第11話 ジュート
朝起きる、歯を磨く、朝食を食べる。そして諸々。
まだ寝ている白石の分まで朝食を作り、先に家を出る。
玄関先で、近所の住民と出くわした。
「縺翫?繧医≧縲?」
まだ完全には分からないが、意味を察することはできる。これは「おはよう」だ。
「おはよう。」
「縺翫?繧医≧縲?!!!」
彼は嬉しそうに繰り返す。彼もまた、俺の「おはよう」を覚えてくれたのだ。
「莉幫律縺ッ蜀キ縺医k繧峨@縺?h縲∵囑縺九>譬シ螂ス縺ァ縺ュ」
「ああ、すまん。それは分からない。」
彼は両手で自分の体をぎゅっと抱きしめて見せる。抱きしめて? 暖かくしろ? だろうか。そういえば、今朝は少し肌寒い。
玄関からマフラーを取って首に巻き付けると、彼は満足そうに笑った。やはり「冷えるから暖かくしろ」だったのかもしれない。
「縺昴≧縺?∴縺ー縲∵乖譌・縲?カ上?逶ョ邇峨r豐「螻 agenda 莉募?繧後◆繧薙□縺代←縺?k??」
「んー、あんまり好きじゃないから遠慮しようかなー」
背後からひょっこり声が聞こえた。
振り返ると、ベレー帽を被った黒髪の少女が立っていた。
白石新衣だ。
「それより! この間くれた…ザリガニの炙りポン酢&よく分からない液体炒め。あれ美味しかったよ。」
「縺ゅれ縺悟・阪 burn 阪↑縺ョ?溽ァ√?闍ヲ謇九□縺九 breath 峨s縺セ繧贋ス your me ェ縺?s縺?h縺ェ繝シ縲?」
「え? そうなの? じゃあレシピだけでも教えてよ。」
白石と彼はそのまま親しげに話し始めた。会話は大いに盛り上がっているようだ。
見ての通り、彼女は彼の言葉が完璧に理解できている。彼が男だと気づいたのも白石が突き止めたことだ。
この街に来て三ヶ月。白石はもうこの街のほとんどの場所に一瞬で行け、誰とでも自由に話せる。
対して、俺は未だにまともに異能を使えない。この差は一体何なのだろう。
白石がレシピを聞き終えたのか、彼に手を振って別れる。彼は後ろにいる俺にも笑顔で手を振ってくれた。
あれから、三ヶ月が経った。
俺は白石や拓郎さんとパーティを組み、日常的に探索を行っていた。
拓郎さんが前衛で敵を引きつけ、白石が後衛で青い鳥を操り、隙を突いて一気にとどめを刺す。たまにサユも一緒に行動する時は、彼女の翼の能力のおかげでさらに探索が楽になった。
対して俺は、戦闘用の異能もなく、地味な手段で貢献するしかなかった。
けれど、たまには俺が前衛に立って戦う時もある。
――グアアアアアァ!!
不気味な獣の叫びが洞窟に響き渡る。『ジュート』が俺たちを狙っていた。
俺は一歩前に出て、ナイフを構える。ジュートの標的が俺に移った。
ジュートは唐木巣二十層〜三十層に生息する、黒い身体を持つ四足歩行の獣だ。皮膚に毛はなく、光を一切反射しない漆黒の肌で覆われている。
顔にあたる部分には目も鼻も耳もない。あるのは、真っ白な鋭い歯を覗かせる巨大な口だけだ。
その口で獲物を噛み砕き、食らい尽くそうとしてくる。
ゴムのように柔軟な関節を深く曲げ、バネのように溜めた力を一気に解放する。ジュートの巨体が弾丸となって飛び出し、大口が迫る。
俺は慌てることなく、冷静に体を捻って避ける。ジュートは反対側の壁に着地すると、すぐさま再び力を溜めた。
そして、二度目の跳躍。
今度は先ほどよりも速い。だが、軌道は一直線だ。まだ見切れる。
奴は跳躍を何度も繰り返し、そのたびにスピードを加速度的に増していく。限界まで加速すれば、いずれ目で追えなくなる。
だから、そうなる前に決着をつける必要があった。
俺はナイフと逆の手で、ポケットから一つの宝石を取り出した。宝石が仄かに光り、そこから目に見えないほどの極細の糸が吐き出される。地面に一切の振動を与えずに張られる魔法の糸。それがジュートと俺の間に幾重にも仕掛けられた。
ジュートのスピードが最高速に達した瞬間、目視できない糸がその身体に激突した。
ジュートも異変に気づいたが、そこまでの超高速からは急に止まれない。
皮膚に糸が鋭く食い込み、裂け、黒い血が飛び散る。それでもジュートは止まらず、仕掛けた糸が限界まで引き伸ばされ――
ブツンッ!
