第一話 別世界
何の獣から絞られたかもわからない乳の中で米に似た穀物が煮えている。黒い鉄鍋の中に広がる真っ白なそれは、まるで真冬のゲレンデのようだった。
熾火は時折パチパチと音を立てて鍋の中を温めている。木々の隙間を夜風が時折静かに吹くが、焚火の側であれば寒さは感じなかった。
サクラは鍋の中身を木製の匙で焦げ付かないように掻き混ぜた。そして少し掬い上げて口に含み穀物の固さを確かめると、問題ないと頷いた。
「ミルクと米だけ、まぁ美味しくはないなぁ……コンソメとまでは言わないから、せめて塩があればなぁ……」
壊れた行商人の荷台から盗み出した外套の裾を握りながら、不満そうに独り言ちた。
見慣れない木が鬱蒼と茂る森の中に生えた一本の大きな広葉樹の下で、サクラは夜を明かそうとしていた。
ひとつ大きな溜息を吐くと、サクラは再び鍋の中身を掬い上げ、息を吹いて冷ますと傍らに倒れこんでいた男性をそっと揺り動かした。
「大丈夫ですか。起きれますか」
呼びかけに彼は反応しなかった。まるっきり死んでしまったかのように倒れこんでいる。口元に手を近づけると感じられる微かな呼吸音だけが彼の生存を伝えていた。
不安を紛らわせるように溜息をひとつ吐いて、サクラは男性の口元に匙の先端を押し込んだ。匙の先端に乗る程度のほんのわずかな量を味わわせてみる。水分を多く含んだ柔らかい粥を、男性は無意識に口を動かして嚥下した。ちゃんと飲み込んだことを確認して、サクラはもう一度同じように男性の口に粥を運ぶ。
目の前で死にかけている男性に適切な救護方法をサクラは知らない。もし知っていても、今持っている物資では行うことはできないだろう。それでも一人になることが不安で、とにかく何かしていたくて、サクラは無心で自分の夕飯を男性の口に運び続けた。
サクラは、とにかく誰かが傍に居ることを望んでいた。それが体中に生傷があり、今にも死に絶えそうな男性で、頭部に生えた二本の角が明らかに同じ人類ではないとサクラに伝えていたとしても、知らない場所で孤独に押しつぶされそうになるよりはマシだと思っていた。それほどまでの強い孤独をサクラはこれまでに感じたことは無かった。だからこそ怖くて、不安で、生きているものなら何でもいいから傍に居てほしいと思っていた。
「大丈夫、大丈夫よ……」
その言葉は目の前の男性に掛けているようで、その実、サクラ自身が安心するために繰り返しているだけだった。
気づけば夕飯にしようとしていたミルク粥は、その大半を男性の口の中に押し込んでいた。鍋の底が見えるくらいになってようやくサクラはそのことに気が付いたが、その事を惜しいとは思わなかった。それは自分がそこまでの空腹を感じていなかったことへの気づきであり、加えて目の前の男性と過ごした時間の可視化であると感じたからだ。
——時間は少し遡る。
サクラは、何の前触れもなくこの世界にいた。
直前にしていたことといえば、ほんのちょっとのうたた寝だ。調べ物を少し中断して、疲れた目を休めるために自室の机の空いた場所に頭を置いた。それだけだった。
次に頭を上げた時、サクラは見知らぬ森の真ん中にいた。獣道すらない森の中で、最後に自室で過ごしたままの服装で座り込んでいる。それがどれだけ心もとない事なのかを、サクラはこれまでの人生で一度も考えたことは無かった。
サクラはひとしきり困惑した後、それを夢の続きだと判断した。一瞬のうちに見た永遠のような人類の進化を辿る夢、その第二幕だと。
だがその現実逃避は些細なことで傷ついた手のひらの痛みが否定した。夢ではないと気付いて、サクラは激しく動揺した。彼女の背後で茂みが揺れる音がする。風が吹いて、周囲の木々が嘲笑うように葉を揺らした。
「誰かいませんか! 誰か!」
怪我をした右手を左手で握りしめ、錯乱したままそう叫ぶ。これが全部悪い夢であればよかったのにと強く思った。喉が痛むまで叫び、そして誰も返事をしないと悟り、やがて疲れたようにその手の甲に視線を落とす。
「なに、これ……」
