第7話 アリサとカイルの夫婦の練習
客間が静まり返った。
廊下の遠くから、誰かが歩く靴音が聞こえてくるほどに。
カシアスはアレクサを見たまま動かなかった。
「……私が? 何を?」
「私の夫役を演じてください」
「夫?」
「そう言いましたけど」
大事なことだけど、三回目は確認しなくてもいいですよ、殿下。
「なぜ私なのだ」
「他に信用できる男性がいないので」
そう言うと、カシアスの眉がほんの少しだけ動いた。
「私を、信用しているのか」
「当り前じゃないですか。依頼人として」
カシアスは何も言わなかった。その顔がちょっと不本意そうな顔にも見えるんだけど、私の気のせいかしら……。
「夫婦役は嫌ですか?」
「嫌とは言っていない。ただ、相手に私の正体がばれないか心配している」
「私の変装技術を舐めないでください」
カシアスは少し目を逸らして考え込んだ。
きっと、アルの少年姿を思い出しているのだろう。
どーですどーです? 私の変装技術は。
「やっていただけます?」
「いいだろう」
まぁ、偉そうに。
(おっと。実際偉いんだった……)
でも、変装技術は認めていただけたんですよね。ありがとうございます♡
「それで、私は何をすればいいんだ」
「私の隣で、夫らしく振る舞うだけです。簡単でしょう?」
「夫らしい振る舞いとはどういうものだ? 具体的に教えてほしい」
あぁ、そうか。殿下の父親は皇帝陛下だし、母親は四歳のときに亡くなったんだっけ。
普通の夫婦と、皇帝と皇后は違うのかな?
アレクサは椅子の背にもたれ、少し想像してみた。
余計なことを考えてしまい、アレクサは一度咳払いをした。
「例えば、奥様を優しく気遣ったり、話を聞いたり、時には目を合わせたり」
「それは、契約後から、ずっとお前にしていることではないか?」
「……え。そうでしたっけ???」
私の反応に、カシアスは不満そうに眉を寄せた。
「報告は毎日聞いている」
「それは、仕事の話でしょう」
「夫婦は仕事の話をしないのか?」
「する方もいるでしょうけど、大事なのは仕事以外のことですよ」
「どんなことを話すんだ」
「他愛ないことです。今日の天気とか、食べ物とか、近所の事とか、愚痴とか」
「それに何の意味がある」
「意味?! 意味がない話をするのが夫婦なんですよ!」
「意味がないのに話すのか」
「……殿下、夫婦を何だと思ってるんです?」
カシアスは顎に拳をあてて真剣に考え始めた。何かすごいオーラが出てる……。
しばらく待たされ、ようやくカシアスのグレーの瞳がアレクサの方に向いた。
「国と家を維持するための共同体だ」
「……えっと、もう少し柔軟に考えられません?」
「では、子を育てる」
「今はいりません、その話」
真面目な顔でそんなことを言われ、アレクサの頬が少し熱くなった。
カシアスが怪訝そうな顔をする。
「夫婦を演じるのに、子の話は必要ではないのか」
「商売相手に子作りの計画でも話すつもりなんですか?」
今度はカシアスの耳が、少し赤くなった。
ちょっと、この雰囲気はいけない。絶対、いけない。
「そ、そういう意味ではない」
「わ、わかってます……」
アレクサは視線をそらしながら、椅子から立ち上がった。
とりあえず、気を取り直して。
「じゃ、ちょっと夫婦の振る舞いを練習してみましょう」
「ここでか?」
「はい、今ここで。人目につかない間に」
昨日も同じことを言った気がする。
ボタンの掛け方の次は夫婦の練習って、我ながら、皇太子に何を教えているのだろうとは思うけど。
カシアスが立ち上がった。
背が高い。姿勢が良いから余計に。向かい合うと、アレクサの頭一つ以上ある。
令嬢の靴で少し高さが出ていても、それでも見上げなければならない。
「じゃあ、初めに夫婦らしく歩く練習からしましょう」
「歩き方にも違いがあるのか」
「ええ、あります。では殿下、私をエスコートしてみてください」
カシアスはすぐに左腕をわずかに曲げ、アレクサへ差し出した。姿勢も角度も申し分ない。
(わぁ、素敵……)
一瞬、仕事を忘れそうになってしまった。
ただ腕を差し出しただけなのに、さすがは一国の皇太子。令嬢の扱い方をわかっていらっしゃる。
アレクサはその緊張と高揚を隠して差し出された腕へ手を添えると、二人で客間を数歩歩いた。
しかし――。
「……駄目です」
アレクサは立ち止まった。合わせてカシアスも止まる。
二人は正面を向いたまま。
「何故だ。作法は間違っていない」
「間違っていないから駄目なんですよ! これじゃ舞踏会か、外国使節の案内ですって」
