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夜間外来、午前二時――追放された研修医は命と暮らしをつなぐ  作者: 伊達ジン


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第3話 消えた麻痺

 梅雨の湿気がさらに重みを増した、六月下旬の午前三時半過ぎ。昼間に降り続いた雨がアスファルトに染み込み、深夜になってねっとりとした熱気となって川浜区の町を包み込んでいる。


 川浜夜間急病診療所の裏口付近から聞こえ始めた救急車のサイレンは、重く淀んだ夜の空気を切り裂きながら急速に近づき、表の車寄せでふっと途絶えた。赤い回転灯の光が、ガラス張りの待合室に規則正しい影を落としている。


 つい先ほど、過換気症候群の若い女性が帰宅したばかりだったが、休む間もなく次の急患だ。「今は症状が消えていても、見逃せません」と、ホットラインを取った近藤に一郎が即答してから、わずか数分後のことである。


 処置室では、木村一郎がすでに真新しいゴム手袋をはめ、入り口の自動ドアへ真っ直ぐに視線を向けていた。その隣では、看護師の林心が静脈路確保のキットと心電図モニターをワゴンに準備し終えている。過換気症候群の患者の一件からまだ一時間も経っていないが、二人の間に不要な言葉はない。次に搬送されてくる患者の想定されるリスクだけを、それぞれが無言のうちに共有していた。


 受付カウンターの奥では、清水冴子が新しいカルテの画面を開きながら小さく息を吐いた。口では皮肉を言いながらも、そのタイピングの速度は尋常ではない。救急隊からの情報を一言も聞き漏らさぬよう、耳をそばだてている。


 自動ドアが開き、ストレッチャーが滑り込んできた。


「搬入します!」


 張りのある声とともにストレッチャーを押してきたのは、小柄な体躯を全く感じさせない、重心の安定した立ち姿の女性救急隊員だった。


 後ろでまとめられたダークブラウンの長い髪が、キビキビとした歩調に合わせて揺れる。小さなハート形の顔立ちに配された大きな瞳は、深夜の出動特有の疲労など微塵も感じさせず、強気な知性と隙のない緊張感に満ちていた。川浜区内消防署の無機質な救急服をまとっていても、不思議と隠しきれない都会的な華やかさが、その端正な横顔から漂っている。


「救急隊の阿部です。木村先生ですね。申し送りします」


 阿部彩は、ストレッチャーを所定の位置に固定するのと同時に、手元の記録ボードに視線を落とさずに言った。大病院から左遷されてきたという『問題研修医』を値踏みするような鋭い視線が、一瞬だけ一郎に向けられる。


「七十八歳、男性。発症は午前二時四十五分頃。深夜にトイレに起きた際、廊下でうずくまっているのを家族が発見しました。発見時、右半身の脱力と、ろれつが回らない症状があったとのことです」

「発見時の右半身の脱力は、完全な麻痺でしたか、それとも不全麻痺でしたか。また、言葉は単語が出ない失語か、発声の障害である構音障害か、どちらでしたか」


 一郎の即座の質問に、彩の目がわずかに見開かれた。救急隊の報告を適当に聞き流す医師も少なくない中、この若い研修医は、彼女が持ってきた情報の『医学的な核心』だけをピンポイントで要求してきたからだ。


「家族の証言と現場での状況から、右上下肢ともに自力でわずかに持ち上げられる程度の不全麻痺。言語は、理解は良好でしたが、明らかな構音障害でした」


 彩は一切つっかえることなく、的確に返答する。


「救急隊現着が午前三時十分。その時点で構音障害は改善傾向にありました。車内収容後の三時二十分には、右半身の脱力も消失。現在、意識は清明、SpO2九十七パーセント、血圧は百五十の九十です」

「完璧な申し送りです。ありがとうございます」


 一郎は淡々と告げると、ストレッチャー上の高齢男性を見下ろした。


「木村と申します。今、ご気分はどうですか」

「いやぁ、先生。もう何ともないんだよ。トイレ行く途中でちょっと足がもつれて転んだだけで、カミさんが大げさに救急車なんて呼ぶから。こんな夜中に迷惑かけちゃって、本当に申し訳ないねえ」


 男性は苦笑いしながら、ベッドの上で右腕を上げ下げしてみせた。付き添いで乗ってきた妻も、夫が普段通りに喋っているのを見て、申し訳なさそうに肩をすくめている。深夜の受診に対する高齢者特有の気兼ねが、夫婦の言葉の端々に滲んでいた。


「ほら、この通り。手も足も動くし、喋るのも普通だ。もう帰ってもいいだろう?」

「確認させてください」


 患者の楽観的な言葉に同調することなく、一郎はペンライトを取り出した。


「真っ直ぐ、僕の鼻を見てください」


 ペンライトの鋭い光が患者の瞳孔を照らす。対光反射、眼球運動の確認。続いて、顔面の非対称性の有無、口角の動きを見る。額のしわ寄せから頬の膨らみまで、左右差が微塵も残っていないかを精緻に観察していく。


「両腕を前に真っ直ぐ伸ばして、手のひらを上に。そのまま目を閉じて、十秒間キープしてください」


 バレー徴候の確認。右腕が回内しながら下がる様子はない。一郎の目は、わずかな筋力の低下すら見落とさないよう、鋭く患者の両腕に向けられていた。続いて下肢の筋力テスト、腱反射、感覚障害の有無。痛覚や触覚の左右差を確かめる手技にも一切の無駄がない。一郎の診察は流れるように速く、そして抜けがなかった。心がその手順に合わせて、素早くバイタルサインを再確認し、数値を記録していく。


