# 第12話:遠ざかる手、近づく影
仁科蒼真は、あの夜から変わった。いや、変わったのは俺の方だ。あの瞬間、由紀の瞳に宿った困惑と、ほんのわずかな恐怖。それは、俺がこれまで誰にも見せるまいと誓ってきた『影』の一端を、彼女に見せてしまった代償だった。
放課後の人気のない渡り廊下。夕陽が差し込み、磨かれた床に長く、濃い影を落としている。俺はいつものように、誰とも目を合わせないように、壁際を歩いていた。まるで存在しないかのように、息を潜めて。
「仁科君」
その声は、背筋を凍らせるほどの冷たさを含んでいた。振り返らずとも、それが誰であるか、俺には正確にわかっていた。由紀だ。あの事件以来、彼女からの視線は、もはや好奇心だけではなかった。それは、真相を探ろうとする探偵の眼差しだった。
足を止めると、由紀は一歩、また一歩と、優雅な足取りで近づいてくる。彼女の銀髪は夕陽を反射して、まるで光を編み込んだかのように輝いていた。しかし、その輝きとは裏腹に、彼女の表情は硬い。碧眼の奥に、強い意志が宿っているのが見て取れた。
「あの時のこと……聞きたいことがあるの」
由紀は、俺の正面に立ち止まり、真っ直ぐに俺の目を見据えた。俺は視線を逸らそうと試みるが、まるで磁石に吸い寄せられるかのように、彼女の瞳から目を離すことができない。それは、俺が今まで誰にも見せたことのない、弱い自分を暴き出そうとする瞳だった。
「何の、ことでしょうか」
俺の声は、自分で聞いても驚くほどに平坦で、感情のこもっていないものだった。それは、長年培ってきた『隠蔽』の技術が、俺自身を守るために勝手に発動したかのようだった。しかし、その声は由紀にとって、さらに溝を深めるだけだと分かっていた。
由紀は、フッと小さく息を吐いた。それは、溜め込んだ感情を抑えつけるような、切ないため息だった。
「仁科君。あなたは、あの時、宙に浮いたでしょう? ほんの一瞬だったけど、私は確かに見たわ。それに、あなたの手。まるで……何かを無理矢理抑え込んでいるみたいに、震えていた」
彼女の言葉は、まるで精密な刃物のように、俺の心の最も脆弱な部分を抉ってくる。その瞬間、俺は全身の毛穴が開き、冷たい汗が背中を伝うのを感じた。由紀は、ただの女子高生ではない。彼女の観察眼は、俺の想像を遥かに超えていた。やはり、俺が迂闊だったのだ。星野を手助けした時と同じ過ちを、由紀に対して犯してしまった。
「白咲さん。疲れているのではありませんか。そんな幻想を見るなんて」
俺は、意識的に視線を外し、冷淡な言葉を突き放した。心臓が警鐘を鳴らす。もう、これ以上、彼女を巻き込むわけにはいかない。俺の存在が、由紀にどれほどの危険をもたらすか、俺は誰よりも知っている。
由紀は、その言葉に傷ついたように、一瞬表情を曇らせた。しかし、すぐにその表情は消え、決意に満ちたものに変わる。
「いいえ、はっきりと見たわ。それに、それだけじゃない。仁科君、あなた、学園で何か事件が起こるたびに、いつも現場の近くにいるでしょう? しかも、いつも……事件が起こる少し前に、私の周りを不自然に意識しているように見えたわ」
由紀の指摘は、まさに的を射ていた。俺が、彼女を影から護衛していることを、彼女は薄々感づいていたのだ。俺の心臓は、さらに激しく脈打つ。もはや、下手な言い訳は通用しない。
「それは、単なる偶然です」
俺は、感情を完全に消し去った声で答えた。由紀の瞳に、深い悲しみが宿る。しかし、それはすぐに怒りの炎に変わった。
「偶然……? そんなはず、ないでしょう!? 仁科君、あなたは何かを隠している。そして、それはきっと、とても危険なこと。でも、どうして私に話してくれないの? 私、あなたのこと……心配なのよ」
「心配など、無用です」
俺は、由紀の言葉を遮るように言い放った。由紀の瞳から、一筋の雫が溢れ落ちそうになる。その表情は、まるでひどく傷つけられた小動物のようだった。俺は、その顔を見るのが辛くて、思わず目を逸らした。しかし、それが、由紀の怒りをさらに煽る結果となった。
「どうして……どうしてそんなに冷たいの!? 私たちは、友達だと思っていたのに……!」
