第9話 詐欺師令嬢は報告するだけ
報告の時間に、アレクサはいつもの客間へ向かった。
今日は令嬢の格好に戻っている。赤毛のウィッグに、ピンクの瞳。襟元には淡い色のリボンを結び、裾の広いドレスをまとっている。
廊下を歩きながら、午前中の自分を思い出した。
大聖堂へ行った時の自分は、アルだった。
金髪の短い髪。少年の服。市井に紛れるための顔。
同じ日に、二つの顔を使うのは別に珍しいことではない。いつものことだ。必要な顔を、必要な時に使うのが詐欺師の仕事だ。
なのに今日は、切り替えるのに少し時間がかかった。
きっとイリスのせいだ。
客間に入ると、カシアスはいつものように窓の外を見ていた。夜の庭に視線を向けていた顔が、扉の音でこちらを振り返る。
その目が、一瞬だけ止まった。
カシアスは何かを言いかけたが、黙ったまま、アレクサをじっと見てくる。
何かすっごく言いたそうな顔ですけど……。
メイクは完璧なはず……。
その表情の意図を探ろうと、こっちからカシアスをじっと見つめるとふいっと視線をそらされた。
……な、何なの?
アレクサは椅子の前で一礼した。
「報告に参りました、殿下」
「あ、ああ」
カシアスが向かいの椅子を示す。アレクサは腰を下ろし、膝の上で手を重ねた。
令嬢らしく。
ただし、話す内容は令嬢らしくない。
「本日、聖女様とお話ししてきました」
「大聖堂に行ったのか?」
「はい」
カシアスは一瞬口を開きかけた。
でも、わかる。どうせまた何も言わない気がする。
だから、先に話し始める。
「オーカー卿とイリス様は、契約関係ではありません」
カシアスの表情がわずかに変わった。
「契約関係ではない?」
大事なことなので詳しく言いますね。
「はい。あの二人は、少なくとも、金銭や地位を条件に結ばれた関係ではありません。オーカー卿がイリス様を利用している、あるいはイリス様がオーカー卿から何かを引き出している、というような関係ではないと思います」
「では、なぜあの二人は協力しているんだ」
「どうやらイリス様自身の意思のようです。あの方は聖女として本気で動いています」
言えるのはそこまで。
それ以上は、言わない。
イリスが何者なのか。何を隠しているのか。なぜ聖女の顔をして、あれほど平然とこちらの嘘を見抜けるのか。
それに、年齢だとか、家族だとか、仕事に関係ない札を切るのは違う。
そういうものを売るのは、安い仕事だ。
だって、イリスの正体は今回の依頼の範囲ではないし。
『オーカー卿を探る』と言うのが、今回の依頼だ。
イリスを売ることではない。
「聖女様は、オーカー卿の計画が、この国のためになると信じて協力しているようでした。だから、オーカー卿に騙されているわけでも、脅されているわけでもありません」
「そうか」
カシアスはしばらく黙った。
その沈黙は、イリスを疑っている沈黙ではなかった。むしろ、何かを受け止めている顔だ。
あれかな、「婚約者でしたから」とか、そういう真摯な気持ちは殿下にもあったんだろうな。この人、真面目だし。
と、考えていると。
「お前の顔に『まだ何か知っている』と書いてあるが」
「えっ?! うそ?!」
アレクサは慌てて両手で顔を洗うようにこすった。
「いや、そういう顔をしていると言う意味だ」
や、わかってますって! それはわかってますけど!
だめだ、だめだ。なんか私、すっかり初心者みたいになってる。
「でも、依頼に関係する部分はさっき話したことだけですから!」
カシアスがこちらを見た。その目は明らかにアレクサを疑っている目だ。
「依頼に関係しない部分は?」
「それは報告対象外です。なので言えません!」
きっぱりと言った。
客間に、妙な間が落ちた。
言い方が強すぎただろうか。少しだけ、いや、かなりまずかったかもしれない。相手は依頼主で、しかも皇太子だ。普通の貴族令嬢なら、皇太子に対してこんな返しはしない。
でも、カシアスは、怒らなかった。
「わかった」
アレクサは少しだけ眉を動かした。
「聞かないのですか?」
「お前が言わないなら、理由があるんだろう」
「理由があるとは限りませんよ。単に、私が不誠実なのかもしれません」
「お前は、不誠実な時ほどもっと上手くごまかす」
「……えっ。どういうこと」
「お前は嘘が下手だと言ってるんだ」
む?
殿下は、時々とても失礼だ。
でも、もっと困るのは、失礼なのに間違っていないところだった。
まあ、皇太子なんだし、とアレクサは視線を落とした。
カシアスは『嘘』が嫌い。
でも、言わないことは許してくれる。
この人は、時々そういう線引きをする。アレクサが守りたい線を、何も知らないくせに踏み越えない。
だから困るの。そんなの、好きになるでしょ。もちろん、人、として!