「……確かに、現在は明らかな神経学的異常所見は認められません」


 一郎が診察を終え、ペンライトをポケットにしまった。


「それ見ろ、やっぱり何ともないじゃないか。ただの立ちくらみだよ。さあ、母さん、帰るぞ」


 男性が安堵の息を吐き、妻もようやく強張っていた肩の力を抜こうとした。だが、一郎の表情は一ミリも緩んでいない。


「帰宅はできません」


 冷や水を浴びせるような一郎の断言に、患者夫婦の動きが止まった。後ろで控えていた彩も、すっと目を細める。


「動くから問題ない、のではありません。なぜ、三十分前には動かなくなったのかが問題なんです」


 一郎は患者の目を真っ直ぐに見据えた。


「症状が完全に消退している現在の所見と、阿部さんが現場で確認した発症時の経過。これを統合すると、脳の血管が一時的に詰まり、その後再び血流が再開した『一過性脳虚血発作』が最も強く疑われます」

「のうきょけつ……?」

「簡単に言えば、脳梗塞の極めて危険な前触れです。詰まっていた血栓がたまたま溶けて流れたから、今は症状が消えているだけです。しかし、根本的な原因である血管の狭窄や、心臓から飛んでくる血栓の元はそのまま残っている。TIAを起こした患者は、数日以内、早ければこの後数時間以内に、本物の脳梗塞を発症するリスクが非常に高い状態にあります」


 一切のオブラートに包まない事実の提示。だが、先ほどの過換気症候群の若い女性の時とは異なり、高齢の患者に重大なリスクを直視させるためには、この明確さが必要だった。一郎の妥協のない声音に、患者も妻も言葉を失い、事態の深刻さを徐々に理解し始める。


「この診療所には、脳の血管の状態を詳細に確認できるMRIがありません。今すぐ、高度な画像検査と入院対応が可能な病院へ移っていただきます」


 患者が呆然とする中、一郎は振り返り、処置室の入り口に立っていた指導医の近藤を見た。


 近藤はすでに一郎の診察プロセスと、彩の申し送りを横で聞いていた。若い研修医が導き出した結論に、指導医として一切の異論はない。彼はゆっくりと頷き、患者のベッドサイドへ歩み寄る。


「木村先生の言う通りです。私も確認しましたが、一時的とはいえ明らかな局所神経症状があった以上、そのままお返しすることはできません。すぐに転送先を探しましょう」


 制度上の診療責任者である近藤が最終判断を下したことで、現場の動きは一気に加速した。


「私が東都中央と、近隣の二次救急に受け入れを当たります。清水さん、この方の今までの受診歴と、紹介状のひな型を出しておいて」

「はい、すぐに!」


 近藤の指示に、受付カウンターの冴子が即座にパソコンのキーボードを叩き始める。深夜の転送先探しは病床の逼迫によって難航することが多いが、冴子の事務処理速度に迷いや遅れは一切ない。


 心はすでに患者にルートを確保し、転送に備えた準備を整えていた。


「大丈夫ですよ。今から専門の病院でしっかり診てもらいますからね」


 心が不安げな患者の妻に寄り添い、落ち着いた声でフォローを入れる。


 処置室の隅で、その鮮やかな連携を見ていた彩が、一郎の隣に並んだ。


「驚きました」


 彩は腕を組み、一郎の横顔をまっすぐに見上げて言った。


「症状が消えてる患者を見ると、『ただの寝ぼけだろ』って嫌な顔をする医者も少なくないのに。私の申し送りを、一言一句こぼさずに診断に使いましたね」

「的確な申し送りでしたから」


 一郎はカルテに所見を書き込みながら、淡々と答えた。


「阿部さんが現場で発症時刻と局所神経症状の程度を正確に拾っていなければ、ただの立ちくらみとして見逃されるリスクがありました。現場にいなければ取得できない一次情報です。当然、最大限に評価します」


 彩は一瞬、言葉を失った。自分の思考のさらに先を行く、的確な判断速度。そして、噂の『問題研修医』が、こちらの仕事を真っ直ぐに見て評価しているという事実に、視線が一瞬だけ泳ぐ。


(……これほどの判断力。問題研修医って聞いてましたけど、噂を疑いたくなるレベルですね)


 心の中でつぶやいた本音を隠すように、彩は少しだけ顎を上げた。


「……そこまで読んでたんですか。でも、次は私の方が先に見つけますから」


 彩の挑発的な言葉に、一郎はカルテから顔を上げることなく短く返した。


「期待しています」


 やがて近藤が近隣の二次救急病院のベッドを確保し、患者は再びストレッチャーに乗せられて救急車へと戻っていった。紹介状を受け取った彩が、再びストレッチャーの横に立つ。


「じゃあ、木村先生。また」


 彩は不敵な笑みを一瞬浮かべると、背を向けて救急車へと戻っていった。


 遠ざかっていくサイレンの残響を見送るように、診療所にはまた、束の間の静寂が戻った。


「……なんだか、ピリッとしてましたね。あの救急隊の人と」


 後片付けをしながら、心がぽつりと言った。彼女の目には、一郎と彩の間に生じた、能力をぶつけ合うような独特の緊張感が見えていた。


「そうですか? 正確な情報を持ってくる、優秀な救命士だと思いますが」


 一郎が首を傾げたその時。


 受付で転送の事務処理を終えたばかりの冴子が、鳴り響いた外線電話の受話器を慌てて取った。


「はい、川浜夜間急病診療所です。……えっ? ああ、いつも出前でお世話になってる『いしい』さん。どうしました?」


 冴子の声が、にわかに緊張を帯びる。


「……店主さんが? 急に胸を押さえて倒れた?」


 その言葉を聞いた瞬間、一郎はすでに処置室の入り口へと歩み出していた。


 午前二時から始まった果てしない夜の戦いは、まだ終わらない。

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