サクラは今まで気づいていなかったが、握りしめた右手の甲にはこれまでの人生に無かった痣が刻まれていた。
丸が三つ、正三角形を描くように配置されたような形。
その形に見覚えはなかった。サクラはそれを、調和の取れた三つの太陽のようだと思った。
「——あれ、身体の使い方忘れちゃった? そんなことないはずだけどなぁ」
聞こえてきた声に、サクラは弾けるように顔を上げた。それはサクラも深く慣れ親しんだ、明確に発音された日本語だった。
目の前には少女が立っている。透き通るような白い髪は肩のあたりで切り揃えられており、青い瞳が二つ、宝石のように輝いている。染みひとつ無いまっさらなワンピースだけを身にまとっているが、それ以外の衣類は靴すら身につけていないようだった。
それはまるで、この世の最高の美を突き詰める為だけに造られた被造物のように可愛らしく、美しい少女だった。
「あなたは……?」
サクラはほとんど無意識に呟く。何の前触れもなく目の前に現れた少女に驚愕の気持ちが無かったわけではない。だがそれ以上に、自分がどこにいるかもわからない状況で聞こえてきた母国語に酷く安心したのだ。
しかし少女は縋るようなサクラの言葉に答えず、ちょいちょいと手招きをして先導するように歩きだした。
「歩けるならこっちにおいで! 立ち止まるのは疲れた時だけ! だってもう時間が無いんだもの!」
その台詞回しは不思議の国のアリスを連想させた。少女は鼻歌でも歌うようにスキップをして森の奥へと消えていく。
「ま、待って!」
サクラは慌てて立ち上がり、少女の後を追った。先ほどまでの狼狽が嘘のように消えて、バラバラだった思考が「少女を追いかける」というたったひとつの目的のために統一されたようだった。
深い森の中に出来た獣道を裸足で駆け抜ける。荒れた道がサクラの素足を痛めつけるが、それを気にする余裕はなかった。目の前を歩いていく少女の背中を見失えば、サクラはこの世界でたったひとつの道しるべを失ってしまう気がしていた。
水面下でもがく白鳥の様にバタついていたサクラの足は次第に鈍いものになっていく。それと同時に少女との距離は次第に開いていく。そしてある一本の木の横を通り抜けた瞬間に、少女の姿はとうとう見えなくなった。
しかし、サクラは少女が消えた場所を通り過ぎても走っていた。今となってはもう少女を追っているのか、あるいは別の大きな恐怖に追いつかれないように走っているのか、それすらもわからなくなっていた。
息が切れる。足元が慣れない森の中でふらつく。それでも止まらない、焦燥に駆られるサクラの足を止めたのは、突然目の前に現れた光景だった。
「ハァッ、ハァ……」
荒い呼吸の中で、肺から昇る新鮮な血の匂いが広がった。
サクラは整備された道に出た。地面をならして整えられたその道は車程度なら通れそうなくらいに広い。明確に人の手が入った場所だったが、サクラは全く安心できなかった。
道の真ん中では一台の荷車が崩れていた。何かに襲われたのか、壊れた荷物が周囲に散乱している。荷車を引いていた獣も隣で死んでいたが、その姿は馬とは到底言い難い見た目をしていた。サクラは必死に目の前の死骸を記憶の中の生物と照らし合わせ続け、体つきと鼻先の角がサイに似ていると思った。だが平たく広がり鼻先を守るように生えているその角は、記憶にあるどのサイとも合致しない。そしてその巨大な生物が、恐らくもっと大きな生物に体を引き裂かれて死んでいる。
喉の奥がじんわりと苦くなるのを飲み込んで我慢する。人の死体が無いことは数少ない幸運だっただろう。
サクラは血だまりを避けるようにして崩れた荷車に近づいた。呼吸が落ち着いてくるにつれて、地面を直接踏みしめて走り続けた素足が痛かった。それに森の中は肌寒い。それに加えて巨大で悍ましい肉食の獣が居ることすら、目の前の死骸から判明してしまった。とにかく今は防寒と、身を守れるものが欲しかった。
