第9話 しろいもの
しろいもの――そう呼ばれる異界の生物が、白石の側で体を不気味にくねらせてそこにいた。
白石はいつも通り笑顔で、しろいものを興味深そうに眺めている。
「どういう生物なんだろう。というか生物? 種別的には…なんだろう。さっぱり分からない!」
「言ってる場合か! 離れろ、早く!」
拓郎さんが白石に近づこうとするのを、彼女自身が手で制した。
「駄目だよ。近寄ったら逃げて行っちゃうよ。近寄るなら殺さなきゃ。」
彼女の言うことはもっともだ。しかし、今の俺たちには殺せる手段がない。異能を使わなくても、ナイフで十分殺せるだろうか。いや、ナイフよりも。
「やるなら、私がやるべきでしょうね。」
拓郎さんが刀を深く構えた。
できるのか? そう聞く前に、拓郎さんはもう走り出していた。
素早い動きで地面を蹴る。しろいものは白石に夢中で、近づく気配に気づいていない。
あっという間に正面にたどり着き、渾身の力で刀を振り下ろす。
ぷにゅ。
そんな間抜けな音が聞こえた気がした。
拓郎さんの刀は何も切ることができず、奴の持つ気味の悪い弾力によって勢いを完全に殺された。そしてそのまま跳ね返され、拓郎さんは派手に尻餅をついた。
しろいものは拓郎さんに気づいて一度視線を向けたものの、すぐに興味を失ったのか、再びペタペタと白石をつつき始めた。
恐らく、今の刃撃すら攻撃と認識されなかったのだ。
拓郎さんは一瞬呆然としていたが、すぐに立ち上がると、今度は何度も刀でしろいものを突き始めた。
拓郎さんがしろいものを突き、しろいものが白石をつつく。奇妙な光景が目の前で繰り広げられる。
一通り突き終えた拓郎さんが、肩を落としてこちらに戻ってきた。
「皮膚はダメですね。刀が通りません」
「そうか。なら、やはり『強化』を使えるようにならないとダメか」
「そうかもしれませんね」
異能。どうやって使うのだろうか。さっぱり分からない。幻想を現実にする。
大切なのは、想像力か。
俺はあぜ道に座り込み、目を閉じて瞑想を始める。
隣では、拓郎さんも同じように座り込んで瞑想に入った。
客観的に見れば、それはとてもシュールな光景だったに違いない。しろいものに纏わりつかれる少女と、その前で静かに瞑想を始める二人の男。怪しげな宗教のようだ。どこからか、見守っている篠崎の呆れた笑い声が聞こえた気がした。
信じる。自分自身を。
やるべきことを。やりたいことを。
ナイフを固く、鋭くするのだ。何のために。目の前の敵を殺すために。
何のために殺す? それが、クエストだからだ。
なんでクエストをする? 俺が探索者だから。
なんで探索者に? お前は一体、何がしたい?
俺は――自由になりたい。
自由? それは…とても。
『つまらない願いだね』
はっとして、目を開けた。
時間はきっと、さほど経っていない。誰かと頭の中で話していた気がするが、よく覚えていない。
目の前では、先程と変わらない光景が見える。違うのは、白石が少し飽き始めて退屈そうにしていることくらいだ。
瞑想を途中でやめてしまった。けれど、失敗したとは思わなかった。
きっと、俺にこのやり方は向いていない。
「そうそう、君には向いてないよ。」
白石がクスクスと笑った。そうだ、俺には向いていない。皮膚に刀が通らない。だからどうした、他の場所に刺せばいいじゃないか。
ふと顔を上げると――ギチギチと音を立ててしろいものの頭部中央の皮膚が裂け、そこから濡れた巨大な『ひとつ目』がヌッと現れた。
その大きな瞳と、バッチリ目が合う。
「拓郎さん! 目が! 目が出てる!」
しろいものの何もなかった白い頭部に、不気味な瞳が浮き上がっていた。
隣の拓郎さんを叫ぶように呼ぶ。彼を見ると、淡い紫色の光が薄っすらと体を覆っていた。
しかし、俺の声に反応して拓郎さんが目を開けた瞬間、その紫色の光はスッと消えてしまった。
「…目が…どうしたのですか? あ、本当だ。目が出ていますね」
「…すまん。邪魔した」
「…? いえ、少し考え事をしていただけですので…。お気になさらずとも大丈夫ですよ」
拓郎さんは、先ほど自分を包んでいた光に気づいていないようだった。
確実に集中を邪魔してしまったのは俺なので、微かな罪悪感が胸を満たす。白石を見ると、そんな俺の狼狽ぶりが面白いのか、ニヤニヤと笑っていた。
「目への攻撃。承知しました。」
拓郎さんは刀を水平に構え、突きの体勢を取る。そのまま一直線に走り出した。
次の瞬間、拓郎さんの刀から眩い紫色の光が漏れ出した。周りの空気の流れが見えるほどの密度だ。
その光は一点に集中し、鋭い剣先へと集まっていく。そして、奴の大きな目に一直線に。
「あ!」
突き刺さる直前、拓郎さんの足が落ちていた石に引っかかった。
体が宙に浮く。剣先は目を外れ、奴の柔らかい胴体へと突き刺さった。
バキキキッ!
稲妻が弾けるような凄まじい音が響いた。遅れて、しろいものの絶叫が響き渡る。集約された紫色の光が、奴の強靭な身体を貫通したのだ。
そのまま拓郎さんの刀は背後の木へと突き刺さる。しかし勢いは止まらず、拓郎さんの身体はしろいものへと激突した。
しろいものは体から血のような白い液体を撒き散らしながら、怒りの形相で拓郎さんを見下ろす。そして、丸太のような両腕で拓郎さんを強く抱きしめた。
「くっ……!」
拓郎さんが痛みに顔を歪める。骨の軋む嫌な音が聞こえた。
「そこまでかな。」
風を切り、青い何かがしろいものを通り過ぎた。
拓郎さんが地面に倒れ込む。一瞬遅れて、どさりと重い音を立ててしろいものの手が地に落ちた。
奴の手首が切り落とされたと分かったのは、少し後のことだった。
空中を滑空していた鮮やかな青い鳥が、白石の手首に優しくとまる。その嘴には、切り落とされた真っ白な手がくわえられていた。
この鳥は白石のペットだ。そういえば、姿が見えないと思っていたが、上空で待機していたらしい。
切断面から白い液体が噴水のように溢れ出す。
拓郎さんは脇腹を押さえながら慌てて退避し、白石もいつの間にか安全な場所まで離れていた。
しろいものは地面に倒れ伏し、二度と動かなくなった。
その身体にできた穴と失った手首は、俺たちが繰り広げた激闘の証だ。
俺たちはクエストをクリアしたのだと悟った。
「お前は何もしてないけどな。」
背後から、いつの間にか姿を現した篠崎が声をかけてきた。
しろいものに近づいていくと、その身体を一度コツンと蹴る。完全に動きがないことを確認して、懐から取り出した書類にサラサラとサインをした。
「じゃあ、取り合えず全員合格で。白石と拓郎はプラス加点してやるよ。お前は普通だな。」
面と向かって言われると、何も言い返せない。
「気にすることないよ。誰だって初めてはこんなもんだよー。」
と、さっき買ってもらったばかりの鳥を見事に使いこなした白石が笑った。
こいつはいつでも倒せたのに、面白がって遊んでいただけなのだろう。
「じゃあ、クエストも終わったしお散歩するか。」
篠崎は不敵に微笑むと、森の奥を指差した。
「今日は二十五層まで行くぞ。」




