第10話 愚かな皇太子の選択
翌朝、カシアスは動いた。
昨夜のうちに、猶予税に関する記録を集めさせた。
過去五年分の布告文。村ごとの収穫量。猶予された税額。実際の納付状況。帳簿の上では残り続けている未回収分。
それらを確認した上で、カシアスはオーカー卿への面会を自ら申し入れた。
場所は、宮廷の小会議室となった。
執務室ではなく、大広間でもない。記録官は一人だけ置かれる。公式の場ではあるが、必要以上に人目に晒す場所ではない。
その選び方を聞いて、アレクサは少しだけ感心した。
オーカー卿を断罪するためなら、人の多い場所を選べばいい。
失策を明らかにし、謝罪させ、皇太子の正しさを見せつけることもできる。
けれどカシアスは、そうはしなかった。
(……ぶれずに生真面目な人だ)
アレクサは令嬢の格好で、小会議室の外の廊下に立っていた。
中には入れないが、扉の近くに立てば少しだけ声は聞こえてきた。
小会議室の扉が閉まり、外に人気が無くなると、アレクサは壁にぴたりと耳を寄せた。――明らかに不自然な行動だが、これは確認のためだ。そこはまあ、詐欺師なので仕方がない。
婚約破棄の後に大聖堂に聖女の様子を見に向かった、あれと同じ。最後の確認のためだから。
でも、本当はここでカシアスを待っていたかった、と言うのもある。
それが何の意味を持つのかは、自分でもよくわからないけど――
✿~~~~~✿
――小会議室の中では、カシアスはオーカー卿と向き合っていた。
机の上には、数枚の書類が置かれている。
オーカー卿はいつものように穏やかな顔をしていた。背筋を伸ばし、カシアスの言葉を待っている。その姿は正しく忠臣そのものだ。
「オーカー卿。確認したいことがある」
「はい、殿下」
「五年前から毎年、私が書いた農作税の布告文がある。私は『免除』と書いた。だが、実際に出回ったものは『猶予』だった」
「はい。あの時は財政上の判断として——」
「わかっている」
カシアスは静かに言った。
怒鳴らず遮りもしなかったが、オーカーの言葉に自分の言葉を重ねた。
「あなたが国のために、そう判断したことは、わかっている」
オーカー卿が口を閉じた。
カシアスは机の上の書類を一枚、オーカーの前へ押し出した。
「今日聞きたいのは、あなたを責めるためではない。この数字を確認してほしいのだ」
オーカー卿が書類を手に取った。
「これは、猶予税の累計、ですか」
「ああ。五年分だ。帳簿の上で残っている額と、実際の納付状況を並べてみた。私の理解が間違っていれば、指摘してほしい」
オーカー卿は書類を読み始めた。
懐から小さな帳面を出し、そこに書かれた数字とカシアスの拾った数字に間違いがないかも確認していた。
けれどその途中で、オーカー卿の指が止まった。
紙面を追っていた視線が、一度、最初の行へ戻る。
それからもう一度、ゆっくりと読み直した。
「……殿下、この数字は」
「合っていないか?」
オーカー卿はすぐには答えなかった。
もう一枚の書類を手に取る。村ごとの収穫量、納付額、猶予額、翌年への繰り越し。
オーカー卿の顔から、いつもの穏やかな色が少しずつ消えていった。
「……いえ、合っています」
静かな室内に、オーカー卿の低くなった声が響く。
カシアスは表情を変えなかった。
「猶予税は、帳簿の上ではいずれ取れる税として残っている。だが、実際には払えない村がある。このまま積み上げ続ければ、取り立てても村が潰れる。免除に切り替えても、国庫が傷む」
オーカー卿は黙っていた。
「私は、そう理解している。間違いがあれば、指摘してほしい」
「……殿下の、おっしゃる通りです。間違いは、ありません」
その一言は、重かった。
オーカー卿自身が、誰よりもよくわかっていた。
カシアスの出してきた数字が何を意味するのか。
そして、その数字を積み上げてきたのが誰なのか。
「殿下。これは、私の失策です」
オーカー卿が低く言った。
カシアスはすぐには答えなかった。
ほんの少しだけ、間を置いた。
「違う」
オーカー卿が顔を上げた。
「違いません」
「あなた一人の失策にはしない」
カシアスは静かに言った。
「あなたがこの国を支えてきたことは、私も知っている。父の代から、ずっとだ。飢饉も、争いも、財政難も、あなたは何度も国を支えてきた」