壊れた荷物を避け、荷車の中を覗き込んだ。散らばっていない荷物は頑丈に固定されていたのか、傷ついていないものも多かった。サクラはその中からブーツを手に取った。足首まで守れる長さのそれは分厚い革製で、靴底も厚く、とても頑丈そうだ。荒れた土地に出向いたり、長旅をする人たちを対象に作られたのだろう。足の裏のゴミを払ってブーツを履く。少し大きかったが、素足でいるよりもずっと楽だった。
続いて手に取ったのは一枚の外套だった。これもまた旅人向けだろう。柔らかくなめされた毛皮で作り上げられており、それでいてかなり頑丈な出来になっている。外側は黒い細かな体毛で覆われており、汚れや水を弾きやすくなっている。内側には大小さまざまなポケットが頑丈に付けられている。身体に巻くと、これも少し大きい。歩く際に邪魔にはならないが、体に合っているとは感じない。だけどそれ以上に、人の作ったものを身に纏っているという安心感があった。
外套の裾を強く握り、サクラは深く深呼吸をした。もしこの荷車の持ち主が死んでいるとしても――或いは生きていて、かつこの荷物をもう諦めているとしても、サクラは自らの行いを窃盗であると認識していた。金銭のやり取りや、あるいは制作を自ら手掛けるなどの正当な手段を経て入手した物ではないからだ。それでもサクラはこれらの品々を手放す気にはなれなかった。それと同時に、これ以上の品物に手を付ける気にもならなかった。
壊れた荷車に背を向けて、サクラはこれからの行き先を考える。進行方向は荷車が進もうとしていたであろう方角にした。それが西か東か、北か南かはわからない。ただ、荷車を引いていた獣の濁った瞳の先に集落があることを願って、サクラは歩き出した。
それから何十分としないうちに、サクラは大きな木の下に辿り着いた。道の途中に拓けた草原があり、その真ん中に高木の広葉樹が一本生えている。旅人たちが長旅の途中で休める場所を作ろうとしたのだろうか。人為的なものを感じるその空間には、所々に微かな野営の跡が見受けられる。ここに留まって誰か来るのを待つのもいいかもしれない。サクラは広がった空を見上げながらそう思った。傾き始めた太陽は未だ白く輝いているが、じきに空を橙色に染め始めるだろう。そんな中を土地勘も旅の経験も無いまま歩くのと、この人の痕跡がある場所で誰かが来るまで待ち続けるのと、どちらが生存確率が高いか。考えるまでもなくわかることだった。
「はぁ……」
休むと決めた途端、疲れがどっと沸いて出てきた。足は鉛のように重く感じて、早く何処かに腰を下ろしたくてたまらなくなった。
寄り掛かって縋れるものが欲しくて、サクラは丘の上の広葉樹を目指して歩く。その短い道のりの中で多くの事を考えた。
目覚めた時の微睡み。その後に五感で感じた現実。知らない世界で這い寄る恐怖。白い少女。壊れた荷車。死んだ獣。
一歩、また一歩と地面を踏みしめるたびにそれらがぐるぐると頭の中で渦を巻いた。
深く溜息を吐いて、サクラは外套に顔を埋めるように俯いた。今日はもう全てを忘れて眠りたい。そして、自分は目覚めたら元の世界へと戻っている。変な夢を見たと思いながら水を飲みに行って、そこで父と母の顔を見る。夢ばっかり追ってないでちゃんと将来と向き合いなさい、なんて小言を背に受けながら部屋に戻って、この夢の生々しい感覚を記録した後に書きかけの小説の続きを書くのだ。
……そんな現実逃避は、木までの距離を測るために上げた視界の中に入り込んだあるものによって中断した。
木の下に、誰かが倒れている。
「え……!?」
サクラは大急ぎで倒れている人物に駆け寄った。遠目では死んでいるのかとすら思った——いや、近づいてもサクラにはその人物が生きているのかどうかわからなかった。
まるで行き倒れたかのようにうつ伏せに倒れているその男性は、灰色の肌、それと見ただけでわかるほどに痛んだ白い長髪をしている。裸の上半身は鞭や棒で激しい折檻を受けたかのような痛々しい傷跡が刻まれ、それが彼の生存確認を困難にさせている。下半身にはかろうじて下履きだと判断できるだけの布が絡みついているだけだった。首には分厚い鉄の首輪が巻かれていたが、それを縛り付けていたであろう鎖は無理やりに引き千切られている。