弾け飛ぶように糸が切れた。
速度こそ落ちたものの、ジュートは怒りに身を任せて俺へと突進してくる。その時、視界の端に鮮やかな青が映った。
ルルだ。白石の青い鳥。ジュートが跳び回る危険な空間を、恐れる様子もなく滑空している。
拓郎さんは少しだけ眉をひそめ、“俺の練習”に付き合うのを諦めると、一瞬で腰の剣を引き抜いた。
一閃。
糸によって減速させられ、ルルに気を取られたジュートの急所を、拓郎さんの剣が正確に貫く。態勢を崩したジュートは激しく壁へと激突した。
何度か痙攣したあと、ドロリとした黒い血を口から吹き出し、奴はピクリとも動かなくなった。
俺はその死体をちらりと見てから、悔しさを押し殺して鳥へと視線を戻した。
ルルは先へと飛んでいく。まるで「こちらへ来い」と促すかのように。
「やっぱり、これをやるには糸の強度が足りないか…。」
異能を使えない俺でも扱えるのが、異界の素材から作られた『魔道具』と呼ばれる代物だ。この魔道具は強靭な糸を生成して操ることができるのだが、ジュートの突進力を完全に受け止めるには強度が不足していたようだ。
「そうですね。惜しかったですが、仕掛けとしては見事でしたよ。」
「…あいつが呼んでる。行くか。」
俺たちは鳥の後を追った。しばらく進むと、いくつものジュートの死体が転がり始め、同時に女性の悲鳴が聞こえてきた。
ジュートの群れだ。その渦中に、白石と、恐らく助けを求めていた人物がいる。
「行くぞ。」
俺たちは一気に飛び出した。
ジュートは目も見えず、匂いも感じず、耳も聞こえない。しかしその代わり、地面を伝わる振動に尋常じゃなく敏感だ。俺たちが近づいた時点で、踏みしめるわずかな振動から俺の存在は完全に察知されていた。俺が駆け出すと、「新たな獲物か」と言わんばかりに三匹のジュートが振り返る。
そして唯一残された巨大な口を広げ、俺を食らおうと飛びかかってきた。
「今日はもういいでしょう。練習は終わりです」
その跳躍の出端を、拓郎さんが一刀のもとに両断した。ジュートが悲鳴を上げ、壁に叩きつけられる。
残る二体は仲間が倒されたことを感知し、瞬時に標的を変えようとした。
しかし、もう遅い。
奴らにとっての死神は、すでに真後ろに立っていたのだから。
一撃。漆黒の首が舞い散る。
最後の二匹目が唸りを上げ、片割れの仇を探して振動を感じ取ろうとする。己の真上からの振動を。
見上げる暇すら与えられず、背中から心臓へと刃が深々と突き刺さった。
鮮血が舞う。
拓郎さんの洗練された無駄のない動きは、まるで画面の向こうの映像を見ているかのように鮮やかだった。
「大丈夫か?」
俺は倒れていた女性に駆け寄り、声をかけた。
女性は怯えで身体を震わせながら、洞窟のさらに奥を指さす。
「あ、あっちに百体以上も…っ! 女の人が二人で戦ってて…!」
そう言って気を失った女性を、拓郎さんが優しく支える。どうやら事前情報通りのようだ。この区画にはジュートが大量発生している。
「…行くか。」
「ええ。」
女性にバックルームキーを握らせて地上へ安全に送り返すと、俺たちは前を見据えた。
拓郎さんが先陣を切る。目の前からは無数のジュート。拓郎さんは身体と剣に眩い紫色の光を纏わせた。
一閃。
一筋の紫光が空間を切り裂いたように見えた。
次の瞬間には、群がっていたジュートが全て一瞬で両断されていた。血の霧があたり一面を覆う。