「ででっでは、本題のオーカー卿の報告をします」
「ああ」
ちょっとどもってしまった。
「農作税の件ですが」
カシアスの顔つきが変わった。
「以前、布告文で農作税の『免除』が『猶予』に書き換えられたと言ってましたよね」
「ああ」
「あれは、一度だけではないと思います」
カシアスの指が、椅子の肘掛けに触れた。
「根拠はあるか?」
「正確に記録をたどったわけではないんですけど、宮廷に入ってから、侍女たちや下働きの話を聞いていました。今年も猶予になった村がある、と。もし同じ処理が数年続いているなら、問題は今年の税だけではありません」
アレクサは言葉を選びながら続ける。
ここから先は、感情ではない。怒りでも、同情でも、正義でもない。
仕組みの話だ。
「猶予された税は帳簿上消えません。いずれ取れる金として積み上がるだけです。でも、実際には誰も払えない数字です」
「……回収できない税は、残り続ける」
「はい。しかも、ここまで積み上がると、もう放っておけません。帳簿の上では『いつか取れる税』でも、実際には誰も払えない数字です。取り立てるのか、免除するのか、分けて納めさせるのか、どこかで線を引かなければならないんです」
カシアスが黙った。
彼はきっとわかったのだ。
カシアスの声は低かった。
「つまり、私が即位するまで待てば、その分だけ傷が広がる」
「はい。処理すれば国庫は傷みます。でも処理しなければ、払えない村から潰れます」
カシアスは息をのんだ。
アレクサは、そこで少しだけ声を落とした。
「殿下が最初に書いた『免除』は、ただの慈悲ではありません。長い目で見れば、財政上も正しい判断だった可能性があります。絶対、とは言えませんが……」
カシアスの指が、肘掛けを強く握った。
「……オーカー卿は、気づいていないのか?」
「多分、気づいていないと思います」
「オーカー卿は数字が読めない人ではない」
「ええ。だからこそです」
カシアスが顔を上げた。
アレクサはまっすぐ見返した。
「オーカー卿は、数字が読める方です。でも、自分で積み上げた数字の歪みには気づけない。周囲の人間も、あの方の判断は正しいと思い込んで疑わない。だから誰も止めないまま、間違いが正しいものとして積み上がっていったんだと思います」
「悪意は」
「悪意ではなく、先読みの失敗です」
カシアスは目を閉じた。
悪意がない。
だからこそ、厄介なのだ。
悪人なら切ればいい。敵なら倒せばいい。だが、正しいと信じて国を支えてきた人間を、どう止めるのか。
それを考えている顔だった。
「この件を表に出せば、オーカー卿の失策になります」
アレクサは淡々と言った。
これは進言ではない。
依頼された仕事の『報告』だ。
「数年分の猶予税を積み上げた責任は、当然、政策を決めた人間に向きます。オーカー卿を失脚させたい者がいれば、十分すぎる材料になるでしょう」
カシアスが目を開けた。
「それは、オーカー卿を断罪すべきだということか?」
「いいえ。私は報告しているだけです」
そう、私は探っただけ。
あの人は善人で、でも善人だって間違いはする。
「ですが、オーカー卿を責めれば、この国を二十年以上支えてきた柱に傷がつきます。責めなければ、歪みは残ると思います。どちらを選んでも、誰かが責任を負う必要があります」
カシアスは黙った。
長い沈黙だった。
アレクサの『報告』はここまでだ。
ここから先は、アレクサが今回受けた仕事ではない。
詐欺師は情報を渡せる。状況を整理できる。相手が見たくないものを見せることもできる。
けれど、皇太子の代わりに皇太子の決断はできない。
やがて、カシアスが口を開いた。
「……なら、私が負う」
アレクサは思わず顔を上げた。
「殿下が?!」
「ああ」
カシアスの声に迷いはなかった。
「オーカー卿は、父の代からこの国を支えてきた人だ。間違いがあるなら正す。だが、それをあの人一人の失敗にはしない」
「そ、それだと、殿下に批判が向くということですよ」
「わかっている」
「皇太子殿下の判断で免除に切り替えれば、きっと内部から反発も出ます。財政を傷めたと言われるかもしれません」
「それでも、私の代で変える」
カシアスは静かに言った。
「責めるためではなく、正すためにオーカー卿と直接話す」
アレクサは、少しだけ言葉を失った。
責めるためではなく、正すため?
そんな言い方をする人間を、アレクサはあまり、――いやほとんど知らない。
失敗すれば誰かに押しつけ、傷ができれば誰かで塞ぐ。
上に立つ者ほど、そうやって責任逃れをして、自分を守るものだと思っていた。
けれどカシアスは、切る相手ではなく、背負うものを探している。
なんだろう、この人。やっぱりおかしな人だ。
何がこの人を動かしているんだろう。
君主の血? それともカリスマ性?
