第6話 善人の地図
宮廷に入って十日が経った。
朝、アレクサが部屋で温かいスープを口に運んでいると、ノックもそこそこにカシアスが飛び込んできた。
「恋人の逢瀬」の時間も場所も決めていたのに、完全に我を忘れている。その手に、ぐしゃぐしゃに握りしめられた新聞を見た時点で、アレクサは大体のことを察した。
カシアスはテーブルの上に新聞を広げて見せてきた。アレクサは紙面を覗き込む。
三面の下の方だ。でも、見出しはそれなりに大きかった。
『皇太子殿下の新たな婚約者、素性に疑惑 東部辺境の没落貴族の娘か』
東部辺境の没落貴族。父親の博打による没落。母親の夜逃げ。宮廷に潜り込んだ目的は皇太子への取り入り。聖女を追い出したという「目撃証言」も添えられていた。
アレクサはその記事に目を通しながら、心の中で採点する。
(ふ~ん、よくある感じ。あんまり面白くないけど、こういう設定が人気なんだ)
全部嘘だが、でも全部、皆が読みたい物語になっている。
アレクサが話すより先に、カシアスが口を開いた。
「これは嘘だ!」
「ええ、そうですね」
「東部辺境の没落貴族? 夜逃げ? でたらめだ。誰がこんなものを」
「前にも言いましたけど、宮廷ゴシップはみんな好きなんです。そういうものですよ」
アレクサは椅子に腰を下ろした。カシアスの眉間に縦皺が刻まれている。いつもより深い。
「そういうもの、とは何だ」
「噂というのは、面白い方向に育ちますから。私との婚約自体が実際嘘ですし、気にしても仕方ないですよ」
カシアスが止まった。
「……気にしないのか?」
「ええ、私のことは」
「お前の名誉が傷つけられているんだぞ」
「名誉どころか、私はもともと令嬢じゃありませんし」
言いながら肩をすくめた。
カシアスはしばらくアレクサを見つめる。何かを言おうとして、やめた。そしてまた言おうとして、やめた。
何回繰り返すの、この人は……。
「……お前は怒らないのか」
その声には、怒りと、それとは別の何かが混ざっていた。
アレクサは少し間を置いた。
「……殿下は怒ってるんですね」
「当然だ。私の婚約者が、根も葉もない話を活字にされたんだぞ」
「まぁ、殿下の怒り具合は顔と態度を見ればわかります。でも、」
カシアスの眉がぴくりと動いた。
「この記事が本当に言いたいのは、私が何者かってことじゃありません」
「何?」
「殿下が、『そんな女』を選んだってことです」
部屋が静まり返る。
アレクサはテーブルの上の新聞を指先で軽く叩く。
「東部辺境の没落貴族でも、夜逃げ娘でも、成り上がりでも何でもいいんです。記事を書いた人たちは、『そんな女を選ぶなんて皇太子は愚かだ』と言いたいんですよ」
カシアスはずっと黙っている。
「だから傷つけられたのは、私の名誉だけじゃありません」
アレクサは新聞から目を離した。
「殿下の判断も、殿下の見る目も、殿下の選択も、全部まとめて馬鹿にされているんです」
カシアスの指が新聞の端をぐしゃりと握った。
「だが、それは事実ではない」
「もちろんです。私達の関係は仕事です」
アレクサは即答した。
「それに、誰を伴侶に選ぶかなんて、本来は殿下が決めることですから」
カシアスの眉間のしわが少し緩んだ。
「没落貴族だろうと、商人の娘だろうと、平民だろうと。本当に殿下が選んだ相手なら、他人がとやかく言う話じゃありません」
二人の間に置かれた新聞を睨みながら、カシアスは黙った。
その顔を見て、アレクサは少しだけ視線を逸らした。
嘘を書かれたことに怒ったわけじゃなかった。そんなことには慣れている。
でも――。
殿下が選んだ相手は、この程度の女だと言われたような気がして。
そして、それに腹を立てている自分に気づきたくなかった。
✿~~~~~✿
そして次の日、とうとうオーカー卿からのお呼び出しがかかった。
文面は丁寧だった。「殿下の婚約者として宮廷に慣れていただくためのご案内を」という名目だ。昼食を共にしたい、と。
要するに、査問だ。だけど断る理由がない。断ったら逆に怪しい。
アレクサは「喜んで」と返事を出した。
食事の間は小さかった。そこは宮廷の公式な食堂ではなく、貴賓用の小部屋のようだ。丸テーブルに向かい合って座る形式で、給仕が二人。
料理が運ばれてきた。
美味しそうだった。でも今は味なんてどうでもいい。
目の前にいるのは、この国で一番信頼されている男なのだから。
アレクサは完璧に振る舞った。ナイフとフォークの順番、スープの飲み方、パンの千切り方、給仕への目線の向け方。令嬢の作法は体に染み込んでいる。どこで身に付けたものかは別として。
オーカー卿は穏やかに食事を進めながら、話しかけてきた。宮廷の歴史、季節の行事、殿下の幼少期の話。圧はない。試している雰囲気もない。ただの昼食のように感じられる。
だからこそ、アレクサは全神経を使っていた。
「ご出身は、東部とお聞きしましたが」
「ええ、まあ」
ちょうど良いので新聞に書かれたことを利用させてもらおう。
アレクサの返事に、オーカー卿は穏やかに続けた。
「殿下の婚約者のご家族に対しても、誠実にお付き合いしたいと思いまして。少し確認をさせていただいたのですが」
アレクサはスプーンを動かしたまま、内心で旗を立てた。
(来た!)