由紀の言葉が、俺の胸に突き刺さる。友達。その言葉は、俺にとって遠い昔に捨て去った幻想だった。俺は、友達という存在を持つことは許されない。俺が関われば、その人間は必ず『影』の標的になる。星野が、まさにその可能性を秘めているように。
「俺と、あなたは、友達ではありません」
俺は、胸の奥で渦巻く感情を無理矢理押し込め、冷酷な言葉を紡ぎ出した。由紀は、その言葉に、息を呑んだ。碧眼の輝きが、一瞬にして失われる。まるで、命の灯が消え去ったかのように。
「そう……だったのね」
由紀の声は、か細く、震えていた。彼女は、俺から一歩、また一歩と後退する。俺は、その姿を直視できなかった。自分の口から出た言葉が、こんなにも誰かを深く傷つけるとは。しかし、そうするしかなかった。これが、彼女を守る唯一の道だと、俺は信じていた。
由紀は、最後の言葉を絞り出すように言った。
「仁科君……でも、私は、諦めないわ。あなたが何を隠しているとしても、いつか、きっと……私が暴いてみせる」
そう言い残すと、由紀は背を向け、渡り廊下の向こうへと去っていった。その背中は、傷つきながらも、確かな決意に満ちていた。俺は、その場に立ち尽くし、ただ由紀の消え去った方向を見つめることしかできなかった。
由紀との会話は、俺の心を深く切り裂いた。しかし、同時に、俺の決意を固めることにも繋がった。彼女は、俺が思っていた以上に鋭く、そして、頑なだった。このままでは、由紀は必ず俺の秘密に辿り着き、危険に晒されるだろう。
「だからこそ……俺は、お前を護る」
俺は、誰に聞かせるでもなく、静かに呟いた。俺は、由紀の安全を確保するため、これまで以上に警戒を強める必要があった。あの夜、俺の能力が微かに漏れ出た瞬間を、由紀以外の誰かが見ていた可能性も否定できない。特に、由紀の周囲に配置された『影』の監視人たち。
翌日、俺は学園生活の中で、常に由紀の動きを追った。彼女は、いつも通り、学園の人気者として笑顔を振りまいていたが、時折、その瞳の奥に、俺を警戒するような、あるいは探るような光が宿っているのを俺は見逃さなかった。俺は、彼女に気づかれぬよう、常に影から彼女を見守った。
由紀の周囲の監視体制も、以前にも増して厳しくなっているように感じられた。廊下の曲がり角、校庭の隅、カフェテリアの賑わいの中。あらゆる場所に、不自然なほどに目立たない生徒や教師、清掃員らしき人物が配置されていた。彼らは、決して由紀に近づくことはないが、常に一定の距離を保ち、彼女の行動を記録しているかのようだった。以前は漠然とした『気配』だったものが、今ではより具体的な『視線』として感じられた。それはまるで、由紀という獲物を、網の目を細かくして捕らえようとする捕食者のようだった。
これは、俺の能力が露見したことによる警戒か、それとも由紀の父親である『影』の幹部、白咲瑛司の指示によるものか。どちらにせよ、由紀を取り巻く状況が、着実に悪化していることを示していた。俺の行動一つ一つが、由紀を危険に晒す。その事実に、俺は再び心を凍らせた。
そんな俺の張り詰めた日常の中、唯一、星野真琴の存在だけが、微かな光を差し込ませていた。
「蒼真ー! 今日、図書室で勉強会やらない? 由紀も来るんだって!」
昼休み、食堂で一人、壁際で食事を摂っている俺に、星野はいつもの明るい笑顔で駆け寄ってきた。彼女の無邪気な声は、俺の張り詰めた神経を、ほんの少しだけ弛緩させる。
「俺は、いい」
俺は、いつも通りの返答をしたが、星野は諦めない。
「またそんなこと言って! いつも一人でつまんないでしょ? たまにはみんなで勉強するのも楽しいって!ほら、この前の数学、蒼真は満点だったけど、私は赤点ギリギリだったんだから、教えてよ!」
星野は、俺の腕を掴もうとしてくる。俺は反射的に、その手をかわした。彼女の指先が、空を切る。ほんの一瞬の、ほとんど無意識の回避行動だったが、星野は少しだけ驚いた顔をした。
「あれ? なんでかわすのよー、ケチ!」
