(5)
「ふふふ~、ふふ~ん~ふふでござる~♪」
「おい、伊吹。五月蠅いぞ。静かに指せ」
「ああ、これは失敬でござる。皆人殿」
皆人に叱られながらも、伊吹はご機嫌だった。
時刻はもう夜の十時を回っている。今は習慣となった寝る前の将棋をしている最中だ。
「王手でござるよ、皆人殿」
伊吹の金が皆人の王の目の前に据えられる。
パチ、っと音を立てて皆人が盤上の銀で応戦。
「千日手……か」
「引き分けでござるな」
千日手とは、ボードゲームに置いて同じ駒の配置が繰り返し、勝負が進まなくなること。いわゆる引き分けだ。
「初めて負けなかったでござるよ」
「喜ぶのは勝ってからにしろ」
「ふふふ、そうでござるな。ささ、もう一局でござるよ」
皆人に辛らつな言葉を掛けられながら、伊吹は依然として上機嫌だった。
初めての学校。夕刻のモエモン初勝負。しかも、その後には皆人との初手合わせ。そして、今度は初めて皆人と将棋で引き分けたのだ。
自然と緩む頬を止められず、知らぬ知らぬのうちにまた鼻歌が零れだす。
今日一日で、皆人との距離が一気に近くなった。伊吹はそんな気がしてならなかった。
そんな浮かれた気持も手伝ってか、今日の伊吹はひどく不用心だった。
自分の言葉に注意を払わぬほどに。
「そう言えば、皆人殿」
それは、伊吹が切り出した何気ない話だった。
「皆人殿は、何故剣道部を退部してしまったのでござるか?」
嬉々として話し出す伊吹に、皆人の眉がピクンと跳ねる。
「その話はすんな」
無表情は変わらないが、明らかに皆人の機嫌が曇ってきた。
だが、伊吹は気分が高揚しているのだろうか。いつもなら見逃すはずのない皆人のその些細な変化に気が付くことが出来なかった。
「皆に聞いたでござるよ。皆人殿、全国大会で優勝したのでござろう?」
「昔のことだ」
「今日の最後の一太刀は、本当に見事でござったよ」
「あんなのまぐれだ。もうその話はよせ」
「そんな謙遜せずに」
「やめろって言ってるだろ」
「皆人殿、もう一度剣の道に戻る気はないでござ……」
「……るせぇよ」
「えっ?」
ひどく籠った声に、ようやく伊吹が皆人の変化に気づく。
しかし、それはもう手遅れだった。
「み、皆人ど……」
「うるせぇって、言ってんだよっ!」
咆哮を上げ、皆人が力任せに腕を薙ぐ。
重々しい音と共に将棋盤が吹き飛ばされ、ジャラジャラと音を立てて駒が床に散乱した。
「な、なんだっ、なんだっ? おい、伊吹。何があった」
慌てて押入れから飛び出してくる九王が見たのは、感情を露わにし伊吹の前に仁王立ちになっている皆人の姿だった。
「み、皆人殿。一体、どうしたでござるか?」
驚きながらも、皆人を落ち着かせようと手を伸ばす伊吹。
伊吹は皆人の地雷を踏んでいた。皆人は怒りを湛えた双眸で容赦なく睨みつける。
「ぁっ、ぁぁ……」
皆人の剣幕に押され、たじろぐ伊吹。浮かぶ腰が力を無くしたようにペタリと床ついた。
そんな怯える伊吹に対し皆人は人が変わったように叫んだ。
「お前には関係ない話だろ。他人の事情に軽々しく口を突っ込むんじゃねぇっ」
「なっ!」
完全に気迫負けしていた伊吹だったが、「他人」という言葉に我を取り戻すと、皆人にも負けない剣幕で反論に乗り出した。
「関係なくはないでござるよ。拙者は皆人殿のパートナーでござる。他人ではござらぬ」
「それだっ。そもそも、俺はこんな訳のわからないことは願い下げだったんだぞ。勝手に人の生活に乗り込んできやがった、勝手なこと言ってんじゃねぇぞっ」
今にも掴みかかりそうな勢いで怒鳴りつける皆人。
そんな皆人に対して、逆に伊吹は諭すようにゆっくりと静かに言い返した。
「何でそんなに泣きそうな顔をしているのでござるか? 皆人殿」
「んなっ! だれがっ……」
今度は、皆人がたじろぐ番だ。実際皆人は泣いてはいないし、泣きそうな顔もしていない。だが、不安定な心の内を言い当てられたのは事実だった。
言葉を飲み込み皆人に対し、伊吹は自分の胸を前で小さく指を組んで、言った。
「まだ未熟でござるが、拙者とて武士の端くれ。一合剣を交えれば、言葉で語るよりも多く皆人殿を知ることができるでござる」
「じゃあ、わかってんだろ。俺は、こんな茶番なんかまっぴらだ」
「何でそんな嘘をつくでござるか、皆人殿」
「嘘じゃねぇ」
「嘘でござる」
「嘘じゃねぇっ!」
「嘘でござるっ!」
互いに一歩も引かない。気持ちと気持ちがぶつかり合う。
それだけに、次に続く皆人の言葉は卑怯だった。
「何でテメェにそんなこと言われなきゃならねぇんだ。人間じゃないお前に、俺の何がわかるってんだよっ!」
「っ!」
伊吹の表情が、悲しみに引き攣った。
今にも泣きそうな相貌に、皆人の勢いが猛烈な勢いでそぎ落とされる。
黙る両者の間に、皆人の言葉で憤慨した九王が嘴を挿んできた。
「こ、このヤロー。伊吹になんてこと言いやがる」
「九王っ!」
「おう、任せとけ伊吹。今からこの九王様が、こんなへなちょこなんてコテンパンにっ!」
「―――止めるでござる」
「え? い、伊吹……」
「止める、でござ……るよ……」
涙が零れる寸前まで顔を崩す伊吹に、皆人の熱が一気に冷める。
皆人の顔が再び無表情の仮面に覆われた。
「もう……遊びは終わりだな」
静かに夢の終わりを告げ、皆人が右手の指輪に手を掛ける。静かな銀の煌めきを放つ指輪は三日前とは打って変わりすんなりと外れた。
コトンと小さな音を立て、皆人が外した指輪を机に置く。
「寝る」
飛び散った駒、転がった盤。必死に涙を堪える伊吹と、自分の感情を抑える九王。
凄惨な惨状を残し、皆人は蛍光灯を常夜灯に切り替え布団に潜り込む。
そして一夜が明け、皆人が目を覚ました時。
綺麗に片づけられた部屋には、皆人以外の誰もいなかった。




