八 兆し。
出海が淹れた本格的な紅茶が注がれると、室内にうっすらと漂っていた紅茶の香りがはっきり強くなった。暖かい香りは、母娘の冷えた心を癒していく。
華江はハンカチで涙を拭った。気分は落ち着いてきているが、娘に言うべき言葉は見つからなかった。
「ありがとう。出海さん……だったかしら。とてもいい香りのお茶ね」
気を取り直して出海に礼を言う。一口含むと、少し甘みを強くした味わいが広がった。
「おいしいわ……。とっても」
甘味は心を落ち着かせ、負の感情をなだめる効果がある。出海は母娘の雰囲気を感じ取り、敢えて甘めにしたのだろう。
母の、あまりにも素直に心から出たその感想に、華夕は少し驚いて顔を上げた。華夕の記憶の中に、心から素直に何かを褒め、感謝の意を表す母は存在しなかったのだ。
「出海さん、ありがとうございます」
華夕はそう言って甘めの紅茶を一口飲むと、もう半ば習慣と化している仕草で頼造の様子を確認した。
華夕の動きが止まった。
「出海さん……」
かすれたように、つぶやくように、出海を呼ぶ。華夕が見つめているのは頼造の脳波計だ。今まで、かろうじて生きているという事だけが確認できる波を表示していた脳波計が、激しい波を描いていた。
「出海さん! 頼造おじさんが……!」
華夕の声は悲鳴に近い。感情の高ぶりが制御できなくなっていた。
しかし、活発に活動を開始している様子の脳波とは裏腹に、頼造の身体はぴくりとも動かない。
香川頼造の脳波が活発な活動を再開した。稲本友美航空曹長補がその一報を智美の部屋に持ってきた時、智美は輝美と昼食後のお茶を飲んでいた。
智美は一報を耳にしたとたん思わず立ち上がった。その目に、涙が溢れた。
「まだ、身体が動くというところまでは回復されていませんが、精神活動が再開していることは間違いないそうです」
稲本の声にも涙が混じっている。
智美は静かに座りなおし、涙を拭った。
「よかった……。ありがとうございます、稲本さん……」
輝美も頼造の経緯は智美から聞いている。ほっとした表情を浮かべ、智美の肩に手をかけた。
「智美ちゃん、行かなくていいの?」
「うん。香川さんには、華夕ちゃんがついているから……」
それは、言葉こそ今までの智美と同じ、遠慮と自分が動かない事の言い訳のようだったが、智美の中では明確に変化が起こっていた。
「稲本さん、午後の説明会まではまだ時間ありますよね?」
「うん、そうね。14時からだから、まだあと一時間以上は」
稲本は、腕時計を確認してうなずいた。
「ママ、一緒に来てくれる? 見せたい物があるの」
「うん、もちろん。でも何を見せてくれるの?」
輝美は智美より先に立ち上がっていた。輝美も、何か一つ覚悟が出来たように感じていた。まずは娘の考えている事を全て知りたい。その気持ちは、知りたくない現実を知る怖さを圧倒していた。
「ありがとうママ。ママに見てほしいのは、今の私なの」
智美も立ち上がった。
「あ、ママ、それから……あとで鶴の折り紙、教えてくれる?」
輝美はゆっくりとうなずいた。随分大人になったけれど、智美は自分の娘であり続けてくれている。不安はあっても、輝美の心には暖かな感情があふれていた。
同日13:55。
速水家、倉科家、今野母娘に、伊藤瀬里奈、真島一樹を加えた九人は、中会議室に案内された。今後の事について、意思確認を含めた話し合いをするためである。
中会議室で彼らを待っていたのは、五十畑、大榊、宮司、金富。そして岐部信太郎内閣総理大臣、御殿場輝尚防衛警備大臣の姿があった。
「え、岐部総理……!?」
勇夫が思わず声をあげた。モニタ越しに言葉を交わしたことはあるが、実際に目の前で見るのは初めてだ。国会中継などで見ている人が目の前にいるのは奇妙な感覚だった。
「しばらくですね、速水勇夫君。先日は私達を守ってくれてありがとうございました」
岐部総理は勇夫に声をかけ、【Tシリーズ】のメンバーやその家族に頭を下げた。
「これからも、私達、つまり日本には、あなた方の力が必要になります。あなた方や、そのご家族の方々にご協力いただくために、私や防警大臣も直接お会いしてお話させていただこうと思い、皆さんにお目にかかった次第です。もちろん、我々のお願いについて、拒否する事ができるのは言うまでもありません」
岐部総理の横で、御殿場防警大臣が大きくうなずき、一歩前に出た。
「みなさん、どうぞお掛け下さい」
「あぁ、私が気がつかなくて大変申し訳ない。こうやって御殿場大臣にもフォローしていただいて、なんとか努めているところでありまして、私はいつも感謝しているんです」
岐部総理がばつの悪そうな顔で皆に頭を下げると、場の空気は一気に和んだ。
全員が席に着くと、温かいお茶が運ばれてきた。落ち着いた雰囲気の中、午後の説明会が始まった。




