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夜間外来、午前二時――追放された研修医は命と暮らしをつなぐ  作者: 伊達ジン


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4/4

第4話 父の代わりに決める娘

 梅雨の湿気がさらに重みを増した、六月下旬の午前三時半過ぎ。昼間に降り続いた雨がアスファルトに染み込み、深夜になってねっとりとした熱気となって川浜区の町を包み込んでいる。

 受付カウンターの電話を保留にした清水冴子の声が、深夜の待合室に鋭く響き渡った。


「木村先生! 『いしい』の娘さんから。店主さんが厨房で胸を押さえて倒れたって!」


 その言葉が耳に届いた瞬間、木村一郎はすでに処置室の入り口へ向かって歩み出していた。つい先ほど一過性脳虚血発作を疑う高齢患者を転送したばかりだが、その歩調には一切の躊躇いがない。重く湿った空気を切り裂くように、終わらない夜間外来の戦いは次の局面に移行しようとしていた。


「救急車は?」

「呼ぼうとしたら、親父さんが『大げさにするな、すぐそこの夜間診療所に連れて行け』って聞き入れなくて。今、娘さんが車に乗せてこっちに向かってるそうです。お店からなら三分もかからないわ」


 冴子はキーボードを叩き、新しいカルテの画面を瞬時に立ち上げながら答える。


「『いしい』の店主、石井さん……五年前の風邪の受診歴しかカルテがありません。既往歴不明です!」


 その言葉が響き終わるより早く、一郎は処置室に飛び込んで新しいゴム手袋を引きちぎるように両手にはめた。ゴムが軽く弾ける短い音が、静まり返った部屋に響く。

 隣の林心はすでに裏口へストレッチャーの頭を向け、心電図モニターの電源を立ち上げていた。数分後に滑り込んでくるであろう未知の病態に備え、互いの動線を確認し合う二人の間に、いまさら指示を仰ぐような言葉は一言も必要なかった。心は点滴ルート確保のワゴンを素早く引き寄せ、留置針、採血スピッツ、細胞外液のパックなど、必要な物品に過不足がないかを視線だけで確認している。


 一郎は処置台の横に立ち、待機する短い時間の中で、頭の中に心筋梗塞、大動脈解離、肺塞栓といった致死的胸痛の鑑別リストを並列に走らせていた。ふと、ベッドシーツの中央に走る折り目がベッドの縁に対して数ミリ斜めにずれていることが視界の端に引っかかった。彼は無意識に手を伸ばし、シーツを軽く引っ張って完全に平行になるよう整える。


 数分後、裏口の自動ドアが乱暴に開いた。


「すいません! 誰か、手伝って!」


 切羽詰まった若い女性の声とともに、女性としてはすらりと背の高い人影が、初老の男性を半ば抱え込むようにして入ってきた。

 深夜に叩き起こされたのだろう。高校指定のジャージズボンに大きめのTシャツというラフな格好の少女――石井みずほは、額に汗をにじませながら父親の重みを必死に支えていた。百六十五センチほどの細身の身体で、長い手足をぎこちなく動かして父親の身体をストレッチャーへと移そうとする。無造作に切り揃えられたダークブラウンのレイヤーミディアムの髪が汗ばんだ首元に張り付き、シャープな顎のラインに沿って滴が零れた。整った細い鼻筋の横、気の強そうな横長の瞳には、隠しきれない動揺が激しく揺れている。