「今夜中に、猶予税の記録を集める」
カシアスは言った。
「村ごとの額と年数、実際の収穫量、支払い能力。免除に切り替えた場合の影響。それを確認する。その上で、オーカー卿と話す。これまでのやり方を責めるのではなく、これからの方針を変えるために」
「……はい」
アレクサは小さくうなずいた。
――これで終わり。
自分のやるべきことはやった。
そして、依頼主は動いた。それも、アレクサが思っていたよりずっと真っ直ぐな方向に。
後は結果を確認すれば完了だ。
だけど、なぜか心臓が強く打っている。
すごいものを見た後みたいに、胸の奥が熱い。
今夜は眠れないかもしれない。
「報告は以上です」
アレクサは立ち上がった。
「待て」
客間を出ていこうとすると、カシアスに呼び止められた。
まだ何かあるの?
財政の話か。イリスの話か。それともオーカー卿との面会の段取りか。
そう思ったのに。
「今日、聖女との面会は、どちらで会いに行った?」
アレクサのつけまつ毛がぱさぱさ動く。
「は? どちら、とは? 何のことですか?」
「令嬢か。アルか。……聖女に会いに行った時の格好だ」
また心臓が変な跳ね方をした。
なぜそこに戻るの? 何か問題でもあったかな?
「……え、アルです、けど?」
「そうか」
カシアスの視線は、アレクサの赤毛のウィッグに向いていた。
あからさまな視線にアレクサは咳払いした。
「接見の時間に合わせて、一般市民として行く必要がありましたので」
「仕事上、か?」
「もちろんです」
「そうか」
何が「そうか」なの?
アレクサは少しだけ面白くなくなった。
自分でも理由はわからない。
「殿下。今後の業務効率のために確認しておきたいのですが」
「業務効率……?」
「はい。報告の際は、令嬢の姿とアルの姿、どちらがよろしいですか」
もう、仕事は終わりなのに。
言ってから、少し後悔した。
だって、これは仕事の質問じゃない。
カシアスもそれに気づいたのか、少し黙ってしまった。
「……私は、どちらでもいい」
「どちらでもいいんですか?」
「ああ」
「令嬢の方が婚約者らしいのでは?」
「そうだな」
「アルの方が話しやすいのでは?」
「そうだな」
「では、殿下は、どちらがお好みですか?」
カシアスが困った顔をするのが、少しだけ楽しくなってきた。
アレクサは令嬢らしい笑みを浮かべた。
「ぜひ参考までに教えて下さい」
カシアスは目を伏せた。
真剣に考えているようだ。長いんですけど。
そんなに考えるところ?
アレクサはだんだん落ち着かなくなってきた。自分から仕掛けたのに、相手が真面目に考え始めると居心地が悪い。
やがてカシアスが顔を上げた。
「どちらでも、お前はお前だろう」
アレクサは言葉を失った。
何それ。
何、その答え。
そんな逃げ方、ずるくない?
「……ふーん、なんか模範解答みたいですね」
「そうなのか? 正解と言うことか?」
「いえ。たぶん違います」
「では何だ」
「自分で考えてください」
わからない。
本当にわからない。
ただ、胸の奥に何かが引っかかった。
「では、明日の確認の時は、いつも通り令嬢で参ります」
「わかった」
「仕事ですので」
「……ああ」
カシアスがまた少し困った顔をした。
アレクサはそれを見なかったことにして、一礼した。
「失礼いたします」
扉を開け、客間を出る。
廊下に出ると、宮廷の夜が静かに広がっていた。
✿~~~~~✿
自分の部屋に戻って、赤毛のウィッグを外した。
鏡の前に座る。
金髪のベリーショートが、鏡に映っている。これが地毛だ。アルの顔だ。令嬢でも、アレクサ嬢でもない。
では、これが本当の自分なのか。
そこまで考えて、アレクサは小さく息を吐いた。
詐欺師に「本当の自分」など必要ない。
令嬢アレクサ。
少年アル。
詐欺師アリー。
必要な顔を、必要な時に使う。今までずっと、そうやって生きてきた。
あのレジェンドのイリスもそう言っていた。
名前を変えて。仕事を変えて。町を変えて。また別の人生を始める。
それは便利だ。自由で、誰にも縛られない。どこへでも行けるし、誰にでもなれる。
そのはずだった。
鏡の中の金髪の自分が、こちらを見ている。
その顔に、さっきのカシアスの言葉が重なった。
——どちらでも、お前はお前だろう。
アレクサは眉を寄せた。短い髪の先を手でつまんでみた。
「……何なの」
小さく呟いた声は、誰にも聞こえない。
『仕事は仕事。情は挟まない』
——何回目だろう、これ。
そう思って、考えるのをやめようとした。
でも――
カシアス殿下は、今頃何をしているだろう。
また考えてしまった。
きっと今頃、侍従を連れて過去の帳簿を確認しているんだとわかっているのに。
鏡の中の自分が、少し笑った気がした。
笑った理由はやっぱりわからず胸の奥はもやもやとしていた。




