第10話 旅立ち
世界が逆さになった。
右も左も分からない。俺は今どこにいる?
分かっている。どこにいるかなど。
勿論、異界の空にいるのだ。落ちているのだ。深い、深い穴の中を、ただひたすらに落ちているのだ。
「そろそろ着地するぞ。」
耳元で、篠崎の声が聞こえた。幻聴か、それ以外か、何も分からない。
白石の無邪気な笑い声が聞こえる。拓郎さんは…どうしているだろう。
落下速度はどんどん速くなる。風圧で目も開けていられない。無限にも思えた時間が過ぎ、俺はようやく――。
地面に叩きつけられるように落下した。
猛烈な土煙が立ち込める。肺に入り込み、激しく咳き込む。隣でも誰かが咳き込む音がした。
その時、一陣の突風が吹き荒れ、視界を覆っていた砂煙が一気に晴れる。
白石のペットが、誇らしそうに空で羽ばたいて風を起こしていた。
「ルル! ありがとう!」
ルルというらしいその青い鳥は、今のところ今日の文句なしのMVPだ。
白石がルルを抱きしめて撫でている横で、篠崎が煙草を取り出し、マッチで火をつけた。
紫煙がゆっくりと空へと昇っていく。
「このように、念力で落下の衝撃を殺すことができる。ただ、力加減を誤ると潰れるだけだから初心者はやらない方がいい。」
「なんで…俺たち落下してたんだ…っけ?」
「ここが近道だからな。」
頭がぐわんぐわんと揺れ、視界と思考が歪んでまっすぐに立てない。
そうだ、篠崎は俺たちを大穴に突き落としたのだ。「近道だ」と言って。
「じゃあ、こっちだ。」
篠崎が案内する先には、ぽっかりと口を開けた洞窟があった。ふらつきながら後を追う。倒れそうになる俺の体を、拓郎さんが静かに支えてくれた。
洞窟の中には、幻想的な景色が広がっていた。
壁一面に埋め込まれたたくさんの鉱石が、様々な色の光を放っている。
「ここは、鉱石地帯なのよ。」
ここまでずっと無口だった女性――御門が話しかけてきた。
少し驚いて言葉を返せずにいると、御門はそのまま続ける。
「ここにある鉱石の殆どは地上でも採掘可能だけど、最初はみんな喜んだそうよ。使い道の分からない未知なる秘宝より、確実に価値が保証されている鉱石の方がいいものね。」
御門は壁から一つ、素手で鉱石を取り外した。
「でも、あっという間に市場は鉱石で埋め尽くされて、価値はどんどん下がっていったわ。やがて売れなくなった鉱石は、この穴の中に放り込まれた。そして再び異界に取り込まれて、こうやって光を放つことになったの。」
「それは…作り話?」
「あら、よく分かったわね。」
御門はうっすらと微笑み、それきり黙り込んだ。
不思議な人だ。
「着いたぞ。ようこそ、唐木巣二十層へ。」
洞窟を抜けると、眩い光が溢れ、大勢の人々の声が響き渡った。楽しそうな声、騒がしい声、客を呼び込む声。
そこは紛れもない、巨大な『市場』だった。
路上を異形の生物たちが跋扈している。聞き慣れない異界の言語が飛び交う中、ごく普通の人間も混じって当たり前のように会話を交わしていた。
異様で、狂おしい空間だ。
「ここは二十層の市場、ラグドラ。唐木巣で最後の補給地点であり、これより下に住む奴らとの交流場でもある。ちなみに無限城もこの辺りにあるぞ。」
さらっと凄いことを言った。だからあんなバケモノたちがいたのか。
「スタンダードコースっていうのは普通、三層あたりをぶらぶら散歩して戦闘のいろはを教えてやるプランなんだが、そんなのやるだけ無駄だからここまで一気に連れてきてやった。ここは一度来れば転移の鍵が使える。表じゃ出回らない武器や情報もあるから、ちょくちょく来るといい。ああ、でもここから本格的な探索を始めるのはやめておけよ。二十層はお前らにはまだ早い…」
「あら、こんなところにいたのね。」