「東部の、該当するお家が見当たらなかったのですよ。記録を調べたのですが」
そりゃそうだ。ゴシップ記事はそもそも作り話なんだから。
「あら」
アレクサは少し首を傾けた。これは、聖女の真似をしてみた。うっふふ。
「どちらの記録をお調べになられたんですか?」
「領主府の家名録です」
「それでしたら、載っていないかもしれません」
アレクサは少し申し訳なさそうに微笑んだ。
「東部は昔の戦火で記録が失われている地域も多いのと、それに——うちは、領主府に記録が残るような立派な家ではなかったので」
「……と、おっしゃいますと」
「……祖父と父が相次いで事業に失敗しまして」
アレクサはデザートのスプーンを置いた。少しだけ、間を作った。
「その後は妹と二人で転々としておりましたので、どこにも記録は残っていないと思います。村の名前も、正直なところ、あまり思い出したくなくて」
ここで涙よ。聖女様みたいに。うるうる、って……そんな上手くは出ない。
「それは……ご苦労されましたね」
オーカー卿の声が、本当に申し訳なさそうだった。善人だ、とアレクサは思った。この人は本当に善い人だ。
「でも、おかげで、世間の厳しさも色々と覚えましたから。人を見る目とか、言葉の裏を読む力とか。そうしないと生きていけない時期もありましたので」
「……そうですか」
「宮廷というのは、外から見ると遠い場所でした。こういうところにいる方々は、最初から全部持っている人間だと思っていましたから」
オーカー卿はアレクサの嘘を黙って聞いていた。
「だから殿下と出会って——」
アレクサは少し止まった。
止まってから、気づいた。
ここまで口にしたことは全て作り話。嘘だ。
でも、ここから先は、嘘じゃない。
「——真っ直ぐなところに、惹かれております。最初は、信じられなかったんです。ああいう方が本当にいるんだと思って」
言葉が口から出てから、アレクサは自分でも少し驚いた。作った話の続きのつもりだったのに、気づいたら本当のことを言っていた。
オーカー卿はしばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「……殿下は、真面目な方です。皇太子という立場では許されないこともたくさんあります」
「はい」
「側にいてくれる方に、あなたの言うように思ってほしいと——きっと思っているかもしれません」
どこまでも真っ直ぐな、善意の言葉だった。
アレクサは微笑んだ。令嬢の微笑みで。
「恐れ入ります」
スプーンを手に取って、デザートの続きを食べた。
甘かった。必要以上に、甘く感じた。
デザートの器が下げられた頃、オーカー卿が言った。
「アレクサ嬢は、しっかりした方ですね」
「恐れ入ります」
「作法も、受け答えも。殿下の婚約者として、何も申し分ない」
オーカー卿は、婚約破棄の時の、あの下品なドレスを色眼鏡で見ることもなかった。
でもね、この後に「しかし」が来るって、なんとなくわかってる。
「しかし」
来た!
「お二人ともお若いので仕方ありませんが」
「……はい?」
「宮廷の庭園は、人目の多い場所です」
アレクサの笑顔が一瞬だけ固まった。
――ん? 庭園?
「先日の件です」
(どの件!?)
