第1話 追放先の白い診察室
東京都東部に位置する川浜区。ここは古くからの商店街や町工場、物流倉庫が混在する街だ。日付が変わり、昼間の喧騒が嘘のように静まり返った深夜の住宅街に、時折、大型トラックが通り過ぎる低い走行音だけが響く。そんな暗がりの底に、川浜夜間急病診療所の白い看板だけが不自然なほど明るく浮かび上がっていた。
六月上旬。アスファルトが昼間に吸い込んだ熱を吐き出しているのか、蒸し暑さが夜の底に沈殿するような不快な夜だった。
受付カウンターの奥で、医療事務員の清水冴子は、手元のカルテを整理しながら小さく息を吐いた。医療機関の受付としての清潔感を守りながらも、小さなハート形の顔を縁取る明るいベージュブロンドのミディアムボブが、夜間診療所の白い蛍光灯の下で華やかに映えている。
時刻は午前一時を回ったところだ。
「ねえ、林さん」
冴子はデスクの背もたれからしなやかに胸を張るように起き上がり、大きな目をカルテ棚の横に向けた。
「今日のあの先生、どう思う?」
声をかけられたのは、カルテ棚の横でテキパキと備品を確認している看護師の林心だった。
心は、蜂蜜色を帯びたベージュブラウンのセミロングの髪を低い位置できちんとまとめ、スクラブに身を包んだ百七十二センチの長身をピンと伸ばして手を止めた。細身で手足が長いモデルのような体躯は、動きやすさを重視したスクラブ姿でも一際映え、仕事への実務的な緊張感を漂わせている。
「どうって、木村先生のことですか」
大きなアーモンド形の瞳を冴子に向け、心はハキハキとした声で答えた。その響きには、深夜勤務特有の疲労よりは、少人数の実務を回す張り合いのようなものが滲んでいる。
「東都中央から飛ばされてきたって噂、本当みたいね」
冴子は声を落とし、周囲を気にするように首をすくめた。
「あの大病院の救命救急で、上を怒らせて追い出されたって。二十四歳の、たかだか一年目の初期研修医がよ? よっぽど生意気か、使えないかのどっちかじゃない」
「使えないなら、こんな、一人で回さなきゃいけないような夜間診療所には来ないと思いますけど」
心は淡々と返しながら、再びガーゼの在庫確認に戻る。
「厄介払いよ。近藤先生もやりにくそうじゃない」
冴子はそうこぼして、カウンターの奥にあるスタッフルームの方をちらりと見た。
そのスタッフルームのパイプ椅子に、木村一郎は深く腰掛けていた。
スクラブをまとった細身ながら無駄のない体型。背筋がすっと伸びた立ち姿には、若さに似合わぬ圧倒的な落ち着きがある。短く切り揃えられた黒髪に、細長い卵形の顔立ちと、綺麗に通った高い鼻筋。切れ長で感情の読めない目元は、まるで病態の核心を見抜くために研ぎ澄まされた刃のようだった。
机の上に置かれたスマートフォンが短く震え、プレビュー画面に『母』という文字が浮かび上がった。
『一郎、元気にしてる? たまには連絡くらい……』
その文面を、一郎は一瞥しただけで画面を伏せた。既読をつけることすらしない。彼にとって、今は医学という解のある問題以外に向き合う余裕も、その気もなかった。
ここへ来る直前の、東都中央医療センター救命救急部門での喧騒が脳裏をかすめる。怒号、保身に走る上級医たちの顔、そして自分の下した決断。
後悔は欠片もなかった。あそこで自分が引いていれば、あの患者は死んでいた。それだけのことだ。医学的な事実より組織の面子を優先するような場所なら、追い出されても構わない。
「木村先生」
入り口に立った近藤が声をかけた。五十代半ば、この診療所の指導医だ。
「この時間は比較的落ち着くことが多いが、急患が来れば一気に忙しくなる。覚悟しておいてくれ」
「はい」