篠崎の説明の途中で、御門が足を止めた。
「ん? ああ、アヤセか。」
篠崎も遅れて反応する。視線の先には一つの露店テントがあり、その入り口に一人の女性が腰掛けていた。
黒い髪に、冷たい目をした女性だ。口元は布で覆われている。まるで怪しげな占い師のようだ。
「ああ、お前たちか。」
アヤセと呼ばれた女性は低い声で応じた。そして、テントの中から古びた籠を取り出すと、どさりと俺たちの前に置いた。
「何が欲しい?」
「…傷薬を九つ。獣避け、バックルームキーをそれぞれ三つずつくれ。」
「分かった。」
そう言うと、アヤセは何の動作も見せなかった。
「今日はこっちに店を出してたんだな。ああ、こいつは俺たちが行こうとしてた薬屋の店主だ。寝てたわけじゃなかったらしい。」
言われて思い出した。地上で閉まっていたあの店か。
「それは悪かったな。ここより下層で取引があったんだ。」
「そうか、順調そうで何よりだ。」
「お前たちこそ、面白いものを連れているじゃないか。」
「面白いもの? ああ、こいつらか。」
アヤセと篠崎の視線が、俺たちに向けられる。
「面白いかどうかは、この先で決まるさ。」
「いや、もうすでに面白いよ。」
アヤセは一瞬、白石の方へ視線を送った気がした。
「まあ、じきに何かが変わるだろう。それを待てばいい。他に用がないなら消えてくれ。次の客を待つ。」
「ああ。じゃあな。」
「ばいばい、アヤセさん。」
そうしてアヤセと別れた。最後まで手元に商品も代金も出さなかった。
「なあ…商品はどうやって受け取ったんだ? 代金は?」
流石に気になったので尋ねてみる。
「俺たちは専用の倉庫を持ってるんだ。そこに商品を直接移動させてもらった。代金は向こうの金庫へ移動させた。それぞれ特定の権限だけを相手に与えるんだ。コツさえ分かればできるようになる。」
「空間移動の応用か…。」
「ねえ、私たちも倉庫買おうよ!」
白石はノリノリだ。俺はとりあえず適当に頷いておいた。
市場には様々なアイテムが並び、たくさんの異形や探索者が行き交っていた。時折話しかけられるが、何と言っているのかさっぱり分からない。しかし篠崎や御門は、その謎の言語に対して普通に日本語で会話を成立させていた。つまり、これも異能による言葉の翻訳なのだろう。
思っていた以上に異能は便利だ。問題は、俺だけが何一つ使えないことだった。
一通り市場を回り終えたところで、篠崎が小さな袋を渡してきた。
中には、たくさんの薬瓶と、不思議な鈴、そして金属の鍵が三つ入っていた。さっきアヤセから買っていた品だろう。
「傷薬は手足の切断くらいなら瞬時に治せる。頭は無理だ。獣避けは使用すれば一時間は敵を遠ざけられる。バックルームキーは死にかけた時、あるいは緊急時に発動する空間転移の鍵だ。バックルームと呼ばれる安全地帯へ転移し、そこから地上へ帰還できる。ただし持てるのは一人一つまで。使えば確実に破壊される。死にたくなければ、常に肌身離さず持っておくことだ。」
とんでもなく便利なアイテムだ。
「でも、そんなものがあるなら人は滅多に死なないんじゃないか?」
「…ダメな時はダメなんだよ。道具に頼りすぎるな。」
篠崎は吐き捨てるように言った。
「じゃあ、あとは適当に帰れ。どこかで会えばまたな。」
そう言うなり、二人の姿がふっと消えた。
俺たちは呆然と立ち尽くす。だが、白石だけは「またねー」と明後日の方向に手を振っていた。恐らく、気配でどこにいるのか分かっているのだろう。
「えっと…どうしますか?」
拓郎さんが困ったように尋ねる。
「…帰ろうか。」
俺がそう言うと、白石がニッと笑った。
「もうちょっと冒険しようよ!」
目が覚めた。
