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夜間外来、午前二時――追放された研修医は命と暮らしをつなぐ  作者: 伊達ジン


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第2話 息ができない夜

 梅雨入りした六月中旬の川浜区は、日付が変わってもねっとりとした湿気がまとわりついていた。昼間に降った雨がアスファルトの熱で蒸発し、深夜の空気を重くしている。

 川浜夜間急病診療所の待合室は、今のところ静まり返っていた。壁掛け時計の針が、午前二時を回ったことを示している。


 受付カウンターの内側で、医療事務員の清水冴子がパソコンの画面から視線を外し、小さく伸びをした。医療機関の受付としての清潔感を守りつつも、綺麗に切りそろえられた明るいベージュブロンドのボブヘアが、深夜の蛍光灯の下で目を惹く。


「今日は今のところ、平和ね」


 冴子の呟きに、処置室の入り口で消毒液の補充をしていた看護師の林心が頷く。


「このまま朝までいってくれればいいんですけど。雨上がりは足元が悪くて、転倒の怪我人が増えたりしますから」

「そうね。でも、もし重症が来ても、今はちょっと安心感あるかも」


 冴子はちらりと、スタッフルームの方へ視線を向けた。


 少し開いたドアの隙間から、木村一郎の背中が見える。

 スタッフルームで医学書のページを無言でめくっている彼に対する「大病院から飛ばされてきた問題研修医」という前評判は、冴子と心の中ではすでに過去のものになりつつある。彼が持つ異常なまでの判断速度と、生命の危機を見逃さないという揺るぎない事実は、この十日ほどの勤務ですでに証明されていた。


「腕は確かよね、木村先生。まあ、愛想のなさと可愛げのなさは相変わらずだけど」


 冴子が楽しそうに目を細めると、心は軽く首を振った。蜂蜜色を帯びた髪をきちんとまとめ、長身を包むスクラブ姿には、無駄のない実務的な緊張感が漂っている。


「私たちは別に、愛想を振りまいてもらうために一緒に働いてるわけじゃありませんから」

「林さんは真面目ねえ。でも、あんなに自信満々で言い切られちゃうと、こっちも『はい、わかりました』って従うしかないっていうか。妙な説得力があるのよね」


 スタッフルームの奥で、一郎のスクラブのポケットに入ったスマートフォンが短く震えた。

 また母親から体調を気遣うメッセージが届いていたが、一郎は画面を伏せてため息を吐く。医学のような明快な答えのない『家族』という問題から、彼は今も目を背け続けていた。


 パイプ椅子から立ち上がり、一郎はスクラブのポケットに携帯灰皿を突っ込んだ。


「少し、外の空気を吸ってきます」

「いってらっしゃい。急患が来たら呼びますからね」


 冴子の声に短く頷き、一郎は診療所の裏口へと向かった。


 いつものように自動販売機の明かりが落ちる裏口へと向かい、煙草に火をつけた。重く淀んだ梅雨の夜気へと、白い煙が静かに溶けていく。

 東都中央医療センターの救命救急部門から外され、この夜間診療所に配置されてから、十日ほどが経つ。設備の限られたこの場所で自分がやるべきことは、ただ一つ。見落とせば命に関わる病態を、誰よりも早く正確に見抜くことだ。

 煙草が半分ほど短くなったとき、表の自動ドアが勢いよく開く音が聞こえた。

 続いて、冴子の少し張った声と、慌ただしい足音が響く。


 一郎は即座に煙草をもみ消し、携帯灰皿に放り込んで裏口のドアを開けた。


「息が、苦しい……っ、はぁっ、はぁっ……!」


 待合室には、居酒屋の黒いポロシャツとサロンエプロンを着た若い女性が、付き添いの男性に抱えられるようにして座り込んでいた。年齢は二十代前半。汗で額に張り付いた短い茶髪を振り乱し、胸を激しく上下させ、肩で息をしている。顔は恐怖に引きつり、両手は不自然に強張っていた。


「急に倒れ込んで、息ができないって言い出して! お願いします、助けてやってください!」


 店名がプリントされたエプロンを巻いたままの中年男性が、パニック状態で叫ぶ。日焼けした太い首筋に冷や汗をにじませ、取り乱した様子で女性の体を支えていた。


「保険証の確認は後で結構です。すぐに処置室へ!」


 冴子がカウンターから飛び出し、ストレッチャーを指し示した。初日の夜、手続きを優先しようとして一郎と衝突し、あやうく心筋梗塞を見落としかけた一件が、彼女の頭には焼き付いている。この生意気な研修医の『命が先』という極端な優先順位に、実務的に合わせる方が賢明だと、冴子なりに判断した結果だった。

