1、静かなる呼び出し
研究室は薬品と古い紙の臭いで満ちていた。王宮から少し離れたところに位置する魔法塔と呼ばれる場所には、外の喧騒は届かない。
ここにいるのは、政治に干渉せず、ただ魔法研究に人生を捧げる者たちばかり。そんな平穏を打ち砕く日が来ようとは誰も……想像し得ないことだった。
「アルトリウス公子はこちらですか」
突如聞こえた声に、ヴェルナーの部下達は表情を曇らせた。
彼の名をそう呼ぶ者は、この魔法塔にはいない。その肩書が彼の望むものではないと知っているからだ。
きっといい話ではないことをすでに予感していた。公子という立場は公爵家の長男を表すだけで、アルトリウス公爵家の権力を示すものではない。わざわざ当主のいる公爵家ではなく、魔法塔を訪れたからには、ヴェルナー本人に用事があるというのだろう。
とはいえ、このまま無視するわけにもいかない。
ヴェルナーは立ち上がるなり白衣を脱ぐと無造作に椅子に掛け、やれやれと前髪をかきあげて笑ってみせた。
「……悪いが、少し出てくるよ。今日は戻らないかもしれないから、みんな今日こそは家に帰って体を休めるように」
誰も引き止めなかった。ただ、その背を見送る目だけがわずかに揺れていた。
部屋を出たその先に待っていたのは、王宮の近衛隊長だった。本来、国王陛下の側にいるはずの彼がここにいることの意味を考えようとして、それをやめた。
「シュナイゼル隊長がわざわざのご足労とは、恐縮です」
「……王命が下っております」
「私個人にとは珍しいな」
「……お耳を」
告げられた一言は、今後一生忘れられない言葉となって刻まれた。
「……殿下が、お亡くなりになりました」
誰のことを言っているのか、聞き返す必要もなかった。
──王太子。
そして次に告げられた言葉は、さらに理解を拒むものだった。
「至急、王宮へ。あなたに後継の話が出ています」
音が消えたような気がした。
やがて彼は、小さく息を吐いた。
「……冗談だろう」
その場の誰も、笑わなかった。
ヴェルナーを乗せた馬車が到着したのは王宮裏手の通用口であった。
「申し訳ありませんが、人目につくわけには参りません。ご容赦ください」
同乗しているシュナイゼルは、貴族位では公子であるヴェルナーが上回るが、立場でいえば彼の方が上だ。その彼に気遣われているこの状況がむず痒い。
通用口から王宮に入り、人通りの少ない場所を通っていることはすぐにわかった。謁見の間ではなく、王の私室に通されるのだとわかったとき、先導するシュナイゼルの背を追いながら、ヴェルナーは何も考えないようにしていた。
考えれば、余計な結論に辿り着く。
――ろくなものではない。
通されたのは、想像通り、王の私室だった。
扉が開かれ、中にいた者たちの視線が、一斉にこちらへ向けられた。
重い空気の中、ただ一人、椅子に座る男だけが動かない。
国王──エドゥアルト。
その存在だけで、この場のすべてが成り立っているかのようだった。
シュナイゼルが国王の側に控える。
ヴェルナーは数歩進み、形式通りに膝をついた。
沈黙が落ちる。
「……久しいな、ヴェルナー・アルトリウス」
名を呼ばれ、わずかに顔を上げる。その声音に、感情はなかった。
「王命により、参上いたしました」
定型の言葉を返す。それ以上でも、それ以下でもない距離で。
「シュナイゼルから聞いただろう。王太子は死んだ」
王は言った。それは報せではなく、断定だった。
「嵐による海難事故とされている」
──されている。
その言い方に、ほんのわずかな引っかかりを覚える。だが、それを口にすることはしない。
「……ゆえに」
短く区切られる。逃げ場を断つように。
「後継を定める必要がある」
視線が、降りてくる。
逃げることも逸らすことも許されない、まっすぐな圧。
「ヴェルナー・アルトリウス」
名を呼ばれる。今度は、はっきりと。
「今このときより、お前に王位継承権を与える」
音が、遠のいた。
何かを考えるよりも先に、理解だけが落ちてくる。
――ああ、やはりそうなるのか。
小さく息を吐く。
魔法塔を出てからというものずっと背けていたものを突きつけられた今、ヴェルナーは気づけば奥歯を噛みしめていた。
どれくらい沈黙していたのか時間も忘れた頃、ようやく口を開いた声は、可笑しいくらいに落ち着いていた。
「……冗談にしては、趣味が悪い」
誰も、咎めなかった。
王もまた、否定しない。ただ、静かに言う。
「冗談ではない」
その一言で、すべてが確定する。
逃げ場は、どこにもなかった。
王位継承。
――不本意につき。