オーカー卿は穏やかだった。
「殿下の衣服を脱がせておられた件です」
「ぶっ……!」
アレクサは危うく紅茶を吹き出すところだった。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です……」
(何で知ってるの!? じゃなくて! 待って、何か誤解が)
「私は若い男女のことに口を挟むつもりはありませんが」
「若い男女!?」
「?」
「あっ、い、いえ……」
あれはボタンの練習だ。
ただボタンを留める練習をしていただけだ。
脱がせてないし!!(殿下が自分で脱いだのよ!)
決してやましいことはない。
だが説明しようとすると、
『殿下に上着を脱いでいただいて、私が見守りながらボタンを留める練習をしていました』
とは、ちょっと言い訳としては無理がある。(事実なのに……)
「宮廷には想像力豊かな者もおりますので」
「え、ええ……本当にそうですね……」
本当にそうですよ! まさか見られていたなんて私としたことが!(冤罪よ~!)
「お気をつけください」
「はい……」
別にやましいことは何もなかったのに。
説明すればするほど怪しくなりそうだった。
だけど、オーカーは責めているわけではないようだ。
アレクサのことを『殿下が選んだ女』として尊重してくれている気さえする。
オーカーはしばらくしてからまた話し始めた。
「しかし、」
こっちが本題のようだ。
「皇太子妃や皇后というのは、心と志、それに作法だけでは務まらないものでしてね」
「はい……」
「国を背負う。民を背負う。殿下を背負う。その重荷が、嬢にはまだ少し——」
オーカー卿は言葉を選ぶように少し止まった。
「——想像しきれていないのではないか、と心配しているのです。嬢がまだお若いゆえに」
これって暗に「殿下と別れてくれ」って言ってるんじゃなくて、本当に私のことを心配している声だ。まるで嫁に出す娘を心配しているように。
アレクサはデザートのスプーンを置いた。
でもね、お父さん?
「オーカー卿」
「はい」
「では、その重荷は——聖女様なら、担えたのですか?」
食事の間が、静かになった。
給仕が息をひそめた。窓の外で鳥が鳴いた。
オーカー卿は、黙った。
表情も変わらず、言い訳もせず。
だが、その沈黙は小娘への反論を探している沈黙ではなかった。
その沈黙の中に、アレクサは答えを見た気がした。
オーカー卿は聖女を信じているんだと思う。『聖女』という役職を、聖女の意志と同じだと思っていたのかもしれない。国のために動いてくれている。だから重荷を背負って皇后になれる。そう信じていた。
でも——聖女本人が、その重荷をどう思っていたか。そこまでは、考えていなかったんじゃないかな。
(でも、あの聖女様は多分只者じゃない気がするけど)
善人は、時々、自分の信じたい綺麗事ばかりを見て、相手の本当の気持ちを見ないから。
アレクサはもう一度微笑んだ。令嬢の、完璧な微笑みで。
「ごめんなさい。余計なことを申しました」
カップを手に取って、口に付ける。
オーカー卿はしばらくして「……そうですね」と言った。その声は、少しだけ、さっきより低かった。
昼食は和やかに終わった。
見た目だけは。
✿~~~~~✿
そして夕方、客間でカシアスに報告した。
オーカー卿との食事の内容を話した。圧のない査定だったこと。「重荷」の話が出たこと。アレクサが切り返したこと。
カシアスは黙って聞いていた。
「……オーカー卿が黙ったのか」
「ええ」
「それは——」
カシアスは少し考え間を置いた。
「お前が正しかった、ということだと思う」
「うーん、どうでしょうね。ただ、ちょっと意地が悪かったかもしれません」
カシアスは答えず、アレクサを見た。
「アル」
「アレクサです」
「今朝のことだが」
「はい」
「……お前が怒らないのは、慣れているからか」
また、新聞の話だ。アレクサは少し間を置いた。
「慣れているというか、仕事として処理したり、表には出しません」
「……そうか」
「私は詐欺師ですから」
さらっと言った。カシアスは何も言わなかった。それが答えだとわかっているように。
「でも」
アレクサは続けた。続けるつもりはなかったのに、口が動いた。
「殿下が怒ってくださったことは、嬉しかったですよ」
カシアスは何も言わなかった。
「今日の報告は以上です」
アレクサは立ち上がった。礼をして、扉に向かった。
「アル」
「アレクサですってば」
「明日も頼む」
アレクサは扉を開ける直前に、一瞬だけ止まった。
「……はい」
廊下に出て扉を閉めた。
宮廷の夕暮れが、廊下の窓から差し込んでいた。
(……仕事は仕事。情は挟まない)
ここに来て三回目。アレクサは気合を入れ直した。




