アイゼン砂漠
全て私の妄想の話です
春が訪れたヴァロック山脈では、長い冬を覆っていた雪が溶け始め、白く染まっていた山肌は鮮やかな緑へと姿を変えていた。
「もう行ってしまうんですね」
ギーファが少し寂しそうな表情で言った。
「この街には世話になった」
闇王は静かに答える。
「それじゃあ、そろそろ行く」
そう言い残し、闇王はギーファに背を向けて歩き出した。
春の山は冬とはまるで別世界だった。
吹雪はなく、山道は緑に覆われている。所々には色とりどりの花畑が広がり、爽やかな風が吹き抜けていた。
「吹雪がないのはいいな」
闇王はそう呟きながら軽快に山を登っていく。
魔物の姿も見当たらず、のんびりと景色を眺めながら歩いているうちに、気がつけばあっという間に頂上へたどり着いていた。
そして頂上で目にした光景に、闇王は思わず息をのむ。
辺り一面が花の海だった。
赤、青、白、桃色――様々な花々が咲き誇り、大地を鮮やかに彩っている。
「これは……」
その美しい花畑の中央に、一頭の巨大なバレッドドラゴンが座っていた。
まるで闇王を待っていたかのようだった。
「シャオーン!」
バレッドドラゴンが大きく鳴く。
呼ばれている気がして、闇王は花畑を駆け抜け、そのもとへ向かった。
するとバレッドドラゴンは大きな頭を下げ、闇王の頬へ優しく擦り寄せる。
「シャオン……」
その声はどこか甘えるようで、愛情に満ちていた。
闇王はそっとその頭を撫でる。
しばらくの静かな時間が流れた。
やがてバレッドドラゴンは空を見上げる。
「シャオォォーン……」
今度の鳴き声は悲しげで、別れを告げているようだった。
次の瞬間、大きな翼を広げる。
バサッ! バサッ!
花びらが舞い上がる。
そしてバレッドドラゴンは青空へ向かって飛び立った。
闇王はその姿が小さくなるまで見送った。
やがて姿が見えなくなり、闇王はふと周囲を見回す。
すると花畑の上を、たくさんの蝶がひらひらと飛び回っていた。
「……!」
闇王の額に冷や汗が流れる。
蝶が苦手な闇王は、慌ててその場から逃げ出した。
下山は驚くほど楽だった。
春の風を受けながら駆け下りると、あっという間に麓へ到着する。
しかし、山を越えた先に広がっていた景色は再び一変していた。
そこは見渡す限り砂だけの世界。
アイゼン砂漠だった。
容赦なく降り注ぐ太陽。
焼けるような熱風。
砂の大地は陽炎に揺れている。
「暑いな……」
歩き始めて間もなく喉が渇き、闇王は水筒の水を飲んだ。
その時だった。
砂の中から巨大な影が飛び出す。
ザザァッ!!
現れたのは黒い巨体を持つ大サソリだった。
尻尾の先には赤く輝く水晶がついている。
闇王は魔物図鑑を開く。
ランクB――レッドヘッド。
レッドヘッドは巨大な尻尾を武器とし、水晶の針で獲物を貫く危険な魔物だった。
ギラリと赤い水晶が光る。
次の瞬間、鋭い一撃が襲いかかった。
キィィン!!
闇王の大剣が尻尾を受け止める。
しかし水晶の針には傷ひとつ付かなかった。
「なら体だ!」
闇王は素早く懐へ飛び込む。
そして大剣を力いっぱい振り下ろした。
ズバァッ!!
レッドヘッドの胴体が切り裂かれる。
その身体はキラキラと光を放ちながら消滅した。
だが、それで終わりではなかった。
砂の中から次々とレッドヘッドが現れる。
一匹、二匹、十匹――。
あっという間に大群となって闇王を囲んだ。
巨大な尻尾が四方八方から襲いかかる。
闇王はそれを避ける。
斬る。
避ける。
斬る。
ひたすら繰り返す。
激しい戦いの末、ついにレッドヘッドの群れを一掃した。
しかし、その代償は大きかった。
闇王は荒い息を吐きながら再び歩き始める。
どこまでも続く砂の海。
何時間歩いても景色は変わらない。
時折水を飲みながら進むが、終わりは見えなかった。
やがて方向感覚も失われていく。
東へ向かっているのか。
西へ向かっているのか。
それすら分からない。
照りつける太陽は容赦なく体力を奪っていく。
「暑い……」
喉は焼けるように渇いていた。
闇王は残っていた水を飲み干す。
ゴク、ゴク、ゴク――。
しかし、その水筒もついに空になった。
さらに追い打ちをかけるように砂嵐が発生する。
ゴォォォォッ!!