「先に行ってくれ!」
俺が叫ぶと拓郎さんは頷き、一瞬で姿が見えなくなった。
俺も必死で追うように走る。
道中にはジュートの死体が散乱していた。剣で鮮やかに切り裂かれた傷が多い。
しかし、そうでないものも混ざっていた。削り取られたような深い傷や、綺麗な円形の穿孔。これらはあの二人がやったものだ。
やがて前方に、拓郎さんと白石が佇んでいるのが見えた。
二人は俺の足音に気づくと、軽く手を挙げる。
「ナイスタイミングだね。ちょうどフィナーレが始まるところだよ。」
二人の視線の先には、巨大な大穴が広範囲に穿たれていた。その底は不気味な暗闇に包まれている。
いや、暗闇ではない。大量のジュートだ。溢れんばかりの黒い獣たちが、穴の底でうごめき、蠢いていた。
百体などという数字は誤報だった。そこには数百体を超えるジュートの群れがひしめき合っていた。
しかし、二人にも拓郎さんにも焦る様子は一切ない。そして、俺も不思議と恐怖を感じなかった。
天高く舞う、一筋の『天使』の姿を見たからだ。
空中に優雅に浮かび、純白の翼を広げる少女――サユは、まさに神話に出てくる天使そのものだった。
彼女が空中で静かに手を振りかざすと、空間に無数の光る羽根が出現する。それらが一斉に地上へと放たれた。何万、何千、何百もの鋭利な羽根が、白い雨となって降り注ぐ。
数多のジュートが羽根に貫かれ、金声玉振の悲鳴とともにその短い生を散らしていく。
絶叫が洞窟に木霊する。だが、生への執着を捨てぬ異形たちの『母』が、暗闇の底から姿を現した。
ジュートはただ一匹の牝からすべての個体が生まれる。
『女王』だ。女王は最後の力を振り絞り、天使をたたき落とそうと狂暴な顎を鳴らした。
無数のジュートたちが互いの身体を重ね合わせ、肉の塔を築き上げていく。それをよじ登る女王。塔はあっという間に空中高くの天使へと届きーそして、一瞬で崩れ去った。
最後の瞬間、女王は何が起きたのかすら理解できなかっただろう。サユは降下しながら、女王を頭から一瞬で真っ二つに切り裂いていたから。
残された僅かなジュートたちが、蜘蛛の子を散らすように奥へと逃げていく。
俺たちはそれを深追いしなかった。今日の目的は要救助者の捜索と救出であり、ジュートの全滅ではないからだ。
サユもそれを理解しており、逃げていく群れには見向きもせず、俺たちの元へとゆっくり降りてきた。そして背中の翼を消す。
「多すぎでしょあれ。あの『名前を言ってはいけないあいつ』を思い出したわ」
サユが言っているのは悪の黒幕ではなく、台所に突如現れる黒いアイツのことだ。確かに遠目からの群れの動きはよく似ている。どちらかといえば巨大な蟻に近いが。
「流石にあの量はサユさんがいなければ倒せませんでしたね。助かりました」
「別に、大したことじゃないわよ。それより! 今日の打ち上げはどこでやるの?」
翼を仕舞い、白石と楽しそうに行きたい店を言い合う姿は、どこにでもいる普通の少女そのものだ。
彼女は時折こうして俺たちの探索に同行し、その後の打ち上げを楽しみにしている。むしろそれが本当の目的なのだろう。
けれど、今回ばかりはいてくれて心底助かった。
「…帰るか。」
はしゃぐ二人と、それを温かい目で見守る拓郎さん。そして、俺。
和気あいあいとしたその空気の中に、俺と彼らを隔てる『見えない線』が、はっきりと引かれているような気がした。