「……ですが、この処理を決めたのは、私です」
「ああ」
カシアスはうなずいた。
「そして、それを止められなかったのは、私だ」
「殿下……」
「私は皇太子だ。自分の言葉が書き換えられたことに気づきながら、未熟さゆえに、その後どう処理されたかを追わなかった。五年分積み上がるまで、見なかった」
オーカー卿は言葉を失った。
「だから、これはあなた一人の失敗ではない」
カシアスは書類に目を落とした。
「これまでの方針には、意味があったのだと思う。五年前と言うと、父が床に臥した時期だ。あの時、税を完全に免除すれば、すぐに財政が傷んだ。猶予にすれば、その年を越せた。国を守るために、必要な判断だった時期もあったのだろう」
オーカー卿の手が、わずかに震えた。
「だが、これ以上は続けられない」
カシアスは顔を上げた。
「私が責任を持って変える」
オーカー卿は何も言えないまま黙っていた。
「農作税の猶予分は、実態を調べ直す。回収できないものは免除へ切り替える。分けて納められるものは、無理のない年数に改める。帳簿は傷んで、反発も出ると思う。私の判断が甘いと言う者もいるだろう」
「そうなれば、殿下に批判が向きます」
「恐らく、そうなるだろうな」
カシアスは静かにうなずいた。
「聖女との婚約を破棄し、素性の知れない令嬢を選んだ愚かな皇太子が、今度は国庫に傷をつけた。そう言われるだろう」
「私の失策として処理すれば、殿下は傷つかずに済みます……」
「それはしない」
カシアスの声は静かだった。
けれど、そこだけは揺るがなかった。
「今日はあなたを断罪するために呼んだのではない。これからの方針を変えるために呼んだ」
オーカー卿は、長い間、何も言わなかった。
やがて、深く息を吐いた。
「……殿下」
オーカー卿は書類を机に戻した。
「私は、あなたを守っているつもりでおりました」
「……知っている」
「ですが、守るという名目で、殿下の言葉を軽く扱った」
カシアスは答えなかった。
「それは、間違いでした」
オーカー卿は静かに頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
カシアスはその言葉を受け、すぐに許すとも、許さないとも言わなかった。
「オーカー卿。あなたからの謝罪は受ける。だがその上で、私に力を貸してほしい」
オーカー卿が顔を上げる。
「私で、よろしいのですか?」
「ああ。あなた以上に、この国の帳簿と宮廷のことを知っている者はいない」
カシアスは言った。
「これまでの方針を否定するためではない。これから崩れない形に変えるために、あなたの力が要る」
オーカー卿は、少しだけ目を閉じた。
「……承知いたしました」
そう言って頭を下げた後、オーカー卿はもう一度、机の上の書類に目を落とした。
その目が、先ほどまでとは少し変わっていた。
失策を悔いる者の目ではなく、求められた役目に戻ろうとする人間の顔。
崩れた盤面を、もう一度組み直そうとする者の目だった。
「このオーカー、殿下のために」
オーカーの言葉に、カシアスは少しだけ困ったように息を吐いた。
「私のためではない。この国のために力を貸してほしい」
オーカー卿は一瞬だけ目を見開いた。
それから、静かに微笑んだ。
「御意のままに」
そして、もう一度、書類へ目を落とした。
「では殿下。ひとつ、この老臣より提案がございます」
カシアスは黙って耳を傾ける。
オーカー卿は、少し声を落として静かに言った。
「もし殿下が、この歪みを御自身の責任で正されるとお決めになったのなら——」
そこで、オーカー卿は一度だけ言葉を切った。
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廊下でアレクサが待っていると、小会議室の扉が開いた。
先に出てきたのは、オーカー卿だ。
いつもの穏やかな顔だが、少し雰囲気が変わった気がする。
書類を抱えた手と肩のあたりから、ほんの少しだけ力が抜けているように見えた。
アレクサに気づいたオーカーが近づいてきた。
「アレクサ嬢。殿下をお待ちなのですか?」
アレクサは令嬢らしく一礼した。