しかし、サクラが気を取られたのは、そのような人の悪性と暴力性を見せつけるような痕跡ではなかった。
その視線は彼の頭部に注がれていた。そこには、左右対称にそびえ立ち、黒く輝く二本の角が生えている。事細かく突き詰めれば、人にも角は生えることはあるという。皮角という皮膚の病気の一種で、悪性の腫瘍の場合もあるという。だがあまりにも綺麗に並んで生えたその角を、人体の病気として判断するのは難しい。
それについ先ほど、サクラは地球には存在しない動物の死骸を見てきたばかりなのだ。よってサクラはその男性を自分と同じ人間ではないと判断した。それと同時にサクラの中で渦巻いていた「この場所は地球ではないのかもしれない」という疑念が確信に変わった。
逃げられるだけの距離を開けながら、その人非ざる者を助けるかどうかでしばしサクラは悩んだ。敵対生物だった場合、目覚めればサクラは間違いなく殺される。しかし友好生物であれば、もしかしたら助けてもらえるかもしれない――正直、彼の状況を見るに救助を願い出るのは無意味な気もするが――それに、どのみちサクラはもうここで休むことを決めたのだ。死体の側で眠れるほど図太くはないのだから、少なくとも生死ぐらいは確認しておいた方が良いと判断した。
呼吸の確認をしようとサクラは男性の側に屈みこむ。すると、微かな腹の音が聞こえた。そしてそれはサクラ自身のものではなかった。急いで口元に手を差し出すと、非常に小さな吐息がかかる。
彼は生きている。
そう思った時、サクラの疲弊しきり怯えきった心から、小さな行動力が顔を出した。先ほどの荷車から食料になる物を持ってくれば、彼に何か食べさせられるかもしれない。そうすれば、回復した時に恩を感じて少しでも力を貸してくれるかもしれない。そう思ったのだ。
サクラは自身を善い人間だと思ったことは無い。面倒なことは面倒で、知らない人の不幸に心を痛めるほど優しくもない。常識的な範囲ではあるが、自分の利益になるような打算もする。だが同時に名前も知らない誰かが目の前で苦しんでいて、それでいて自分だけが手を差し伸べられる状況で見て見ぬふりしていられるほど他人に興味が無いわけでもない。それに、男性がこのまま死んだ時、その事実を背負うのは他ならぬ彼を見捨てたサクラになる。そして彼女は、名前も知らない誰かを見捨てた記憶と共に生きていくことになる。その「嫌な心残りを残したくない」という利己的な思想に、サクラは善性という名前を付けた。
差し込む光が斜めになっていく森の中を、サクラは足早に戻った。あともう少しすれば夜行性の獣が動き始めることだろう。それまでには戻って火を起こしておきたかった。
壊れた荷車の場所まで戻ると、獣の死臭が先ほどよりも強くなっていた。虫が集り始めた死骸を視界に入れないようにしながら一度漁った荷台をもう一度覗き込む。見つけられた食べ物の中でかろうじて無事なもの、或いは調理法がわかりそうなものといえば、生米のようなもの。ミルクのような白い液体。それだけだった。
「何にもなさすぎる……もしかして襲われた時に食べられた? にしては荷台の中は片付いてるし、そもそも積んでなかったのかも……」
失望と疲労に肩を落とす。どれだけ漁っても出てくるのは民芸品や織物ばかりで、他に食べられそうなものは無い。視線を横に滑らせれば獣の死体が目に入る。もしかすれば、まだ幾らかの肉が手に入るのではないかという思考がちらと横切る。だが手元にナイフはないし、なによりサクラにはそれをするだけの勇気はなかった。
結局、生米とミルクと、後は行商人の私物だったであろういくつかの調理道具だけを抱えて、サクラはとぼとぼと歩いてきた道を戻った。