激しい風が砂を巻き上げ、視界を奪う。
目も開けていられない。
口の中まで砂だらけになる。
戦闘の疲労。
灼熱の暑さ。
極度の喉の渇き。
そして終わりの見えない砂漠。
闇王の足取りは次第に重くなっていった。
一歩。
また一歩。
ふらつきながら前へ進む。
しかし限界だった。
「……水……」
かすれた声を漏らした直後、闇王の膝が崩れる。
掠れゆく意識の中で、何かが近づいてくる気配を感じた。
ドスン、ドスン――。
重い足音が少しずつ近づいてくる。
だが、闇王の身体はもう言うことを聞かなかった。
(もう駄目だ……)
そう思いながら、意識は暗闇へと沈んでいく。
どれほどの時間が過ぎたのだろうか。
ふと、口の中に冷たい水分が流れ込んでくるのを感じた。闇王は本能的にそれを飲み込む。
しかし、疲労が深すぎて目を開けることができない。
何度も何度も、水が口元へ運ばれてくる。そのたびに少しずつ意識が浮上していった。
そして何度目かの時――ようやく闇王は目を覚ました。
目を開いた瞬間、思わず目を見張る。
そこには砂漠とはまるで別世界の光景が広がっていた。
青々とした草原。
澄んだ水を湛えた泉。
色鮮やかな花々。
たわわに果実を実らせた木々。
涼しい風が吹き抜け、心地よい木陰が大地を覆っている。
「涼しい……」
闇王が呟くと、
「アウアウー」
低く優しい鳴き声が聞こえた。
声の方を見ると、そこには大きなピンク色のクマがいた。
二足で立つそのクマは闇王の傍らに座り、たくさんの果実を抱えている。そして、その中の一つを闇王へ差し出した。
「お前が助けてくれたのか?」
「アウー」
クマは嬉しそうに頷く。
「そうか……」
闇王は果実を受け取りながら呟いた。
誰かに助けられたことなど、生まれて初めてだった。
だから何と言えばいいのか分からない。
周囲を見渡すと、たくさんの動物たちが集まっていた。
鹿や兎のような草食獣だけではない。
狼や大型の肉食獣までもがクマの周りに集まり、甘えるように鳴いている。
どうやら、このクマは森の動物たちから慕われているらしい。
クマは闇王の頭を優しく撫でた。
まるで母親が子供にするような手つきだった。
「ここは安全なんだな」
「アウ」
闇王は果実を食べ終えると、そのまま眠りについた。
翌日も、その次の日も。
クマはたくさんの果実を採ってきてくれた。
闇王はその果実を腹いっぱい食べ、クマの膝を枕にして眠った。
時には二足歩行のクマの肩に乗り、高い木になった果実を採ることもあった。
そうして十分に食べ、眠り、休息を重ねた結果、失われていた体力は徐々に戻っていった。
そして数日後――。
闇王はクマに尋ねた。
「人里の場所を知っているか?」
するとクマは耳をぴくりと動かした。
「あう!」
そう鳴くと、闇王に背を向け、腰を落とす。
「乗れってことか?」
闇王が背中に乗ると、クマは力強く歩き始めた。
ズンズン――。
ズンズン――。
広大な森を抜ける。
その先には、再び果てしない砂漠が広がっていた。
だがクマは迷うことなく進み続ける。
まるで目的地を知っているかのように。
砂嵐が吹き荒れても、その巨体はびくともしない。
闇王は振り落とされないようクマの頭にしがみついた。
それでもクマは止まらない。
ズンズンと力強く前へ進み続けた。
やがて砂漠を抜けると、今度は広大な草原が見えてきた。
そこでクマは足を止める。
「アウアウ!」
鳴きながら前方を指差した。
その先には、人が暮らしていそうな緑豊かな大地が続いている。
「あっちに行けばいいんだな」
「アウ!」
クマは大きく頷いた。
闇王はクマの背中から降りる。
そしてしばらく無言で見つめ合った。
命を救ってくれた恩人。
いや――恩熊と言うべきだろうか。
闇王は少しだけ口元を緩めた。
「世話になったな」
クマは嬉しそうに鳴いた。
「アウー」
草原の風が二人の間を吹き抜けていった。