「夫婦でも女性をエスコートするだろう」
「しますけど、もっと、こう、気を抜いてください。私たちは毎日一緒にいる夫婦の設定なんですから。そんなに姿勢よく、前だけ見て歩かないでください」
「前を見ずに歩けば危険だ」
「ずっと見るなとは言ってません。それから、歩く時には時々こちらを見てくださいね」
そう言うと、ようやくカシアスの顔がアレクサの方に向いた。
「ああ。見ている」
「あの……その、猛禽類が獲物を狙ってるみたいなのはやめてください……」
「見ろと言ったではないか」
「もっと自然に、です」
「猛禽類が獲物を狙うのは不自然なのか?」
……あ〜もう面倒になってきた。
「殿下。林檎を見ていた時みたいにしてください」
「林檎?」
「市場で見てたでしょう。林檎が欲しいけど、自分からは言い出せないみたいな。あの時の顔です」
そう言うと、カシアスは明らかに不満そうな顔をした。いや、その顔じゃない。
「私はあの時、林檎を欲しがっていたわけではない」
「三回も値段を見て戻してたのに?」
「値段を確認していただけだ」
「でも、私が差し出したらすぐ受け取ったじゃないですか」
「お前が奢ると言ったからだ」
「欲しかったんでしょう?」
「……話を戻せ」
あら、珍しい反応だ。図星だったのかな。
アレクサは少し笑ってから、繋いだままの手を離そうとした。
が、カシアスは手を離さない。
「あの、もう手を離してください」
カシアスはようやく手を離した。
それだけなのに、手の中に残った温度が気になった。
アレクサは誤魔化すように髪を耳にかけようとして、今は赤毛のウィッグだったことに気づく。
「では、次は名前の呼び方です」
「名前の呼び方?」
「夫婦なのに、殿下と呼んだら一瞬でばれますので偽名を使います。私はアリサ。殿下は……」
アレクサはカシアスを上から下まで眺めた。
姿勢が良くて、顔が整いすぎている。これでは、どう見ても平民には見えない。
「そうですね……。カイル、でいいでしょう。地方の小領主の次男で、今は妻の商会を手伝っているという設定です」
「なぜ私が次男なのだ」
「長男だと、家を継いでいるはずなので」
「なるほど」
「それから、私は商家の娘です。家業を継いでいて、あなたは婿に入ったという設定にしましょう」
カシアスは眉を少し動かし頷いた。
「では、私を名前で呼んでみてください」
「アリサ」
えっと、名前を呼ぶだけなのに、台本を読んだ下手な役者ですか?
「殿下、もう少し感情を込めてください。妻を呼ぶ感じに」
「妻を呼んだことがない」
「えぇ、そうでしょうね……」
「妻を名を呼ぶ感情とはどんなものだ」
「色々ありますけど、基本は優しく、甘く?」
カシアスは少し黙った。
そして、もう一度。グレーの瞳に赤毛の令嬢が映る。
「……アリサ」
名前が耳ではなく、胸のあたりに落ちてきた。
今ごろ気づいたんだけど、私、殿下から『アル』としか名前で呼ばれたことがない。そのアルは、少年なの。
だから、これはキュンとしても仕方ないでしょう、そうでしょう。
「どうだ?」
「……ろ、六十点です」
「低いな。では、お前も呼べ」
「はい?」
「私の名を」
カシアスはいたって真面目な顔をしている。練習なのだから当然、と言いたげに。
アレクサは一度口をきゅっと閉じた。
今まで何百回もやってきた。相手を騙すために、愛しい男を呼ぶ声くらい簡単に作れる。
簡単なはずだった。なのに。
「……カイル」
自分で思っていたより、小さな声になった。
カシアスはしばらくアレクサを見ていた。
「……何点ですか?」
「わからない」
アレクサは可笑しくなって笑ってしまった。
「……殿下、そこは夫役として『百点だ』って言うところですよ!」
「なぜ嘘を言わなければならない」
「夫婦なんですから」
この男を夫役に選んだのは、失敗だったかもしれないと思ったが。
いや、だからこそ相手は信じる可能性もある。
嘘の中に本当を混ぜることが一番見抜かれにくいのだ。
「まぁ、今の回答は上級編です。殿下にはまだ難しいですね。じゃあ、後は馴れ初めを決めておきましょう」
「出会った経緯ということか」
「ええ。夫婦での商談で一番良く聞かれる話題なんですよ。商いの途中で知り合ったことにしておきましょうか。私があなたの生真面目さを気に入って、結婚を申し込んだということで」
「なぜお前からなのだ」
「だって殿下が女性に結婚を申し込めるようには見えませんし」
カシアスがわかりやすくむっとした。
でも実際のところ、皇太子様の婚約なんて色々手順があるんでしょ?
