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8月、傘の下の足元は暗い



「誰か来てる?」


 そう言いながらリビングにひょこっと顔を出したのは、下の兄の柊である。

 柊はその、顔を出した体勢のままぽかんと口を開けた。


「え、は?」


 家族として恥ずかしい間抜け面をさらしたままの兄に、やなぎんはぺこりと会釈した。


「こんにちは、お邪魔してます」


 その声に停止していた脳みそが動き出したのか、柊が叫ぶ。

 

「柚が男連れこんでる!」

「柊うるさい! 挨拶してるのに失礼!」


 わたしが怒っているのも意に介さず、柊は何食わぬ顔で会釈を返した。

 

「どうも兄です。はじめまして」

「はじめましてじゃないよ」

「あ?」


 わたしのつっこみに不思議そうな顔をする柊に向けて、やなぎんが律儀に訂正する。


「いえ、挨拶するのは初めてです」

「え、誰」

「小学校おんなじだった柳くん。おうち二丁目だから集団下校班一緒だったよ」


 ちなみにうちは一丁目。一丁目と二丁目は近いのと人数が少ないのとで、ひとまとめにされていたのだ。

 ね、とやなぎんの方を見ると、彼はうんと頷く。


「あー、あ? あ!」


 柊は記憶を探るように目線を上にやり考え込んだかと思うと、やがてぱっとひらめいたようだ。


「あの柚が一方的に話しかけてた大人しい子か!」


 思い出してこれである。

 

「そんな言い方しなくたって……」

「大丈夫、聞いてたよ」

「よかった!」


 むくれたわたしに、やなぎんが取りなすように言ってくれる。

 そのやりとりを見て、柊は何かに感づいたようににやっと笑った。

 この笑い方をするときはろくなことを考えていないので、すごく嫌だ。


「へー。よかったな柚。相手してもらえて」

「ほんとうるさい……いつもみたいに早く部屋行きなよ」


 からかうネタを見つけたとばかりに、柊はリビングに居座ろうとする。

 背負っていたリュックを適当に床に置き、キッチンで手を洗い始めた。

 

「かき氷食わせろ」

「柊の分作ってない」

「はあ? 氷ありゃいくらでもできるだろ」

「もうお邪魔虫やめて……」


 言い争うわたしたちに、やなぎんは感想を一言。


「お兄さんのこと、呼び捨てなんだね」


 わたしは慌てた。

 

「え、引かないで」

「いや引いてないけど」


 やなぎんはわたしの慌てように困惑している。

 柊は大げさに顔をしかめてみせた。

 

「ありえねえよなー」

「だってわたしにとってお兄ちゃんって椋にいだし」

「もっと敬えよ俺のことを」


 敬われるような言動をしてから言ってほしい。

 麦茶を飲みながらわたしたちのやりとりを眺めていたやなぎんは、遠慮がちに口を開く。

 

「椋さんって、前に沢渡さんが貸してくれた本の持ち主の?」

「そう! きっとやなぎんと話合うと思うな」

 

 読書傾向が似ている気がする。

 話すときの態度の違いに、柊はうへえと顔をしかめた。

 そんな顔をするくらいなら、からかおうとか思わずほっといてくれればいいのに。


 なんだかんだうるさい柊も交えてひとしきり涼んだら、約束の本を用意しておひらきに。

 玄関まで見送りに出たわたしを振り返って、やなぎんは何かを言いかけてやめた。


 夕方でもまだ明るい空の下、夕焼けすら遠い日を背にした彼を見て、急に二人っきりであると意識してしまう。

 ぎこちない空気をどうにかしたくて、笑みを作る。


「今日はごめんね、騒がしくて」


 やなぎんが首を振ると、本の入った紙袋ががさりと音を立てた。

 

「……にぎやかで楽しかったよ」

「う、なんか気を遣わせた」

「いや、本当に。沢渡さんの生育環境が垣間見えたというか」

「生育環境」


 おうむ返ししたわたしに、彼は慌てて早口になる。

 

「ごめん言葉選びがよくなかった」

「大丈夫、伝わったから」

「うん」

 

 そしてまた、沈黙。

 名残惜しい気持ちがあったけど、引き留める話題も浮かばない。


 帰っていく背中が見えなくなってから、家に入った。

 