「ストレッチャーに乗せます」


 一郎と心が即座に向かい、店主を仰向けに寝かせた。

 店主の顔色は青白く、額にはべっとりと冷汗が浮かんでいる。呼吸は浅く速い。胸のあたりを右手で弱々しく掴み、苦しげに顔を歪ませていた。


 一郎の視線が、瞬時に患者の全身を走る。

 首に巻かれたタオルの湿り具合、Tシャツに染み付いた古い油の匂い、右手の指先にできた厚い包丁ダコ、そして、乾燥してひび割れた唇。


「石井さん。木村と申します。胸のどのあたりが、どのように痛みますか。指で示してください」


 一郎が静かに、しかしはっきりとした声で問いかけた。


「……厨房で急にしゃがみこんで、胸が苦しいって言い出して……」


 隣でストレッチャーにしがみつくようにして、みずほが早口でまくしたてる。


「最近ずっと夜中まで仕込みしてて、寝不足だったんです。だから無理するなって言ったのに……!」

「すみません」


 一郎は振り返り、言葉を遮るようにみずほへ告げた。


「今、ご本人に質問しています。痛みの位置や感覚は、ご自身の言葉でなければ正確に評価できません。少し待ってください」


 その言葉はひどく丁寧だったが、語気には他者が介入する余地を一切許さない硬さがあった。心筋虚血に伴う「絞扼感」なのか、大動脈解離のような「引き裂かれるような痛み」なのか。患者本人の主観的な感覚は、初期の鑑別において極めて重要な一次情報となるからだ。


 みずほはむっと眉をひそめた。


「でも、父は声も出せないくらい苦しそうで――」

「ですから、正確な情報が必要なのです。ご家族の代弁では、重要な事実が歪む可能性があります」


 一歩も引かない若い医師の態度に、みずほの表情に明らかな苛立ちが浮かぶ。彼女は父親を心配するあまり、自分が状況をコントロールしなければという強い義務感に駆られていた。


 一郎は再び店主に向き直る。

 心はすでに店主の胸に電極を貼り付け、モニターのスイッチを入れていた。


「血圧九十八の六十、脈拍百三十、不整脈があります。SpO2は九十五パーセントです」


 心の丁寧だが無駄のない報告と同時に、心電図の波形が画面に流れる。RR間隔が絶対的に不規則に乱れ、正常な洞調律を示すP波が消失、代わりに基線が細かく揺れるf波が出現していた。


「石井さん。痛みではなく、心臓が早く打つような強い動悸ですね」


 一郎の問いに、店主はわずかに目を開け、かすれた声で答えた。


「……ああ。心臓が、口から飛び出しそうで……息が、うまく吸えないんだ……」

「いつからですか」

「さっき……仕込みの、途中で……」

「心房細動です」


 一郎はモニターから目を離さずに言った。


「皮膚のツルゴール低下と口腔粘膜の乾燥から、中等度以上の脱水が見られます。林さん、静脈路確保、細胞外液を全開で。採血はトロポニンも含めて」

「了解です。直ちにルートを確保し、採血を行います」


 心は簡潔に返答すると、細い指先を迷いなく動かした。アルコール綿で患者の腕を消毒し、静脈を的確に捉えて針を進めていく。


 一郎は再びみずほを見る。


「石井さん。お父様の本日の水分摂取量は分かりますか。それから、発熱や下痢は」

「水分……店にいる間はお茶を飲んでるはずですけど。熱はないはずです」

「『はず』ではなく、確定した事実が必要です。見ていないなら、見ていないと答えてください」


 一郎の異常なほどの正確さへの執着に、みずほの苛立ちは頂点に達しようとしていた。


「見てませんよ! 私は高校の生徒会の仕事で、夕方まで店にいなかったんだから! そんなことより、早く大きい病院に送ってください。ここで様子見てて、もし心臓の病気だったらどうするんですか!」


 みずほの強い指示に対し、一郎は手元の電子カルテの画面に数値を打ち込みながら淡々と答える。


「搬送の必要性は僕が判断します。現在、重度の脱水と過労が引き金となって、心房細動という頻脈性の不整脈を起こしている状態です。まずはここで輸液による初期治療を行い、心拍数が落ち着くかを確認するのが先決です」

「でも、素人目に見ても危なそうじゃないですか!」

「素人目だからこそ、不安になられるのは当然です」


 一郎はペンを置き、みずほの瞳に、静かだが反論を許さない確固たる視線を定めた。


「しかし、現在の心電図波形と身体所見に、心筋梗塞など直ちに命に関わる虚血性心疾患を示す兆候は一つもありません。状態が不安定なまま移動させる方が、今はリスクが高いと判断します」


 妙に丁寧な敬語のまま、理詰めで完全に退路を塞がれる。みずほは悔しそうに唇を噛んだ。


(なんなの、この人。若いくせに偉そうに……)