「……殿下は、よくあの数字まで辿り着かれましたね。あなたが進言されたのですか?」
オーカー卿の言うとおり、ここで、自分が助言したと言うこともできる。
それで恩を売ることもできる。
だが、それは違う。
「いえ。私は報告しただけです。お決めになったのは、カシアス殿下です」
アレクサは静かに言った。
オーカー卿は、その言葉を聞いて、少し目を細めた。
「そうですか」
オーカー卿はそのまま静かに廊下を歩いていった。
その背中は、長い間、国を支えてきた人間が、ようやく自分の肩から少しだけ荷を下ろしたように見えた。
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その日の夕方、アレクサは大聖堂へ向かいイリスへの面会を申し出た。
以前と同じ、平民のアルとして。
イリスはいつものように、柔らかな笑みを浮かべていた。聖堂の中、光の落ちる位置に立つ姿は、どう見ても清らかな聖女そのものだ。
だから余計に、怖い。
「今日も、そちらのお顔なんですね。アルさん、どうされましたか?」
「イリス様」
アレクサが話そうとすると、イリスはくすっと可愛らしく笑った。
「殿下は、オーカー様とお話しされたそうですね」
「やっぱり、耳が早いですね……」
「聖女ですから」
それ絶対に聖女関係ないと思うんだけど?
「『契約満了』おめでとうございます」
「え、……あ、ありがとうございます」
「どうしたんですか? あまり嬉しそうではありませんね」
「……仕事が終わっただけですから」
「そうですね。仕事が終わっただけなら、そんな顔にはなりませんものね」
イリスの労いは本物だと思うが、何故か心をちくっと刺されたような感じがした。
「もうすぐオーカー卿がこちらに来られるようなんです」
「えっ、そうなんですか?」
「一緒にいても構いませんよ」
イリスはにこりと笑った。
「いえ、私は失礼します」
関わってはいけない時の聖女は、本当に関わってはいけない。
アレクサが聖堂を出て回廊の角を曲がる直前、オーカー卿の声が聞こえた。
盗み聞きしようと思えば出来たのだが、詐欺師にも、踏み込まない方がいい会話はある。
ただ、回廊を離れる前に、イリスの声だけが静かに響いてきた。
「オーカー様。善意は、時々、人の意志を見落とします」
思わず足が止まりそうになったが、止めなかった。
アレクサはそのまま走って大聖堂を出た。
そして改めて思った。
――やっぱり、レジェンドは怖い、と。
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翌朝、いつもの客間で、アレクサはカシアスに申し出た。
「依頼は完遂できました」
カシアスの返答はないが、アレクサは続けた。
「オーカー卿の動きは把握しました。イリス様との関係も確認しました。財務上の問題もお伝えしました。そして殿下は、ご自身でオーカー卿と向き合われました」
言葉を一つずつ並べてみた。
これは仕事の報告だ。
「これで、契約の内容は果たされたと考えます」
カシアスはまだ黙ったままだ。
「『契約満了』です」
カシアスの目が、まっすぐこちらを見ていたが、ずっと黙り込んでいる。
そして、ほんの少しだけ、息を吐いた。
「……わかった」
その声は、思っていたより静かだった。
「契約は満了だ」
その声に、胸の奥が、変なふうに沈んだ。
望んだ通りの返事だったのに、少しも勝った気がしない。
「ご依頼、ありがとうございました」
「こちらこそ、助かった」
終わった。
これで終わり。
ありがとうございました。オーロ金貨十枚と、衣装三着と、南向きの部屋と、口の堅い侍女と、馬車と、毒見付きの宮廷のお食事。
殿下の笑顔は特別だったので、プライスレスにしておきますね。
「また、仕事があれば頼む」
カシアスがいつもの真面目な声で言った。
その顔は全然笑ってはいなかった。
それが、なぜかアレクサの胸に刺さる。
「その時は値段が上がりますよ♡」
何とか言えた。(頑張って♡をつけて)
けれど、自分も、何故かいつものようには笑えなかった。
「構わない」
カシアスはずっと真面目な顔のままだ。
本当に、この人は困る。
次回で完結です。




