最終話 新しい契約書と本当の名前
アレクサが宮廷を出たのは、翌朝のことだった。
侍女に玄関まで見送られ一人で馬車に乗る。
そして、その窓から宮廷の建物が遠ざかっていくのを見ていた。整えられた中庭を過ぎ、石造りの壁の外へ向かう。
途中、あの東側の使われていない中庭が、一瞬だけ見えた気がした。
✿~~~~~✿
それから数日後のこと。
城下の広場の、朝の市が始まる少し前の時間。
金髪のベリーショート、動きやすい平民の服。この服は締め付けないし、動きやすいのでちょうどいい。
宮廷のおやつ付きの生活で、心なしか体重が増えた気がするから注意しないと。変装に支障が出てはいけない。
店が開く前の広場は、まだ人が少なかった。
石畳に朝の光が差し込んでいて、あの日の夕暮れとは逆の方向に、影が伸びていた。
いつもの広場。串焼きの屋台が出る場所。新聞屋が走り、号外が飛び交った場所。カシアスが林檎の前で途方に暮れていた場所。
開店準備を始める広場を眺めながら、次の仕事を探さなければ、とアレクサは思った。
思ったが——ふと、足が動かなくなった。
目に飛び込んできたのは、あの、姿勢の良すぎる後ろ姿。
気配に気づかれたのか、その背中が振り返った。(犬っぽい!)
やっぱり、カシアスだった。
「アリー」
今日は護衛を連れていなかった。騎士の格好でもなく、宮廷服でもない。地味な平民の服を着ていた。だが、紐がとてもきれいに左右均等ピッタリに結ばれているのが、妙に浮いてみえた。
そしてやはり、姿勢が良すぎて、どこからどう見ても皇太子だった。
「……カシアス殿下」
「おい、名前を言うな。今はお忍びなんだぞ」
「え。でも、見ればわかりますよ……」
カシアスは少し困ったように眉を寄せた。
「お前に新しい依頼があるんだが」
言いながら、真っ先に手に持っていた封書を差し出した。
アレクサは受け取ると、すぐに封を開けて読んだ。
一行、読んだところで止まった。
少し内容に驚いたが、顔には出さない。だって、詐欺師なんだから。
そして、読み間違いのないように、最後まで読んだ。
緊張をなんとか隠して、あざとくチラリと視線を向ける。
「これ……期限が書かれていません」
「ああ。それなら、期限は、『死が二人を分かつまで』だ」
わあぁ、やっぱり。そんな気がしました。
しかも、真顔で言うのやめてくださいよ。心臓が……じゃなくて。
胸が高鳴った。心臓ではない。胸。たぶん、胸。
殿下はかなりロマンチストなんだ。真面目ですしね。
「……これは契約書ではなく婚姻届では?」
「オーカー卿の提案だ。私が正式に御代を継ぐなら、妃を定める必要がある。私にとっては契約書なのだが。平民にとってはそう言うのかもしれないな」
ええ、確かに、私が『皇族と平民は全然違いますよ』って言いましたね……。
「それで私ですか?」
「お前でなければ、この契約書は持ってこなかった」
本当に? 『お前でなければ』?
「……本名を書く欄がありますが」
「この契約を受けてくれるなら、お前の本当の名前を書いてくれ」
アレクサの手元の紙には本名欄が空白のままだ。
「えっと、この案件の報酬は?」
「帝国の共同管理権と、皇帝の隣の席だ」
「重いな……」
「それに、国庫金を増やすも減らすもお前次第だ」
アレクサは少し間を置いた。
「それは、めちゃくちゃ楽しそうですね……」
これは本心。それに、私は機会は逃さない。
「……では、殿下。一つだけ、条件があります」
「何だ」
「今後は、アルと呼ばないでください」
カシアスは少し間を置いた。
「……アリー、では?」
アレクサは少し笑った。
「それも困りますね〜」
「では何と呼べばいいんだ」
「……この契約を受けたら、わかります」
カシアスはアレクサを見た。グレーの瞳が、何かを確認するような目だった。
それから、ペンを差し出した。
アレクサは受け取ると、本名欄にペンを走らせた。
カシアスが覗き込んだ。
「……それが、本当の名前か」
「はい。自分ではわりと気に入っているんですけど」
「……アレクサでも、アルでも、アリーでもない」
その時、カシアスはまるで騙された人の様な顔をしていた。
「全部、そこから取っていたのか」
「便利でしょう?」
「いつか教えろ、と言ったら断られたが」
「言いましたね」
「今日は、教えてくれた」
カシアスは、笑った。
声は出さないが、確かに笑っている。眉間の縦皺も消えていた。
アレクサはその顔を見た。
なんだかすごく眩しいんだけど、目を逸らさずに。
つい、つられて自分も笑顔になってしまったが、今日はもう逸らさなくていい気がした。
朝日のせいか、ピンク色の瞳の色が少し青みを帯びて宝石のようにきらめいた。
「ところで殿下」
「何だ」
「値段は上がりますからね」
カシアスは少し間を置いた。
「頼もしいな」
その声に、笑いが滲んでいた。
広場に朝の光が満ちて、石畳に二つの影が伸びていた。
最初の夕方に見た影とは、反対の方向へ。
朝だから、当たり前なんだけど。
でも——それだけではない気がした。
アレクサは広場の石畳を見渡した。
次の仕事(仕事かな?)が、もう始まっていた。
串焼き屋は今日も、そして明日も、城下の広場で店を開いているだろう。
✿おしまい✿
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「児童文学的な幻想の入口を持ちつつ、中身は大人向けの権力・宗教・喪失・暴力性を含んだダーク寄りファンタジー」を書いていますので、他の作品も読んでいただけるとすごく嬉しいです♡