倒れた男の傍へと戻ったサクラは、彼が変わらず呼吸だけはしていることを確認すると、急いで手ごろな石と枯れ木を集め、その後は記憶の中にある摩擦式の着火方法を試みた。木と木を擦り合わせ、その摩擦によって火種が発生する。それを枯草の中に入れ、激しく煙が出たら枯れ木の中へと入れる……。頭の中でそれらの手順を強く思い浮かべながら行うと、不思議と難なく火が付いた。その後は熾火になるまで待ち、持って来た調理器具の中から鍋を引っ張り出して生米とミルクを入れる。その後は蓋をして、米が炊けるのを待つ。待っている間、瓶の中に残ったミルクを口に含んでみると、随分と濃厚で美味しかった。この世界に来てから初めて口にしたものだった。
「毒は無いみたい……良かった」
痺れも苦みもない。自分でも問題なく食べられるものがあるとわかって安心した。全ての食べ物が自分の身体と合わない可能性だってあったのだ。
ぱちぱちと爆ぜる熾火と揺れる鍋の蓋を眺めている間に、日は落ち、周囲はだいぶ暗くなっていた。カタカタと泡を吹きながら揺れていた鍋の蓋が収まってきた頃、サクラは蓋を開ける。すると中には真っ白なミルク粥が出来ていた。鍋いっぱいに入れたミルクを米が吸って膨らんで、少なくとも四、五人前はありそうだ。
木製の匙でそれを掬い、一口食べてみる。
「ミルクと米だけ、まぁ美味しくはないなぁ……コンソメとまでは言わないから、せめて塩があればなぁ……」
味が付くものを何も入れていないせいで味がない。正確には少し焦げたミルクとふやけすぎた米の感触はするが、日本の食事に慣れたサクラの舌はそれを美味しいと思えなかった。
空腹のせいか、一瞬だけあの獣の死骸がちらと頭をよぎった。それと同時にかつての人生で味わってきた焼けた肉の匂いと油の味が鼻の奥で呼び起こされる。何の動物かも知らないが、よく焼けばまだ食べられただろうか。……しかし、やはり、あの濁った眼を思い出すだけで、その体から肉を切り出すという案は容易に砕かれてしまう。結局、サクラはこの非常に味の薄いミルク粥だけを今日の夕食と決めたのだった。
「大丈夫ですか。起きれますか」
揺さぶりながら、先に水か何か飲ませるべきだっただろうかとじわじわとした後悔が浮かぶ。しかし持って来たミルクはすべて使ってしまったし、湧き水なんてどこにあるかもわからない。なによりもう日はとっくに暮れて、灯りは鍋の下で燃えている熾火と、空一面の星だけだ。
「……仕方ないか。誤嚥にだけ気をつけよう」
サクラは匙の上で冷ました少量のミルク粥を男性の口に押し付ける。無意識のまま男性はミルク粥を口に入れ、小さく嚥下した。食欲に促されて無意識に食べ物を求めていたというより、食べるだけの体力すら残っておらず、ただ生理現象として口の中の物を飲み込んだだけに見えた。何度も何度もそれを繰り返す。
「大丈夫、大丈夫よ……」
男性がこうして食べ物を飲み込んでいる間は生存を確認できる。サクラはいつしか救護活動よりも、そちらを優先して考えていた。
そのままどれくらいの時間が経過したのかは底の見えた鍋と、燃え尽きそうな薪が静かに告げていた。何も飲み込まなくなった男性に強い不安を覚え、サクラは彼の冷たい手に触れた。脈はある。だが小さい。彼の厚く皮の張った手のひらに指先で触れながら、これ以上自分にできることは何もないのだと理解した。
余った粥を飲み込み、消えかけの火を消す。それでも凍えはしない気温だったのが幸いだった。サクラはずっと羽織っていた外套を男性にかけて、人ひとり分のスペースを開けて男性の近くに寝転んだ。固い地面の感触と柔らかな草の匂いがする。慣れない場所で眠れるか不安だったが、感情に反してサクラの瞼はゆっくりと落ちていく。
彼は明日の朝には目覚めているだろうか。それとも死んでしまうだろうか。眠気に呑まれて霞掛かる思考の中に、その心配だけが残り続けている。
サクラは最後に空を見上げた。彼女の暮らしていた場所ではそうそう見られない満天の星が輝いているが、そこに見知った星座はない。そのままとろとろと眠りにつく。叶うならこのままとっぷりと眠って、目覚めた時には元の世界に戻っていてほしいと願って。
しかし、それが儚い願望であることを、彼女は目覚めて思い知るのであった。




