第5話 人の口に戸は立てられぬ
客間に入ると、カシアスはすでにいた。
毎日、カシアスに会う(報告する)時間と場所は決まっている。
単なる恋人たちの逢瀬と思わせる為に、そこには淹れたてのお茶と高そうな菓子の準備までされていた。
窓の外を見ていた背中が、扉の音に振り返る。相変わらず姿勢が良く、皇族のオーラが醸し出ている。
「殿下、イリス様のことですが」
アレクサは椅子に腰を下ろしながら、さっきの廊下の出来事を順番に話した。すれ違いの一部始終、その後のオーカー卿との場面。余分なことは言わずに、見たものだけを。
カシアスは黙って聞いていた。
「……イリスとオーカー卿が、そんな風に親しいとは知らなかったな」
「お互い尊敬も信頼もしている感じでしたが、仕事の枠を越えているようにも感じられました」
カシアスは腕を組んで考えこんでいる。
世の中には「おじさん好き」が一定数いるのは知っている。特におじさんが優しげな高位貴族ならなおさらだ。
さっき目撃したオーカー卿は、まさにその頂点と言える存在だ。
あの物静かな学者を思わせる佇まい、相手を包み込むような穏やかな瞳と声。あんな極上の『おじ様』に娘のように見つめられたら、そりゃあ聖女様じゃなくてもうっとりするでしょ。
でも、だからこそ。
(うん、怪しい。完璧すぎて裏があるようにしか見えない)
「オーカー卿は独り身で、家族がいない。ずっとこの皇家の為に身を尽くしてきた男だ」
「だったら、なんでオーカー卿を疑ってるんです?」
「そもそも私とイリスの婚約を進めたのはオーカー卿だ。だから……イリスのことを、そういう目で見ているはずはない」
「でも、イリス様のお気持ちは? なんか婚約破棄で全く落ち込んでないどころか、若干嬉しそうにも見えましたけど」
カシアスは少し間を置いた。眉間の縦皺が、いつもより深い。
「報告は以上です」
「……ああ」
それだけ言って、カシアスはまた窓の外を向いた。
今日の報告はここで終わりだと判断して、アレクサは立ち上がった。
「では——」
「この後、時間はあるか?」
窓を向いたまま、カシアスが言った。
「……仕事の話ですか?」
「違う」
アレクサは少し考えた。正確には、考えるふりをした。答えは最初から決まっている。
「……まあ、あるといえばありますが」
✿~~~~~✿
連れて来られたのは、宮廷の東側の端にある中庭だった。
その場所は人気がなく、使われていなさそうな小さな水路と、手入れの行き届いていない花壇。宮廷の中に、こんな場所があるとは知らなかった。
「……ここは何ですか?」
「昔、母が好んでいた場所だ。母が亡くなってからはこんな状態だが、ここには滅多に人は来ないから、ちょうど良いだろう」
カシアスは歩きながらそれだけ言った。
花壇の縁に腰を下ろして、カシアスは空を見上げた。アレクサはその隣に立ったまま、同じ方向を見た。
雲が多い。でも雨にはならなさそうだ。
「アル」
「アレクサです」
今は令嬢のドレスを着てるんだから間違わないでほしい。でも、カシアスは聞いてなさそうだ。
「私は、知らないことが多すぎる」
「……それは、靴の値段とかのことですか?」
「それだけではない。上着のボタンを——自分で留めたことがない」
アレクサはつけまつ毛をぱさぱさと上下させて、少し間を置いた。
「えっ、外すのも?」
「外すのはする」
「……本当に留めたことないんですか?」
その声音に驚きの色を感じ取ったようで、カシアスが微かに眉を寄せた。
「……笑うか?」
「いえ、笑いませんよ。……そうじゃなくて。『良かった』と思ってるんです」
「良かった? どういう意味だ」
「だって、外せなかったら、将来お妃様にやらせるのかと思って。聖女様に脱がせてもらうつもりだったんですか?」
カシアスがピタリと止まった。ああ、なんだかカシアスの耳が少し赤く染まっていく。
アレクサは知らん顔をして目を逸らす。……可愛すぎる。
「……不謹慎なことを言うな」
「あはは! すみません!」
全然すまなそうではない声でそう言って、アレクサはカシアスの上着を見た。今日は濃紺の上着だ。胸元から腹にかけて、銀のボタンが九つも並んでいる。侍従が毎朝丁寧に留めているのだろう。
「じゃあ、ボタンを留める練習でもします?」
「……ここでか?」
「はい、今ここで。人目につかないならちょうど良いじゃないですか。殿下の周りはいっつも人が居てますからね」
カシアスはアレクサをじっと見た。アレクサはにこりとした。もしかしたら顔に「ホントに外せるのかな?」と疑っているのが出ていたかもしれない。
カシアスは上から順番にボタンを外していった。それは慣れた手つきだった。するすると、迷いなく。
「わぁっ、上手上手~♡」
と、褒めたが、カシアスの顔は不満そうだ。
「……なんだ、その子どもを褒めるような言い方は」
