八 兆し。
「きゃああああっ!」
智美は悲鳴を上げて操縦桿を倒した。
突然目の前に現れた敵機が振り向き、剣のような武器を構えてニヤリと笑ったのだ。もちろん機械である敵機が笑うわけがない。しかし、両目を赤く光らせたその顔が、智美には獲物を追い詰めた殺人鬼のような笑いの表情に見えたのだ。
急速に左に折れ、またもや制御を失って飛び去る智美機。敵機は完全に制御された正確さで、智美機を追い抜き、またも前方に回りこんだ。パニックに陥った獲物を弄ぶ肉食獣の余裕が見て取れる。
「智美ちゃん! 撃て! 敵は正面なんだぞ!」
宮司が思わず叫んだ。だがパニックを起こしている智美にそんな余裕がない事は明白だった。
「大榊、なんとかならんのか!」
言った宮司本人でさえ、無茶な事だとわかっている発言だった。敵機と智美機の距離が近すぎ、スピードが速すぎるのだ。射撃など出来る状況ではない。
間断なく続く恐怖。自分の制御できる範囲を超えるスピード。そしてそれを確実に上回り、何度でも目の前に現れる紅い敵。
私は死ぬ。死ぬんだ。
智美の意識はその恐怖に塗りつぶされていた。後悔する余裕などはなく、純粋に恐怖だけがあった。
死ぬ。この紅い敵に殺される。
逃げても逃げても目の前に現れる敵。自分の力で出来る事など何もない。敵がその気になれば、いつでも私を殺す事ができるのだ。
その気になればいつでも。
その気になればいつでも。
ソノキニナレバイツデモ。
なんでこんなに怖い思いをしなければならないんだろう。この怖いのはいつ終わるんだろう。
終わるのは、死んだ時だ。
死んだ時、この死の恐怖は終わる。
何故敵は私を殺さないの?
この恐怖が続くなら、いっそのこと。
早く、殺して。
智美がそう思った時、敵機の顔から笑みが消えた。いや、智美が敵機の顔に悪魔の笑みを重ねなくなっただけだ。
T1-1は接触すれすれまで接近していた。敵機は右に避け、武器を振り上げた。同時に智美はT1-1を左上方に逃がした。敵機が初めて見せた攻撃は、T1-1下部に取り付けてあった荷電粒子レーザー砲を斬り落とすにとどまった。
「ほぉ、覚悟を決めたってわけか」
思いもかけずギリギリまでつっこんで来たT1-1。彼は充分に引き付けてからかわし、ヴァリアブル・ダガーを振るった。必中の間合いだった。回避することなどできまい。
硬いモノを斬り裂く手応えは彼を陶然とさせる。だが、一瞬で消え去ったその感覚は、彼の欲求を満たすどころか、更なる苛立ちを催させた。
斬り裂かれたはずが、上空へ飛び去るT1-1。落下していくのは外側に取り付けられていたビーム砲だけだ。
俺が斬り落したのは、たったあれだけか。あいつ、怯えた小動物みたいにパニックを起こしていたくせに、あの斬撃を避けやがったのか。
……上等だ。念入りに狩ってやるよ。
彼はヴァリアブル・ダガーの刃を細く伸ばし、パタのような形状を生成した。すでに100m程上空にいるT1-1に向かって急激に加速する。
だが次の瞬間、彼の目の前に火線が走り、方向転換をして避けた彼の大きな翼をかすめ、焼いた。
何で避けられたんだろう。
智美の頭にその疑問が渦巻いていた。
自分が至近距離まで突っ込んでいった事も、敵がそれをかわして武器を振り上げた事も、しっかりと見えていた。いや、見ていた。その上で操縦桿を引いたのだ。
急に目が開いたような感覚だった。
唯一の武装が落された以上、智美に出来る事は逃げ回る事だけだった。時間稼ぎ。その先に自らの撃墜が待っていたとしても、作戦を成功させる為にはそれが必要だった。
恐怖はあったが、先ほどまでのようなパニックを起こすようなものではない。自分に起きた変化が、智美にはよくわからなかった。
香川さんは、こんな気持ちだったのかな。こんな気持ちで、戦っていたのかな。
智美の脳裏に、病室で穏やかに眠っている頼造が浮かんだ。
涙が一筋、流れた。
背後で敵機が武器の形状を変えていた。禍々しく鋭いその刃。出来る限り避けて時間を稼がなきゃ。
敵機がこちらに向かって加速してくるのがわかった。
智美は、透明になった気持ちで操縦桿を握りなおした。
「倉科! 大丈夫か! 今行く!!」
その時、声とともに、敵機との間を火線が走った。
「速水……君……?」
一瞬、何が起こったかわからず、ただつぶやく智美。さっきまでの透明な感覚から引きずり出され、突然世界が雑音で満たされたようだった。
「瀬里奈さん、行くよ! 合体シークエンス、起動ぉ!」
高速で智美のそばを通り過ぎた二機がドッキングし、トライツヴァイが地面に降り立った。