 駆けつけた心が、女性の腕を支えて処置室のベッドへ誘導する。


「大丈夫ですよ、ゆっくり横になって」


 一郎が処置室に入った時には、心はすでに患者の指にSpO2モニターを挟み、血圧計のマンシェットを巻き終えていた。


「木村先生。サットは九十九パーセント。脈拍百十五の頻脈ですが、血圧は百二十の七十、正常範囲です」


 心の的確な報告を聞きながら、一郎は無言で聴診器を耳に装着し、女性の胸部にあてた。


(肺音クリア。左右差なし。自然気胸は除外)

(喘鳴なし。気管支喘息の急性増悪も除外)

(心音は整。雑音や過剰心音なし。頸静脈の怒張なし。心不全は否定的)

(下腿の浮腫、腫脹なし。深部静脈血栓からの肺血栓塞栓症の可能性は低い。酸素飽和度も九十九パーセントで保たれている)


 診察開始からほんの数秒。一郎の脳内で、致死的な呼吸器・循環器疾患が次々と鑑別リストから消去されていく。彼の視線は、女性の強張った両手に向けられた。


「手が、痺れる……っ、指が、動かない……!」


 女性が泣き叫ぶように言いながら、両手を持ち上げた。親指が内側に曲がり、他の指がピンと伸びた状態で硬直している。過呼吸の発作によって引き起こされる、特有の痙攣症状だ。


「心電図を」


 一郎の短い指示に、心が素早く電極を取り付ける。モニターに波形が表示された。虚血性変化も、危険な不整脈も見られない。

 すべての所見が出揃った。


「心臓にも、肺にも、異常はありません」


 一郎は聴診器を首にかけ、冷徹なまでに落ち着いた声で言い切った。


「命に関わるような危険な状態ではありません。安心してください」


 しかし、一郎のその言葉は、パニック状態の女性には全く届かなかった。


「でも、息が、吸えないんです! 苦しい……っ、死んじゃう……っ!」


 過呼吸はさらに激しさを増し、女性の肩が大きく揺れる。


 一郎は患者の目を見下ろし、淡々と事実を告げた。


「あなたは今、息が吸えないのではなく、吸いすぎています。極度の緊張かストレスによって呼吸回数が異常に増加し、動脈血中の二酸化炭素分圧が低下しています。その結果、血液がアルカリ性に傾く『呼吸性アルカローシス』を呈している状態です」

「あるか、ろーしす……?」

「そうです。手足の痺れや硬直も、アルカローシスに伴う血中カルシウムイオンの低下が原因です。ですから、これ以上無理に息を吸おうとすれば、症状はさらに悪化します」


 医学的には正確無比な説明だった。だが、息苦しさにパニックを起こしている患者にとって、「アルカローシス」という聞き慣れない専門用語は、未知の重病を宣告されたようにしか響かなかった。


「嫌だ、重い病気なの……!? 苦しい、助けて……っ!」


 女性はさらにパニックを増幅させ、過換気は治まるどころか酷くなっていく。


 一郎は患者の反応を冷静に観察し、即座に口を閉ざした。


(医学的事実は、今の彼女には劇薬にすぎないか)