「一つ確認させてください」


 一郎が、ふと店主の顔元へ顔を近づけた。


「石井さん。倒れる直前、あるいは今日一日の間に、濃いコーヒーか、カフェインの強い栄養ドリンクを大量に飲みませんでしたか」


 その問いに、みずほと店主が同時に目を見開いた。


「……どうして、分かるんだ……」


 店主が荒い息の下でつぶやく。


「最近、徹夜で仕込みをするのに……眠気覚ましの強いドリンクを、一日に三、四本……」

「唇の端と歯に、わずかに特有の着色が残っています。それに、この服の油の匂いに混じって、栄養ドリンク特有の甘い匂いが少しだけします」


 一郎は何事もなかったかのように事実だけを告げる。


「カフェインの過剰摂取は交感神経を強く刺激します。睡眠不足、脱水、そこへ大量のカフェインが加わったことが、今回の不整脈の最大の引き金でしょう」


 みずほは言葉を失った。

 匂い? 着色? そんなもの、毎日一緒にいる家族ですら気にも留めないような些細なことだ。この奇妙なほど細かい若い医師は、父親を一目見ただけでそこまで見抜いたというのか。彼女の中で、反発と同時にどうしようもないほどの驚嘆が湧き上がっていた。


 点滴が入り始めて十分ほどが経過すると、脱水が改善されてきたのか、モニター上の心拍数が百十台へと少し落ち着きを見せ始めた。店主の顔色にも、ほんのわずかだが赤みが戻ってきている。心はすかさず血圧の再測定を行い、安全域にあることを目で一郎に知らせた。


「石井さん。少し息がしやすくなりましたね」

「……ああ。さっきより、ずっと楽になった」


 店主が安堵の息を吐く。


 一郎はカルテを持ったまま、処置室の隅で一部始終の様子を見守っていた近藤の方を向いた。


「近藤先生。輸液負荷にて自覚症状と頻脈は改善傾向ですが、新規発症の心房細動疑いとして、念のため循環器内科での精査が妥当と考えます。転送先への照会をお願いできますか」

「分かりました」


 近藤が小さく頷く。


「症状が落ち着いてきているなら、救急車ではなく自力受診の形でも受け入れてもらえるか、東都中央に当たってみます。今夜は救急隊も出払っていることが多いですからね。清水さん、紹介状の準備をお願い」

「はい、承知しました!」


 受付から冴子の力強い返事が返ってくる。


 指導医の最終確認を得て、一郎は静かに一息ついた。

 ふと、傍らの機材ワゴンの上に置かれた消毒用アルコールのボトルの向きが、自分から見てわずかに斜めになっていることに気づいた。無意識に細長い手が伸びかけたが、近藤が電話をかけるために動いた気配に促され、そっと手を下ろす。


 その一連のやり取りを見ていたみずほは、胸の奥で複雑な感情を持て余していた。

 やたらと細かくて、人の言葉尻を捕らえ、絶対に自分の非を認めないような頑固さ。人間としては全く好感を持てない。しかし、父親の命に関わるかもしれない状態を前にして、この若い医師の目は、誰よりも早く、そして正確に事実だけを捉えていたのだ。


「……木村先生、でしたっけ」


 みずほが、先ほどまでの刺々しさを少しだけ引っ込めて呼びかけた。


「はい。木村一郎です」


 一郎が振り返る。


「親父の転送先が決まったら、もう一度、私にもちゃんと説明してくださいね」


 みずほは、負け惜しみのようにわざとぶっきらぼうな言い方をした。


「……素人でも分かるように、専門用語抜きで」


 挑発とも取れるその言葉に対し、一郎の表情は少しも崩れなかった。


「専門用語を一切使わずに、正確な病態を説明するのは非常に困難です」


 一郎は大真面目な顔で答えた。


「ですが、可能な限り努力はします。ご家族の正しい理解は、今後の治療に不可欠ですから」


 冗談や皮肉が全く通じていないその真面目すぎる返答に、みずほは毒気を抜かれたように、ふっと鼻で笑うような息を吐いた。


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