「必要ならばできる」
ほほう。言いましたね。
「では、やってみてください」
アレクサは椅子へ座ると、令嬢らしく背筋を伸ばした。
プロポーズされるとわかっていて、その言葉を待つ時ってこんな感じなのだろうか……。
カシアスは立ったまま、アレクサを見下ろしてしばらく動かない。
いつもだけど、真剣に考えているんだと思う。
そう思うと、アレクサはだんだん居心地が悪くなってきた。
「殿下。やっぱり設定は私から申し込んだことにしましょう」
「待て」
そのままカシアスはアレクサの正面へ立った。
そして、アレクサの前に姿勢よく跪くと、静かに口を開いた。
「私は、知らないことが多い」
「殿下……?」
「林檎の買い方も、靴の値段も、上着のボタンの留め方も知らなかった」
これは、結婚の申し込みなのですか? 懺悔か何かですか?
「だが、お前といれば、知らないことを知ることができる」
カシアスのグレーの瞳が、まっすぐにアレクサを見ている。
嘘の練習をしている目ではなかった。
「だから、これからも私の側にいてほしい」
客間が静かになった。
時計の針の音だけが、妙に大きく聞こえる。
アレクサは何も答えられなかった。
胸の奥が、なんだかこそばゆくて、落ち着かない。
これは夫婦役の演技の練習だ。
それなのに、この人は本当のことしか言わない。
「……駄目か?」
カシアスが尋ねた。
「だだだだ駄目に決まってるでしょう!」
思わず声が大きくなった。
まるで懺悔を聞かされいていたようなのに、妙に心臓が早くなる。
カシアスは立ち上がると、小さく頷いた。
「では、商売の話も決めておく方がいいな」
仕事の話に戻ろうとしてくれているのがわかって、アレクサは少しほっとした。
「お前の商才を信頼している。私はお前の判断を尊重する。利益が出ても損失が出ても、責任は共に負う」
唐突に言われ、アレクサは言葉を失った。
その言葉、商人夫婦としては完璧だ。なんなら、満点を差し上げたい。
けれど。
「……な、七十点です」
「さっきよりは上がったな」
本当は、点数なんてつけられなかったんだけど。殿下はまんざらでもなさそうだ。
「では、忘れないでくださいね。殿下はカイル。私はアリサ。私の話に合わせて、余計なことは言わないでください。夫としてそばにいてくれれば大丈夫ですので」
「善処する」
その返事が、全く信用できないんだけど……。
アレクサは書類をまとめて立ち上がった。
「では、今日はこれで失礼します」
「アリサ」
偽名で呼び止められ、アレクサは振り返る。
「何でしょう、カイル」
役の声を作る。
カシアスはアレクサを見たまま、少し間を置いた。
「明日は、よろしく頼む」
「……ええ。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
客間を出て廊下を歩きながら、アレクサは自分の右手を見た。
さっきカシアスに握られた手。
もう温度など残っていないはずなのに、まだ妙に熱い気がした。
明日の詐欺は、いつもより少しだけ、やりにくそうだ。
相棒が、嘘をつけない男だから。
そして――。
カシアスが本当のことを言うたびに、なぜか自分の方が騙されそうになるからだ。




