四 孤独と絶望。
「あ、勇夫君、ここにいたのね」
瀬里奈が入って来るなり声を上げた。智美は一瞬、身体をびくっと震わせた。
「倉科さんも、香川さんもこちらでしたか」
瀬里奈に続いて金富参尉が入って来る。
「何か……?」
頼造が金富に尋ねた。出撃にしては金富の態度は落ち着いていた。既に話を聞いているらしい瀬里奈にしても、出撃前の緊張感はない。
「昨日の戦闘データ分析と【Tシリーズ】についての分析を行っているのですが、パイロットの皆さんのご意見も伺いたいのと、分析結果のフィードバックも含めて、本日19時にミーティングを行います。5分前にここに集合という事で、よろしくお願いします」
談話室にいた三人と、入ってきた二人の空気はまるで違っていた。重い空気の三人に比べ、瀬里奈と金富はたった二日で随分打ち解けているようだった。
「で、金富さんに聞いたんだけど、合体した後のシミュレーターが使えるようになったんだって。【Tシリーズ】のコクピットで実機シミュレーションが出来るそうよ。ね、勇夫君、今後のためにもシミュレータで練習しておかない? ミーティングまで時間あるし」
瀬里奈は勇夫の右腕を引っ張る。
「えっ!?」
「え……」
勇夫と智美は同時に声を上げた。二人の視線は瀬里奈に注がれた。瀬里奈はここで初めて着替えた時と同じ、腕を思いっきり出したタンクトップ姿だった。勇夫の視線は一瞬、瀬里奈の胸元をうろついて、慌てて瀬里奈の顔に向いた。智美は瀬里奈から視線を外した。
智美の視線は勇夫に移っていた。勇夫がどう対応するのか気になってしまう自分が不思議でならなかった。シミュレーション訓練をするのは悪いことではない。むしろ必要な事だ。なのにどうしてこんなに納得がいかない気持ちなのか。
「ほら、あたし達はパートナーなんだから。勇夫君は【トライツヴァイ】のメインパイロットなんだからね。あたしの命も懸かってるって事忘れないでね?」
瀬里奈に引っ張られるまま、勇夫は立ち上がった。いい匂いがした。智美が見ているというのに、勝手に鼓動が早くなるのを抑えることができない。
「あ……私も……」
智美も思わず立ち上がっていた。胸の奥にもやもやした物が存在した。瀬里奈のタンクトップ姿にも、勇夫の態度にも腹が立った。しかし何故腹が立つのかは、智美自身にもわからない。
瀬里奈は余裕を持った笑顔を智美に向けた。
「そうだね、智美ちゃんも練習しないとね。練習だけがあたしたちの命を助けるわけだし。ねぇ、香川さんも……」
「いえ!」
瀬里奈が頼造に言いかけるのを、智美の声が制した。一瞬、場が静まった。智美自身、思わず出した自分の声の大きさに驚いていた。
「……私は、一人で大丈夫です……」
消え入るような声で、申し訳なさそうにそう言うと、智美は頼造に深くお辞儀をした。頼造は、浮かしかけた腰を椅子に落ち着けた。
頼造には解っていた。
智美のその言葉が、完全な拒絶であることを。
一人になった談話室で、頼造はぬるくなったコーヒーを飲み干し、少しだけ、表情をゆがめた。
同日14:43。
大榊隊所属の若い男性下士官が頼造の部屋を訪れた時、頼造は【T1-2】の端末に集中していた。
「香川さん、少し、よろしいでしょうか」
下士官がインターフォンを鳴らし、声をかける。頼造は少し表情をゆがめて立ち上がると、ドアを開けた。前に立っている下士官を部屋に招き入れる。
「何でしょうか?」
「はっ! 先日当基地へ来ていただいた際にお預かりした私物をお返しに上がりました。ご確認いただけますようお願いいたします。衣類など、損傷の激しいものについても、一旦クリーニングしてお持ちしています。修復、または処分をご希望される場合はお申し付けください!」
下士官は一つの紙袋にまとめられた頼造の私物を差し出した。
「ありがとうございます」
頼造はテーブルの上に袋の中身を取り出した。見慣れたくたびれたスーツ。ところどころにひどい破れ目がある。きれいに洗濯されてはいたが、頼造にはあまり見たくない物だった。
「それから……、ポケットにこちらが」
下士官が言いにくそうにそう言って、折りたたんだ紙を取り出した。
妻の署名捺印がある離婚届。頼造の心にとどめを刺した物。
頼造は、思わずかすかに乾いた笑みを漏らした。感情が麻痺していくような、恐ろしく空虚な苦笑だった。
「あの……」
頼造は離婚届をテーブルの上の衣服の上に置き、下士官の方を見た。
「他には、ありませんでしたか? あったはずなのですが……」
あの警官の血と、自分自身の決意の涙がしみこんだおしぼり。今の頼造が存在できるのは、あのお守りのおかげだった。
「いえ、特に衣類以外は、先ほどお渡しした、その……書類だけ、です」
下士官は言いにくそうに、ちらりと離婚届に目を向けて言った。
「そうですか……」
頼造は残念そうにそう言うと、衣類を一枚一枚確認した。ネクタイ、背広、ワイシャツ、肌着、下着……。
はらり、と何かが落ちた。白い正方形のタオル生地。頼造の動きが止まった。
あの、おしぼりだった。
きれいにクリーニングされ、漂白もされているのだろう、まっさらになったあのおしぼりだった。あの警官の血も、自分が流した涙も、その全てがきれいに洗い流されていた。
これはもうあのおしぼりではない。あのおしぼりは、あのお守りは、もうどこにもない。
絶望的な大きさの喪失感が、頼造の心を埋め尽くしていた。
「あの……香川さん……?」
問いかける下士官の言葉も耳に入らず、頼造はそのまま呆然と立ち尽くしていた。