一郎は短く答え、立ち上がった。その声には気負いも、左遷された若手特有の卑屈さもない。ただ、事実としてそこにあるというだけの淡々とした響きだった。近藤は少しばかり拍子抜けしたような顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
午前二時。
自動ドアが重い音を立てて開き、一人の男性が入ってきた。
「すみません……」
配送業者の制服を着た四十五歳の男性だった。背中を丸め、苦しそうに腹部を押さえている。
冴子が即座に立ち上がった。
「どうされました? 保険証はお持ちですか」
「胃が……なんか、ムカムカして。吐き気も酷くて。夜間配送の途中なんですけど、ちょっと耐えられなくて……」
男性はカウンターに寄りかかるようにして、震える手で財布を探し始めた。
「わかりました。まずは問診票を……」
冴子がバインダーを差し出そうとした瞬間、備品確認の手を止めた心が、素早くカウンターの前に歩み寄った。
「木村先生、あの患者さん、呼吸が不自然に浅いです。待合室に入ってきた時から、ずっと左の肩をさすっています」
スタッフルームから出てきた一郎は、心の的確な報告に小さく頷いた。彼の鋭い視線もまた、男性の青白い顔色と、額に滲む大量の冷汗を瞬時に捉えていた。ただの胃痛や消化不良で、ここまで急速にバイタルが崩れることは稀だ。ましてや、心窩部の痛みと左肩への放散痛。
一郎は無言でカウンターの前に立ち、低く、ひどく通る声で尋ねた。
「歩けますか」
「え? あ、はい……」
「処置室へ」
一郎が男性の腕を支えようとした瞬間、冴子が声を荒げた。
「ちょっと、木村先生! まだ受付も終わってないし、カルテも作ってません。順番が――」
「清水さん、後でいいです」
一郎は振り返りもせずに言い放った。
「受付より、命が先です」
「はあ?」
冴子の苛立ちを無視し、一郎は男性を処置室へと誘導した。その歩調は速く、迷いがない。
「林さん」
一郎が短く呼んだ。
ただならぬ気配を察し、心は早くもストレッチャーの横にスタンバイしていた。
「寝てください。林さん、ルート確保。十八ゲージ。モニターと、十二誘導心電図を至急」
「はい」
心は即座に動き、慣れた手つきで男性の腕を駆血帯で縛った。ただの胃痛を訴える患者に対する指示ではない。だが、心を驚かせたのはその指示の内容ではなく、一郎の判断の『速さ』だった。患者を見て、自分の報告を聞いてから十秒も経っていない。
「胃が痛いだけなのに……おおげさな……」
横たわった男性が、青ざめた顔で息を吹き出した。
「いつからですか」
一郎は患者の胸元を開きながら、短く問う。
「一時間くらい、前……急に、ムカムカしてきて」
「左肩も痛みますか。あるいは、重い感じがしますか」
一郎の問いかけに、男性は驚いたように目を見開いた。
「……なんで、分かるんですか。さっきから、肩が張るっていうか、重くて……」
心が心電図の電極を素早く貼り付けていく。電子音が規則的に鳴り始めた。
「血圧、九十の六十。冷汗著明です」
「酸素投与開始。マスクで五リットル」
一郎はモニターの波形を一瞥した。波形がプリントアウトされてくる。
II、III、aVFの誘導で、明確なST上昇が記録されていた。
「下壁梗塞」
一郎が呟いた。単なる胃痛ではない。心臓の下面の血管が詰まり、壊死が始まっている状態だ。下壁梗塞は消化器症状に似た痛みを引き起こすことが多いため、患者自身も胃の病気だと勘違いしやすい。だが、一歩対応が遅れれば致死的な不整脈を引き起こす。
「近藤先生を呼んでください」
一郎の指示とほぼ同時に、騒ぎを聞きつけた近藤が処置室に駆け込んできた。
「どうした、木村」