 こういう、「いつもの日常」の中に彼がいるのがなんだかすごく楽しくて、上機嫌でリビングに戻る。

 すると、ソファにだらしなく転がってスマホをいじっていた柊が顔をあげた。


「で、マジで彼氏?」

「うるさい!」


 柊にだけは、しばらく隠しておくべきだったかもしれない。









 ***


 早くも夏休み2週目に突入した、ある夕方。

 今日は一日中、大学を会場とする模試があって、頭をたくさん使ったとき特有の疲れがすごくて。

 慣れない駅のホームであくびをかみ殺していたら、控えめに肩を叩かれた。


 振り向くと、ちょっと所在なさげにやなぎんが立っている。


「お疲れさま!」


 すごい、疲れがふっとんだ。

 急に明るくあいさつをしたわたしに、彼も表情を和らげる。


「お疲れさま。今回の古文、難しくなかった?」

「難しかった……お話は面白かったけど」

「たしかに。狐の話だったね」

「ね!」


 帰宅ラッシュの時間帯、混みあう電車に揺られること十数分、最寄り駅で降りたわたしたちは慣れた道を歩きながら会話を再開する。

 すると、やなぎんが少し言いづらそうに切り出した。


「ごめん、今日スーパー寄るから、ここで」


 帰り道の途中にあるスーパーの近くまで来て、気まずそうにしている。


「おつかいとか? お母さん、お仕事忙しいんだよね」

「今日、急な出張らしくて。夜ご飯の買い物」

「えっ、やなぎんが作るの?」


 驚くわたしに困ったような笑みを返して、彼は続ける。

 

「うん。僕だけなら適当に済ましてもいいんだけど……弟もいるから」

「そっか。なんか手伝おうか?」


 そう言うと、やなぎんは少し考えてから。

 恥ずかしそうに、こう言った。


「……実は、メニューも決まってなくて。買い物付き合ってもらってもいいかな」

「もちろん!」


 スーパーに向かって歩き出しながら、やなぎんの料理スキルについて確認する。

 彼曰く、調理実習くらいしか経験がないらしい。


「簡単に作れるごはんか……弟くん、好きな食べ物とかあるの?」

「ハンバーグ」

「んん、いきなりはハードル高いかも。他には?」


 即答だったからそれだけ好きなんだろうけど、初心者には少し厳しい気がする。

 やなぎんは少し目線を上にやって考えてから、答える。

 

「からあげ」

「揚げ物はやめておこう」


 見事にちっちゃい男の子が好きそうなおかずだけど、どれも簡単ではない。

 やんわり先手を打つと、やなぎんは困ってしまった。

 

「……他も揚げ物ばっかりかも」


 悩み始めてしまった彼を前にして、わたしも必死に考える。

 

「うーん……丼ものとかだと付け合わせ考えなくていいから楽だと思うんだけど」

「あ、親子丼も好きだ」

「それだ!」


 無事にメニューが決まって、足取りも軽くスーパーの中へ。


 夕方のスーパーは混みあっている。

 慣れていないやなぎんを先導しながら、なんとか材料を買いそろえた。

 と言っても、玉ねぎやお米は常備されているらしいから、卵と鶏肉と、お味噌汁用に豆腐と青菜くらいだ。


 激混みスーパーから脱出して、やなぎんはほっとしたように息をついた。

 

「ありがとう、沢渡さん」

「いいえー」

 

 そうして今度こそ帰途についたとき、顔に冷たい雫があたった。


「え、もう?」


 今朝お母さんが見ていた天気予報で、雨は夜降り始めるって言っていたのに。

 念のため持ってきていた折り畳み傘をごそごそと鞄から取り出していたら、やなぎんが困った顔で空を見上げていた。


「傘……」

「ちょっと小さいけど、入っていく?」


 傘を広げながらそう聞くと、彼はすまなそうに頷いた。

 

「お願いします」

「弟くん待ってるだろうし、やなぎんのおうちまで行くね」

「ありがとう、何から何まで」


 そんなに申し訳なく思ってほしくなくて、わたしは笑顔を作った。


「気にしないで!」


 いつもより距離の近い、傘の下。

 ぽつぽつと響く雨音と、傘の中で聴く彼の声は、なんだかいつもと違って聴こえる。


 ……ちょっとだけ、ドキドキしてきたかも。


 それについて考えだすととてもこのまま隣を歩いてなんていられなさそうで、わたしは別のことを考えようと必死だった。

 ようやく思いついた話題を、口に出す。


「そうだ、レシピ!」

「……親子丼の?」

「そう。お料理の本とかあるの?」

「ない。ネットで探そうかなって」

「それなら、わたしがよく使うサイト、送るね。わかりやすくて便利なんだよ」

「助かる。ありがとう」


 隣の彼がちょっと微笑んだような気がして、じっと見てしまう。

 横顔が綺麗だな、なんて、ふと気がついて。


 あまりにも見つめていたからか、やなぎんはちろっとわたしに視線を向けた。

 目がばちっとあって、わたしがずっと見ていたことを知ったのだろう。


 彼はうろたえたように視線を彷徨わせる。


「っ、なに」

「ううん」


 かすかに頬が赤くなっているのに気がついて、わたしも猛烈に恥ずかしくなった。

 誤魔化すように慌てて首を横に振る。





 そんな風に、夏休みを過ごしていく中で。

 彼はだんだん、たくさん笑ってくれるようになって。

 でも、夏休みの終わりが近づくとともに、ふとしたときに寂しそうな、辛そうな顔もするようになって。


 ひたひたと、冷たい足音が近づいてきていた。



 

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