六 決意と覚悟。
「智美ちゃんって、いつも髪下ろしてるでしょ。すっごいサラッサラだよね、うらやましいな」
稲本が、智美の髪をブラッシングしながらため息をついた。
「そんな事ないですよ! 小学校の時は結構結んだりとかしてたんですけど、中学入ってからしなくなっちゃいましたね」
二人は風呂から上がって、すっかりくつろいだ雰囲気になっていた。智美に兄弟はいなかったが、稲本にブラッシングしてもらっていると、お姉ちゃんというのはこういうものなのかも知れないと思う。家族から切り離されて気を張っていた心がほぐされるのを感じていた。
「智美ちゃん、アップにしても似合うと思うけどなぁ。ほら」
稲本の手が、智美の髪を束ねて見せる。鏡に映る自分の顔は、アップにした分印象が強調されて見えた。
「やばい、可愛い! やっぱり似合うじゃん!」
智美の顔の上に映る稲本の顔が、他愛なくはしゃいでいた。
「あたし昔は美容師になりたかったんだよね。智美ちゃんみたいな子がお客さんで来たら、もういろんな髪型提案しちゃうだろうなぁ」
「ほんとですか? でもやっぱりアップにすると顔が強調されるからちょっと恥ずかしいなぁ」
そう言えば、普段の稲本の髪型はあっさりと束ねたポニーテールだ。今は湯上りで髪を下ろしているが、思ったよりも長さがあった。下ろして巻いてみたらとても似合いそうだ。
「稲本さん、下ろしてるのも素敵ですよね。巻いてみたりしたら似合いそう! あ、でも軍だと難しいのかな」
「え、もしかして、髪上げてると顔丸いのばれるって言ってる?」
稲本が鏡越しに智美を睨みつけた。もちろんその目は笑っている。
「そんなわけないじゃないですか! もぉ」
二人の笑い声が弾ける。
「……でも、稲本さん、どうして美容師になるのやめて軍に?」
智美は、ふと気になって尋ねた。確かに稲本には軍人より美容師の方が似つかわしく思えたのだ。
美容師を目指していた彼女がどうして軍人になろうと考えたのか。智美には不思議でならなかった。
「んー、そうね……。悔しかったから、かな?」
稲本は手を止めて、言った。
「悔しかった……?」
「そう。三年前、高二だった頃なんだけど、あたし交通事故にあったんだよね」
智美は思わず振り返る。
「あ、ううん、事故にあったんじゃなくて、ええと、見たっていうか。現場にいただけなんだけど」
慌てて言い直す稲本。
「もぉ、びっくりしたじゃないですかぁ」
智美は大げさに苦笑して前を向いた。
「ごめんごめん。でもね、あたしにとっては、それくらいショックだったんだ」
鏡に映った稲本は少し目を伏せた。
「高二の冬にね、行きたい美容学校も決めた頃だったな。学校の帰りに駅に向かってたら、バイクがつっこんできたんだ。あたし、立ちすくんじゃって……。
でもね、そのバイク、あたしのすぐ横を通り抜けてね。街路樹にぶつかって倒れたの。ずっとふらふら走ってたみたい。もしかしたら走ってる最中から、運転してる人に何かあったのかも知れない。
あたし、怖くて、その場を動けなかったんだ。バイクに乗ってた人が倒れて転がって動かなくなってるのに、助ける事はもちろん、声をかける事もできなかったの。情けないよね」
私と同じだ……。智美は鏡に映る稲本の顔を見つめた。可愛らしくも優しく頼りがいのある立派な軍人さん。しっかり者の稲本が自分と同じように何も出来なかったなんて、智美には信じられなかった。
「ただ怖かっただけじゃない。何も出来ない自分に対して、ううん、自分が何もしない事に対して、知識がないとか、自分のせいで悪化させたら、とか、ずっと頭の中で言い訳してたんだ。自分には関係ないって。最悪だよね」
稲本の正直な述懐。一切虚飾のないその言葉に、智美は引き込まれていた。
「その時ね、通りかかった女の人が、状況を見てすぐに動き始めたの。周りにいる人に救急車と警察を呼ぶように指示して、倒れてる人に声をかけて、応急処置をして……。
すごく素早くて的確だった。それを見て、何もしなかった自分が惨めで、悔しくてね……。ずっとその女の人を見てたんだ。
救急車が来て、バイクの人が運ばれていって。そしたらその女の人があたしのところに来て、『もう大丈夫だよ』って言ってくれたの。
カッコよかったなぁ。その時、あたしも人が辛い時、苦しい時に何か出来る人になりたいって、ううん、出来る事を『する』人になりたいなって思ったんだ。出来る事から逃げずに、ちゃんと実行する人にね」
稲本の言葉が智美の心に染み込んでくる。
そうなのだ。自分も自分に言い訳をして、出来る事、してあげたいと思っていた事から逃げたのだ。
稲本がその辺りの事情を知っているかどうか智美にはわからなかったが、この話が作り話とは思えなかった。
「そのあと警察が来て現場検証とか始めて、あたし達のところに目撃者として話を聞きに来てね。その時その女の人が、防警大の学生さんで士官候補生だって事を知ったの。
なんか、ストンと胸落ちしたんだよね。人を助けるため、守るための訓練をしてるから、自分ができることをするのにためらわないんだ、ためらう必要がないんだって。すごくうらやましかった。素敵だって思った。あたしもこの人みたいになりたい、もう同じ悔しさは味わいたくないって」
智美は無言でうなずいた。その時の稲本の気持ちが、自分の事のように理解できた。わかりすぎる位わかるからこそ、言葉が出てこなかったのだ。だが、言葉はなくとも、稲本は今の自分の気持ちをわかってくれているという安心感があった。
「実はね、その女の人、最初は髪下ろしてたんだけど、事故現場を見た瞬間にね、髪をさっと束ねて後ろで結んだんだよね。ポニーテールを揺らしてきびきび動いてたその姿がかっこよくて……。
希望進路を防警大に変えた時からあたし、ポニーテールにしてるんだ。自分を、変えたかったから」
智美は鏡に映る稲本を見つめた。変わらない、暖かい表情がそこにあった。だが、その中に熱く固い決意と覚悟がある事を知った智美には、今まで以上に尊敬と信頼を抱かせるものになっていた。それでいて、心の距離はずっと近づいた感覚……。
「どうしたの、そんなに見つめられると照れちゃうんだけど」
稲本は照れたように笑って、智美の髪をきゅっと束ねた。鏡に映る智美の顔は、髪をアップにする事で少し引き締まったように見えた。
私は、強くなれるだろうか……。その女性みたいに。目標に向かってまっすぐに自分を高めていこうとしている稲本のように。
智美には自信がなかった。だが、鏡に映ったポニーテールの自分と稲本の顔を見ていると、智美の胸に一つの思いが浮かんできた。
そうだ。自信があるかどうかは問題じゃない。できるかどうかじゃない。自分で動くことなんだ。動くと決める事なんだ。それは、覚悟を決めるかどうかという事なんだ。
智美は、自分の中の自責の心が消える事はないだろうとわかっていたが、それには二度と押しつぶされるまいという決意が強固になったのを感じていた。
鏡の中の智美の顔が、きゅっと唇を結んだ。