星野は、すぐに笑顔に戻り、頬を膨らませた。彼女には、俺の心の壁の高さが、まだ理解できていない。いや、理解しようともしていないのかもしれない。その無邪気さが、今の俺には眩しすぎて、そして、恐ろしかった。彼女が、『影』の監視人である可能性を考えると、彼女の明るさすらも、俺には罠のように感じられる時がある。
「邪魔だ」
俺は、いつもよりも少しだけ強い口調で言った。星野の笑顔が、ぴたりと止まる。彼女の大きな瞳が、戸惑いに揺れた。
「え……?」
「俺に構うな。関われば、お前も危険に晒される」
俺は、由紀と同じように、星野にも突き放す言葉を選んだ。彼女を、俺から遠ざけるために。彼女の瞳に、先ほどの由紀と同じような、傷ついた光が宿るのが見えた。しかし、俺は、その痛みから目を逸らした。これも、彼女を守るためだ。そう、自分に言い聞かせた。
星野は、何も言わずにその場を立ち去った。その背中には、いつもの明るさはなく、どこか寂しげな雰囲気が漂っていた。俺は、また一人、大切な人間を傷つけてしまった。その事実は、俺の胸に重くのしかかる。しかし、俺には、これしかできない。
図書室での勉強会には、結局行かなかった。由紀が来ることを知っていたからだ。彼女の真っ直ぐな視線から逃れるため、そして、彼女をこれ以上危険に巻き込まないために。俺は、自分の感情を押し殺し、孤独な道を選んだ。
その日以来、俺は学園で由紀と二人きりになる機会を徹底的に避けた。廊下で由紀の姿を見かければ、別の道を選び、授業の合間には、教室の隅でひたすら時間を潰した。彼女が話しかけてこようものなら、冷たい言葉で突き放し、視線を合わせることも避けた。由紀の瞳に、日を追うごとに失望と、そして、諦めのような感情が浮かび上がるのを見るたび、俺の心は千切れそうになった。しかし、それは、彼女の命を守るための『代償』なのだと、自分に言い聞かせた。
由紀は、それでも、俺への追及の手を完全に緩めることはなかった。彼女は、休み時間や放課後、俺が一人になった瞬間を見計らって、何度も俺に近づこうとした。しかし、俺は鉄壁の壁を作り、決して彼女の心を開こうとしなかった。
「仁科君。もう一度聞くわ。あなたは、一体何者なの?」
ある日の放課後、昇降口で、由紀が俺の行く手を遮った。その声には、以前のような悲しみや怒りではなく、諦念と、それでも真実を知りたいという、強い探求心が混じり合っていた。彼女の瞳は、まるで深淵を覗き込むかのように、俺の奥底を見据えようとしていた。
俺は、彼女の目を真っ直ぐに見返した。そして、静かに、しかしはっきりと答えた。
「俺は、ただの生徒だ。それ以上でも、それ以下でもない」
由紀は、その答えに、苦しげに顔を歪めた。彼女の顔には、もう涙はなかった。ただ、深い諦めと、それでも拭い去れない疑惑だけが残っていた。彼女は、俺から一歩後退し、まるで何かを覚悟したかのように、静かに微笑んだ。
「そう……。わかったわ。でも、仁科君。私は、諦めない。あなたが話してくれないなら……私が、必ず真実を見つけ出す」
その言葉は、宣戦布告のようにも聞こえた。由紀は、もう俺に縋ることはしない。自分自身の力で、俺の秘密を暴こうとしている。その覚悟が、彼女の全身から伝わってきた。
俺は、由紀の覚悟に、背筋が凍る思いがした。彼女の探求心が、どれほどの危険を呼び込むか、俺には痛いほど理解できる。しかし、それでも、俺は彼女を遠ざけることしかできなかった。
「俺は、お前を、護る。どれだけ嫌われても、どれだけ傷つけても……」
俺は、由紀の去っていく背中を見つめながら、心の中で誓った。俺は、彼女の安全のためなら、どんな犠牲も厭わない。たとえ、彼女の心に深い傷を負わせ、永遠に嫌われたとしても。それは、俺が選んだ、唯一の道だった。由紀の命を守るための、苦渋の選択。そして、『影』は、俺の周囲、そして由紀の周囲へと、着実にその網を狭めつつあった。俺の秘密が露見する日は、確実に近づいている。
仁科蒼真は、自らが選んだ茨の道を、一人歩き続ける。その先にあるのが、さらなる孤独なのか、それとも、かすかな希望なのか。彼はまだ、知る由もなかった。