「急性冠症候群です。下壁のST上昇。冷汗と血圧低下を伴っています。直ちにPCI可能な二次、あるいは三次救急への搬送が必要です」
一郎はプリントアウトされた心電図を近藤へ差し出した。
近藤は差し出された波形を凝視したまま、一瞬、呼吸を止めた。
「……間違いないな」
近藤は、目の前の若い研修医を見た。受付でのたった数秒のやり取りと、看護師からの報告だけで、この患者に隠された致死的な病態を見抜いたというのか。川浜夜間急病診療所には高度なカテーテル設備はない。見抜いた以上は、一刻も早く設備のある大病院へつなぐ必要がある。
「私から消防へ連絡する。受け入れ先の確保もこっちでやる」
近藤が背を向けた瞬間、一郎はすでに次の指示を出していた。
「林さん、アスピリンを。噛み砕いて飲ませてください。急変に備えて除細動器の準備を」
「準備できてます」
心は、除細動器の電源を入れ、アスピリンを手にしていた。
一郎がわずかに目を細め、心を見た。
「助かります」
短いその一言に、心は小さく頷き返した。この研修医は、ただ知識をひけらかすだけの若造ではない。必要な情報を最速で選び出し、正確に指示を出す。そして、自分の実務の速さを一瞬で評価した。
処置室の外では、冴子が電話口で保険情報の確認を済ませていた。
「身元、わかりました。ご家族への連絡、私から入れますか?」
冴子が顔を覗き込ませる。
「お願いします。状況は『心臓の発作で緊急搬送する』と伝えてください」
一郎が答える。先ほどの受付での冷ややかな態度とは違い、冴子の役割を明確に求めている響きだった。
「……了解」
冴子は少しだけ表情を緩め、すぐさま受話器を取った。この生意気な研修医は、手続きを軽視しているわけではない。単に命の優先順位が極端なだけだ。
数分後、サイレンの音が近づき、救急隊が到着した。
一郎は、駆け込んできた隊員に対して、バイタルサインの推移、投与した薬剤、心電図の所見を無駄な言葉を一切省いて引き継いだ。
「……以上です。よろしくお願いします」
ストレッチャーに乗せられた男性が救急車へ運び込まれていく。
サイレンの音が遠ざかり、診療所に再び深夜の静寂が戻ってきた。
午前四時。
冴子は受付で温かいお茶をすすりながら、隣に立つ心に小声で話しかけた。
「……ちょっと、見た? あの判断の速さ」
「見ました」
心はカルテの整理をしながら、短く答えた。
「胃が痛いって言ってる患者を、顔見ただけで心筋梗塞だって疑うなんて。近藤先生も驚いてたわよ。あの子、ただの研修医じゃないわね」
「問題研修医、じゃなかったんですか」
「問題は問題でしょ。あんな態度じゃ、大病院の偉い先生方は面白くないに決まってるわ」
冴子はふふっと笑った。
「でも、悪くないわね。自分の腕に絶対の自信がある男って」
診療所の裏口。
自動販売機の光だけが頼りの薄暗い路地で、一郎は携帯灰皿を手に、煙草に火をつけた。
紫煙が、湿った夜気の中に吸い込まれていく。
ポケットの中で、再びスマートフォンが震えた。見なくても誰からのメッセージかはわかっている。
一郎は煙を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
『君のような協調性のない人間は、この救命救急には必要ない』
東都中央を追い出される際、上級医から投げつけられた言葉が蘇る。
一郎は短く鼻で笑った。
協調性。そんなもののために、患者の命を天秤にかけるつもりは毛頭ない。自分が正しいと判断したのなら、相手が誰であろうと曲げるつもりはない。
短くなった煙草をもみ消し、一郎は顔を上げる。
東の空が、ほんのわずかに白み始めていた。
夜間外来は、まだ終わらない。




