一 彷徨。
(前回のあらすじ)
基地に警報が鳴り響いた。
敵の新型機が現れたのだ。
純粋に狩りを楽しもうとする紅翼の敵。
大榊とともに出撃した智美に危機が迫る。
奪われた筑波をハッキングするべく先行した華夕。
彼女達の危機に、Tシリーズのメンバーが再集結した。
私は、死んだんだな……。
香川頼造は暗闇の中でそう確信した。
いや、厳密に言うと「暗闇」ではなかった。
「光のない世界」などではない。その世界そのものが存在しなかったのだ。
完全なる「無」。
その「無」の中に、頼造はただ意識だけで存在していた。それは、自らの死を確信させるものだった。
自分が求め続けてきた死がやっと与えられた事に、頼造は安堵に似た安らぎを感じていた。
自分を切り捨てた会社。自分を見捨てた家族。
香川頼造という不要な人間が、あの素晴らしい若者達を、そして有能な軍人達を助けて死ぬ事が出来たのだ。身に余る僥倖と言ってもいいだろう。
平穏な死の中で、頼造を苦しめるのは、生前の記憶だけだった。思い出したくもない思い出の数々。
理不尽にも、それらは死んだ後まで頼造を苦しめていた。
必死で勤めて来た会社。苦労をかけまい、不自由はさせまいと、責任を肩に背負って愛してきた家族。その全ての思い出が、頼造を糾弾し、責め立てていた。
目をつぶる事も、耳をふさぐ事も、死者である頼造には許されない。音も光も、五感で感じる刺激の全てが「無」であるだけに、頼造を責め苛む記憶は直接に、圧倒的な力を以て頼造を蹂躙し、逃がさなかった。
だがそれでも、「生」から切り離された頼造にとって、「死」は圧倒的な平穏であった。
永劫の時間が過ぎたようにも、次の瞬間であるようにも思えるその時、頼造の心にふと疑問が生じた。
これが死後の世界なのか?
魂が存在し、帰るところがあるのなら、何故自分はそこへ帰れないのだろう。来世と呼ばれるものがあるのなら、何故自分は次の肉体へ宿る事が出来ないのだろう。
魂が存在しないなら、脳細胞の死滅とともにこの意識や思考もなくなるはずだ。なのに私は今、考えている。
本当に私は死んだのか。
危険な疑問だった。確かめる術がないのだ。全ての感覚が閉ざされている。誰かに尋ねる事もできない。声を出す事も、手を動かす事もできないのだ。
どれだけ強く知りたいと願っても、答えは与えられなかった。答えを求める事もできなかった。そして、助けを求める事もできなかった。
自分が、本当の意味で一人になった事を、頼造は思い知った。
平穏だと思っていた「無」が頼造を恐怖で飲みこんだ。気が狂いそうだった。叫ぶ事も、頭を抱える事も、舌を噛み切る事もできなかった。
ただひたすら「無」の中に居続ける事しか出来なかった。
誰にも知られず、一人で狂って行くのだ。いや、狂えないのかもしれない。狂いそうな恐怖と孤独と無力感を、永遠に味わい続けるのかもしれない。いっそ狂えた方が……。
「おじさん、何してるの?」
背後から聞こえる男の声。頼造にはこの声に聞き覚えがあった。もちろん実際に聞こえたわけではない。だが頼造の心には、本物の声よりも明確な現実感を以て響いていた。
そう。あの名も知らぬ若い警官。
誰にも気付かれず、関心を払われることもない頼造の存在に気付く事が出来るのは、声をかけることが出来るのは、彼しかあり得なかった。
だが今の頼造は、涙を流す目も持ち合わせていなかった。振り返って顔を見る事もできなかった。
「さ、おじさん、まず顔拭きましょう。さっぱりしましょうよ、ね?」
もう一度、懐かしい声が聞こえた。そうだ、あのおしぼり。声が出るほど熱い……。
その時、突然、暖かく少し甘い紅茶の香りが頼造の鼻腔を刺激し、頼造の記憶を細部まで彩っていった。
そういえばあの喫茶店は紅茶のいい香りがしていた。そうか。あの店は紅茶専門店だったのかも知れないな。
控えめだがセンスの良い古き西欧風の店構え。自宅の近くにこんな店があったとは知らなかった。
もったいなかったな、と頼造は思う。あんな良さそうな店に気付かないなんて。あのアンティークな外装は、今はもう全てが崩れ去っているのだろう。二度と見ることは出来ないのだろう。
かけがえのないものを失った気分だった。いや、失ったのではない。気付いていなかったのだ。
何故、気付かなかったのだろう。
家からそれほど離れているわけでもない。同じ町内だ。なのに。何故。
紅茶の香りに包まれて、頼造は思考を続けていた。この香りだけは確かな存在感を持っていた。頼造の思考をかきたて、何かを目覚めさせようとしていた。
誰にも気付かれない私。努力をしようが傷つき果て疲れ果てていようが大きな結果を成し遂げようが誰にも気付かれない、見ようともされないと思っていた私。
そんな私が、こんな素敵なお店に気付かないでいたのだ。素晴らしいセンスでお店を装飾し、飲む人を癒す香りのするお茶を入れ続けていた素晴らしい店主の事も、私は知らなかった。
私の存在に気付き、救ってくれたあの若い警官の事も、それまで私は知らなかったじゃないか。
気付かれない事は悲しい事だけど、仕方がないことなのだ。気付かない方も、もちろん気付かれない方だって悪いわけではない。気付かれない方は苦しいが、後に悔やむのは必ず気付かなかった方なのだ。
今まで私は、気付かれない事を悲しがっていた。しかし自分が多くの事に、人に気付いていなかった事をわかっていなかった。気付く事は簡単なことではない。だが、視野を広げ、多くの物を視界に入れることは出来るはずだ。
頼造の身体が温かくなって来ていた。「無」の中で初めて感じた紅茶の香りにつづいて、全身に感じるぬくもり。この温かさは本物だった。それだけでなく、多くの人の想いが伝わってくるようだった。
左手が熱かった。誰かが頼造の手を、強い想いを込めて握り締めていた。
その手を握り返したかった。だが、身体が自分のものではないように力を入れることができなかった。
私の想いに気付いてくれ――。頼造はそう強く思いながら、握られた手の熱を受け止めていた。




