたちが小学生だったころ産まれたか産まれてないかくらい?」
かき氷をまた口に運んで、やなぎんは頷く。
「僕が5年生のときに産まれた」
「知らなかった……」
5年生のときといえば、一番仲がよかったころだ。
でも、弟くんの話なんて、一度も聞いたことがない。
呆然とするわたしを見て、困ったように彼は目を伏せた。どこか寂しそうなその顔に、そんな顔をさせたかったわけじゃないのに、なんて考えが浮かぶ。
「たぶん、誰にも言ってなかったと思う。母親も弟も、しばらく入院してて……特に弟は、大きくなれるかわからないって言われてたから」
「そう、だったんだ」
あの頃の彼がずっとどこか寂しそうで、心ここにあらずなようだった理由の一端が、わかった気がした。
上手く言葉を返せないわたしをじっと見て、彼は優しく笑った。
「今はもう、元気すぎるくらい元気だよ」
「そっか……やなぎん、お兄ちゃんなんだ」
いいなあ。優しくて穏やかなお兄ちゃん……わたしにも一人いるけど。
しばらく二人、無言でかき氷を食べながら、きっと考えているのはこの場にいない兄弟のことだったと思う。
最後の一口を食べ終わるタイミングが同時で、どちらともなく顔を見合わせる。
「うん、いっしょにかき氷、きっと弟くん喜ぶよ」
わたしの言葉に、やなぎんは嬉しそうに目を細めた。
そのとき、そんな穏やかな時間をぶち破る騒々しい音が玄関から響くとともに、大きな声が。
「ただいまー」
「うわ。もう帰ってきた」