あっ、ばれてしまった。それなら大人向けで。
「脱ぐのは本当に慣れてますね♡」
「…………」
……ちょっと、なんか言ってくださいよ、殿下……。一人で恥ずかしいじゃない。
高そうなボタンは九つ全部外れた。カシアスは上着を開いたまま、ボタンを見た。
さあ、練習だとなる前に、少し間があった。
「……留めるのはどこからだ? 上からか? 下からか? 真ん中からか?」
「上からでも下からでも、お好きなところからどうぞ」
「留める順番に決まりはないのか?」
「決まり? そんなの聞いたことないですけど」
「そうか」
カシアスは上から留めることにしたようだった。一番上のボタンに指をかけて——止まった。
「留めにくいな」
「じゃあ、二番目から先に留めてみたらどうですか?」
二番目と言う言葉にひっかかったのか、カシアスは少し不貞腐れたような表情でボタンに向き合った。しかし真剣だった。例えるとしたら、まるで国の財務を見るように。
一つ目が留まる。そのまま二つ、三つと続けていく。だんだん早くなっていく。
九つ全部、留まった。
「できるじゃないですか」
アレクサは心から言った。カシアスは自分の胸元を見下ろした。
「……平民は、皆これを自分でやっているのか」
「あ、でも平民の服にはボタンはほとんどついていませんよ」
カシアスが顔を上げた。
「……ボタンがついていない? どういうことだ?」
「紐で結ぶか、かぶるかです。ボタンは高いんで」
カシアスはしばらく黙った。また何かを整理している顔だ。
「では、誰かにボタンを留めてもらうというのは——」
「それなりに良い暮らしの人か、特別な日か、ですね」
「特別な日」
「お祭りとか、婚礼とか。良い服を借りてきて。その時は家族に手伝ってもらったりしますよ」
カシアスはまた黙った。
「……では私は、毎朝特別な日を過ごしているのか」
「あぁ~、そういう言い方もできますね」
「それは——おかしくないか?」
カシアスは少し眉を寄せた。
「でも、皇族はそういうものでしょう?」
「そういうものだとは思っていたが、平民と変わらないではないか、結局」
「殿下は知らないだけです。皇族と平民は全然違いますよ」
「何が違うんだ」
「そうですね、例えば〜。皇族の方って、国の為に、民の為にって、愛のない結婚をするんでしょう?」
アレクサはさらっと言った。庶民の、いや、人間の一般論として。
皇太子は、もともとは国の為に聖女と婚約をしていた。そこに愛はなかったかもしれない。……知らないけど。
「だが、私は解消した。愛と言う名目で」
「じゃあ、本気で探さないといけませんね。愛する方を」
カシアスが黙った。
黙り方が、いつもと少し違った。何かを考えている黙り方ではなくて、何かが刺さった時の黙り方だ。アレクサは詐欺師だからその違いがわかる。
「平民は愛で結婚するのか?」
「全員ではないですけどね」
アレクサの答えに納得がいかないようで、カシアスは腕を組んだ。
「でも、殿下のおっしゃる通り、変わらないといえば変わらないですね。それに、誰かに尽くしたいというのは、身分関係ないですし」
「……誰かに尽くしたい、とは」
「好きな人には、何でもしてあげたくなるじゃないですか」
アレクサが何気なく言うと、カシアスは声も立てずに、ふっと柔らかく微笑んだ。
いつも仏頂面な男が、まるで愛おしいものでも見つめるように見せた、初めての無防備な笑顔。
アレクサは、その顔を見た瞬間に、カッと顔が熱くなって慌てて目を逸らした。
何、今……笑った?
(……不意打ちはやめてほしい)
アレクサは花壇の枯れかけた草に視線を落とした。
「アル」
「……アレクサです」
「お前の本当の名前は何だ? どうせ全部偽名なんだろう?」
カシアスはしばらくアレクサを見ていた。それから——
「いつか、教えろ」
「……業務の都合上、無理です」
アレクサはバレないように小さく息を吐いた。
カシアスはもう違う方を見ている。その横顔は、さっきの笑顔とはまるで別人のように、いつもの無表情に戻っていた。
でも、アレクサは少しだけ気になることがあった。
この人が立っている位置が、いつの間にか、少し近くなっている、気がする。
中庭に風が吹き、花壇の枯れかけた草が、揺れた。
✿~~~~~✿
しかし、その庭に二人以外の目があったことを、アレクサもカシアスも気づいていなかった。
少し離れた回廊の陰から、一人の女官が息をひそめていた。
見えたのは——皇太子殿下が上着を開けて、赤毛の令嬢と二人きりでいる光景。そこまでだ。
でも、人の口に戸は立てられない。
夕方には侍女から侍女へ。夜には文官の耳へ。そして翌朝には——オーカー卿の机の上に、一枚の報告書が置かれることになる。
曰く、「婚約者の令嬢が、人目のない中庭で殿下の衣服を脱がせていた」と。