布団を跳ね除けて起き上がる。周囲を見渡すと、見覚えのない静かな和室だった。
いや、少し頭を整理して気づく。そうだ、昨日は篠崎に連れられてクエストに行き、二十層の市場を見学させられ……そのあと白石に押し切られる形で少しだけ一層を探索し、くたくたになって帰ってきたのだ。この無限城の一室へ。
ふと手が何かに当たった。隣を見れば、白石がすやすやと心地よさそうに眠っている。
そういえば、こいつと同室だったと思い出す。
呑気に寝ているが、昨日の帰り際の戦闘でのこいつの活躍は凄まじかった。
立ちはだかる異形の敵を、あの青い鳥――ルルが次々と切り裂き、粉砕していったのだ。
拓郎さんもあの後、刀に紫色の光を纏わせる『強化』を完全に習得し、白石ほどではないにしろ敵を叩き伏せていた。
俺はというと――結局、何もできなかった。
自分が落ち込んでいるのがはっきりと分かった。どうすればいいのだろうか。誰か異能の使い方講座でも開いてくれないものか。
今日一発目のため息をつき、洗面所へ向かう。歯を磨き、顔を洗って、一人で簡単な朝食を食べ終える頃、ようやく白石が目をこすりながら起きてきた。
「おはよ…。」
寝ぼけたまま、ぽすんと椅子に座る。
まず顔を洗ってこいと言おうとしたその時、彼女の身体を柔らかな光が包み込んだ。
ボサボサだった髪がみるみる綺麗に整い、寝癖が消え去る。顔色も心なしかパッと明るくなった。
「…今度は何だ?」
白石は自分の体をまじまじと見回し、それから洗面所へと向かった。
「身体を清潔にする異能だよ。御門さんにこっそり教えてもらったんだ。結構便利でしょ? まだ歯磨きはちゃんとしないとダメそうだけどね。」
いつの間にそんなものを学んでいたのだろうか。会話する機会などほとんどなかった気がするのだが…。
なんだか俺が足踏みをしている間に、こいつは一万歩くらい先へ進んでいる気がする。
「…便利だな。」
「でしょ! じゃあ、朝ご飯食べよー。」
外道院へ向かうと、拓郎さんが壁にもたれかかって待っていた。
昨日は具体的な待ち合わせ時間を決めずに別れてしまったので、こうして待っていてくれたことに驚く。
「ごめん、待たせた。」
俺たちが近づくと、拓郎さんは温かく手を振って応えてくれた。
「おはようございます。一応インターホンも押したのですが、返事がなかったので先に来てしまいました。」
「何か奢ろうか?」
「いえいえ、お気になさらず。それより、今日はどうしますか?」
「ああ、そうだな…。」
俺は周囲を見渡した。
多くの人々が行き交う外道院。きっとこの中には優秀な新人もいるし、才能に溢れた探索者も山ほどいるはずだ。
この二人には、俺なんかよりもっと相応しい仲間がいるのではないだろうか。
「…拓郎さんは、俺たちと一緒でいいのか?」
俺の問いかけに、拓郎さんの顔にぽかんと疑問符が浮かぶ。
けれど、彼はすぐにニコリと優しく笑うと、逆に問いかけてきた。
「あなたは、私と一緒でいいのですか?」
「そんなの、いいに決まってる。疑う余地もないよ。」
「なら、私も構いませんよ。」
「…でも、俺は足手まといになるかもしれない。」
「大丈夫ですよ、きっと。さあ、行きましょう。」
拓郎さんは、力強く手を差し伸べてくれた。
俺は一瞬だけ躊躇し、そして、その手をしっかりと握り返した。
白石は相変わらず楽しそうに笑っている。
「俺は…異能が使えないんだ。まだ一回しか潜ってないけど、自分が使えるようになるイメージが湧かない。だから、使えなくても戦える方法を考えようと思う。」
「そうですね。それなら、こういうのはどうでしょう…。」
三人で並んで歩きながら、これからの未来のことを話し合う。
それだけで、きっと俺たちは幸せになれる気がした。