 原因不明の恐怖からくるパニックに対して、理屈を並べ立てるのは非効率だ。一郎の脳内で、取るべき『処置』の選択肢が瞬時に切り替わった。


「林さん」


 一郎はベッドサイドから一歩引き、心に短く指示を出した。


「呼吸のペーシングをお願いします。ペーパーバッグ法は不要。呼気に意識を向けさせてください」

「はい」


 心は即座に一郎と入れ替わり、ベッドの縁に腰を下ろして女性と視線の高さを合わせた。


「大丈夫ですよ。先生が言った通り、命に関わるような病気じゃありません。ただ、少し息の仕方を忘れちゃってるだけです」


 心の声は、深夜の静寂に溶け込むように穏やかで、それでいて芯のある響きを持っていた。彼女は女性の震える背中に手を当て、ゆっくりと一定のリズムでさすり始めた。


「私が数を数えますから、それに合わせて息を『吐く』ことだけを考えてください。吸うのは、勝手に体がやってくれますからね。いいですか?」


 心が女性の目を見つめる。


「はい、口をすぼめて。細く、長ーく、息を吐きます。フーーーッ……」


 女性が、心の声に誘導されるように、震える唇から息を漏らした。


「そうです、上手です。フーーーッ……いち、にー、さん……」


 数分後。

 心の一定のリズムに合わせた呼吸を繰り返すうちに、女性の肩の上下は次第に緩やかになり、手足の強張りが解けていった。


「……落ち着いて、きました」


 女性が涙声で呟き、深く息を吐き出す。


「よかった。もう大丈夫ですよ」


 心は微笑み、背中をさすっていた手を離した。


 騒ぎを聞きつけて診察室の奥から出てきた近藤が、モニターの数値と落ち着いた患者の様子を見て、短く頷いた。


「過換気症候群だな。バイタルも安定した。落ち着いたなら、もう帰宅して構わないだろう。木村、後の説明は頼む」

「はい」


 一郎は再びベッドに歩み寄り、完全に呼吸を取り戻した女性を見下ろした。


「今回は、肉体的あるいは精神的なストレスを契機とした過換気症候群と診断します。後遺症が残ることもありません。ですが」


 一郎の目が、鋭く細められた。


「もし今後、片側の胸に突然、刺すような激しい痛みを感じた場合。あるいは、冷や汗を伴うような息苦しさが出た場合は、迷わず救急車を呼ぶか、すぐに受診してください」

「えっ……それは、また過呼吸になるってことですか?」

「違います。その症状が出た場合は、過換気ではなく、自然気胸や肺血栓塞栓症といった別の危険な疾患の可能性があります。息が苦しいという症状は同じでも、原因が違えば命に関わります。その違いを、あなた自身で判断しないでください」


 一切の妥協がない、医学的根拠に基づいた再受診条件の提示。脅しているわけではない。起こり得る最悪の可能性を除外してはならないという、一郎の医師としての執着だった。


「……はい。わかりました」


 女性は今度は怯えることなく、しっかりと頷いた。


「お疲れ様でした。お会計、こちらで承りますね」


 処置室から出てきた女性と店長を、冴子が手際よくカウンターへ案内する。不安を取り除くような冴子の明るい声が、待合室に響いた。


 患者たちが自動ドアの向こうへ消え、診療所に再び静寂が戻る。

 スタッフルームに戻った心は、使用したモニターのコードをまとめながら、背中越しに一郎に声をかけた。


「先生。診断が早くて正確なのは、本当に助かります。どんな重症でも見落とさないっていう安心感がありますし。でも」


 心が振り返り、一郎を真っ直ぐに見た。


「あんなにパニックになっている患者さんに、『アルカローシス』だの『カルシウムイオン』だの、少し言葉を選べませんか。患者さんは病名の詳しいメカニズムを知りたいんじゃなくて、今すぐこの苦しさをどうにかしてほしいんです」


 一郎はスクラブのポケットに両手を突っ込んだまま、心の視線を受け止めた。


「事実を正確に伝えるのが僕の役割です。ですが、あの状態の患者を落ち着かせる手段として、僕の医学的説明よりあなたの声掛けの方が速く確実だった。だからあなたに指示を出した。それだけです」


 一郎はいつもの真顔のまま、淡々と告げた。そこには弁解も反省もなく、ただ現場において誰の技術が最も効率的であったかをカルテに書き留めるような平坦さだけがあった。


 心は少し呆れたように眉を上げた。


「つまり、私が先生の指示通りに動いただけってことですか。……まあ、いいです。先生が私の看護を当てにしてくれたなら。次からは、医学的説明のタイミングも患者さんのパニック度合いに合わせて調整してくださいね。これも私たちの連携プレイですから」

「善処します」


 スタッフルームに顔を出した冴子が、二人のやり取りを聞いて、くすくすと肩を揺らした。


「でも木村先生、あれだけ焦ってる患者さん見ても、全然表情変わらないのね。私なんか、急に倒れ込んだとか言われたら、心臓とか肺の変な病気を疑ってテンパっちゃうけど」

「身体所見とモニターの数値を見れば、緊急性がないことは瞬時に分かります」


 一郎は冴子の方を向き、当然のことのように言い切った。


「無いものを疑って焦る必要はありません。僕にないものは、あなた方がそれぞれの職務で補えばいい」


 冴子は小さく首を傾げ、心の方を見て悪戯っぽくウインクした。


「ほんと、可愛げがないっていうか、頼もしいっていうか。ま、受付としては、無駄に騒がないお医者様は大歓迎だけどね」


 午前三時半。

 夜の底のような静けさの中、突然、診療所のホットラインの電話が鋭いコール音を響かせた。

 スタッフルームの奥から近藤が出てきて、素早く受話器を取る。


「はい、川浜夜間急病診療所……ええ。七十八歳、男性。……一時的な右半身の脱力と言語障害?」


 近藤の復唱を聞いた瞬間、一郎はすでにパイプ椅子から立ち上がっていた。


「発症から三十分……今は、症状が完全に消えている?」


 近藤が電話を耳に当てたまま、一郎を見る。


 一郎の切れ長な目が、鋭い光を帯びた。


「受け入れてください。今は症状が消えていても、見逃せません」


 夜間外来の、午前二時の戦いは終わらない。

 一郎は聴診器を首にかけ、処置室へと向かった。

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