③ 返して
肩に触れた手は、氷水に沈めたように冷たかった。
全身の血の気が一瞬で引く。
恐る恐る振り返る。
誰もいない。
教室には私一人だけだった。
「……気のせい?」
震える声が静まり返った教室に吸い込まれる。
私はゆっくり息を吐いた。
その瞬間。
耳元で、誰かが囁いた。
「……返して」
女の声だった。
近い。
近すぎる。
首筋に息がかかるほど近くで囁かれた。
「ひっ!」
反射的に振り向く。
誰もいない。
教室の窓には夕焼けが映るだけだった。
私は後ずさる。
その時、廊下側の窓に何かが映った。
黒い髪。
白い顔。
制服姿の女子生徒。
廊下に立っている。
私は思わず窓へ顔を向けた。
誰もいない。
「じゃあ今のは……」
再び窓ガラスを見る。
そこには、まだいる。
私のすぐ後ろに。
鏡のようなガラス越しにだけ映っていた。
心臓が止まりそうになる。
恐る恐る振り返る。
やはり、何もいない。
もう一度ガラスを見る。
女はいた。
こちらをじっと見つめている。
その顔を見た瞬間、息をのんだ。
写真で見た失踪した女子生徒だった。
頬は青白く痩せこけ、目だけが異様に大きく開いている。
黒目はほとんどなく、濁った白目の中央に小さな黒い点が浮かんでいるだけだった。
女は笑っていた。
口角だけを、不自然なほど大きく吊り上げて。
そして。
コキッ。
首が横へ九十度折れた。
さらに、
ゴキ、ゴキ、ゴキッ。
あり得ない方向へゆっくりと曲がっていく。
それでも笑顔だけは崩れない。
「いや……。」
私は一歩下がる。
ガラスの中の女も、一歩近づく。
距離が縮まる。
女の顔が、ガラスいっぱいに広がった。
突然、口がゆっくり開き始める。
顎が外れる。
それでも止まらない。
耳元まで裂けるように開き続ける。
人間ではあり得ないほど、大きく。
喉の奥は真っ黒だった。
底が見えない。
その暗闇の中から、何かが這い出そうとしている。
「――――」
女が何かを言った。
聞こえたはずなのに、言葉として理解できない。
音ではなく、直接頭の中へ流れ込んでくる。
ズキン、と頭が痛む。
こめかみを押さえる。
耳鳴りが激しくなる。
視界が揺れる。
教室の床も壁も天井も、ぐにゃりと歪んだ。
女はさらに近づく。
ガラス越しではない。
もう目の前に立っていた。
いつ入ってきたのか分からない。
逃げる暇もない。
女はゆっくりと顔を寄せてくる。
鼻先が触れそうな距離。
腐ったような鉄臭い匂いが鼻を突いた。
そして。
その真っ黒な瞳が、私を真っ直ぐ見つめる。
「返して」
今度ははっきり聞こえた。
次の瞬間。
女の顔が、一瞬で目の前から消えた。
いや、消えたのではない。
私の中へ、落ちてきた。
頭の奥へ何かが流れ込む感覚。
冷たい泥のようなものが脳を満たしていく。
「あ……」
声にならない。
身体が動かない。
視界の端で、女が笑った気がした。
その笑顔は、まるで「次はあなた」と告げているようだった。
私の意識は、そこで途切れた。




