# 第11話:閉ざす心と、引き寄せられる魂
聖徴学園は、文化祭を目前に控え、祭りの前の静けさとは程遠い、熱気と喧騒に包まれていた。廊下を往来する生徒たちの足音、各教室から漏れ聞こえる話し声や作業音、それら全てが、仁科蒼真の研ぎ澄まされた五感には、まるで増幅されたオーケストラのようにも感じられた。
蒼真は、無表情を貼り付けたまま、静かに昇降口へと向かっていた。放課後。由紀が、演劇部の衣装製作で遅くまで残っていることを知っている。そして、その周囲を警戒し、不審な動きがないかを監視する『影』の気配もまた、以前にも増して巧妙さを増していることを感じ取っていた。まるで、蒼真自身の反応を試すかのように、僅かながらだが、護衛たちの配置が変更されている。
「仁科君!」
不意に背後からかけられた声に、蒼真は反射的に肩を揺らしかけたが、何とか無表情を保ったまま振り返った。そこに立っていたのは、白咲由紀だった。彼女の銀色の髪は、夕陽を受けて僅かに輝き、碧眼は、いつも通りの優しい光を湛えている。だが、その瞳の奥には、彼に対する確かな疑惑と、それから、何かを訴えかけるような、切ない光が宿っているのを蒼真は見逃さなかった。
「……白咲さん」
蒼真は努めて冷淡に、短い言葉を返した。先日、由紀を助けた際に、微かに漏れ出してしまった能力。身体が浮き上がるという、常軌を逸した現象を、彼女は確かに目撃した。その時の蒼真の行動は、由紀の疑念を決定的なものに変えてしまったことだろう。故に、由紀をこれ以上、自分の危険に巻き込むわけにはいかない。感情を閉ざし、彼女を遠ざけるしかない、そう、蒼真は自分に言い聞かせている。
「仁科君、最近、また……私を避けているでしょう?」
由紀の声には、寂しさがにじみ出ていた。彼女はゆっくりと蒼真に近づいてくる。蒼真は一歩、後ずさりそうになったが、そこで留まる。「気のせいでは」と、短く返すと、由紀は悲しそうに眉を下げた。
「そんなことないわ。この前も、私が困っていた時、さりげなく手伝ってくれたのに。それに、いつも……いつも、私の近くにいるような気がするの。なのに、いざ私が話しかけようとすると、壁を作ってしまう」
由紀の言葉は、まるで蒼真の心を直接射抜くようだった。彼女の言う通りだ。自分が彼女を監視し、護衛していること。それが、由紀には奇妙な「近さ」として感じられ、そして、いざ彼女が真実に近づこうとすると、蒼真自身が拒絶してしまう。この矛盾に、由紀は既に気づいているのだ。恐ろしいほどの直感力だ。まるで、彼の心の奥底まで見透かされているような錯覚に陥る。
「……そう感じたのなら、申し訳ありません」
蒼真は感情を込めず、頭を下げた。これで、彼女は諦めてくれるだろうか。これ以上、深入りしようとしないだろうか。だが、由紀は諦めなかった。彼女の碧眼は、真っ直ぐに蒼真を見つめ、揺るぎない決意を宿している。
「謝ってほしいわけじゃないわ。ただ……話してほしいの。仁科君が、何を抱えているのか。どうして、そんなに一人で抱え込もうとするのか。私には、少し分かる気がするのよ」
その言葉に、蒼真の心臓がどくりと大きく鳴った。分かる? 何が。彼女はどこまで知っている? 『影』のことか? 自分の能力のことか? もし、彼女の言う「分かる」が、その本質を突くものだとしたら、それは由紀自身を破滅へと導くことになる。蒼真の表情は、無意識のうちに、さらに硬く、冷たいものへと変化していった。
「白咲さんには、関係のないことです」
冷え切った声でそう告げると、蒼真は由紀の隣をすり抜け、昇降口へと足早に向かった。由紀は、その場に立ち尽くしたまま、蒼真の背中を見送っていた。彼女の目には、悔しさや悲しみ、そして、それらを押し殺したような、強い意志の光が宿っていた。
昇降口を出た蒼真は、人気の少ない校舎の裏手に回り込んだ。そこで、壁にもたれかかるように立っている、星野真琴の姿を見つけた。星野は、スマホをいじりながら、蒼真の姿を認めると、にっこりと屈託のない笑顔を向けた。
「おう、仁科! 遅いじゃん。白咲さんと何かあった?」
星野の率直な言葉に、蒼真は一瞬、言葉に詰まった。由紀のことが筒抜けになっているかのような言い方に、彼の警戒心が僅かに高まる。だが、星野の表情には、詮索するような悪意は一切見当たらない。
「何もない」
「そっかー。なんかさ、白咲さん、仁科のこと、すっげー見てるんだよね。前に言っただろ? 仁科が助けてくれたこととか、学園祭の準備を手伝ってくれたこととか、すっげー喜んでたよ」
星野はそう言って、にこやかに笑う。蒼真の心が、わずかに揺れる。由紀を助けたこと。それは、自分の意思に反して、彼女を危険に巻き込む行為だった。しかし、彼女が喜んでいたという言葉は、蒼真の冷え切った心に、微かな温もりを灯す。
「仁科もさ、もっと笑えばいいのに。いつも仏頂面じゃ、損してるぞ!」
星野はそう言いながら、蒼真の肩をポンと叩いた。その言葉は、蒼真にとって、久しぶりに聞いた「人間らしい」助言だった。これまで、彼は自分の感情を殺し、能力を隠すことに必死だった。人間らしさなど、彼にとっては危険なものだった。しかし、星野の屈託のない笑顔や、由紀の純粋な眼差しに触れるたび、蒼真の中に、忘れかけていた感情が、確かに芽生え始めているのを感じる。
「……俺は、このままでいい」
「つまんねーな、仁科は。でも、まあ、仁科は仁科だよな! よし、一緒に帰ろうぜ!」
星野はそう言うと、蒼真の返事を待たずに歩き出した。蒼真は、その背中を追いながら、ふと、空を見上げた。夕焼けに染まる空は、どこまでも広く、彼自身の狭い世界とは対照的だった。星野との、何気ない交流。由紀との、避けられない対峙。これら全てが、蒼真の心に、ゆっくりと変化をもたらしていることを自覚していた。そして、その変化こそが、彼にとって最も恐ろしいものだった。
家路につく途中、蒼真は由紀の周辺の監視状況を再度分析していた。以前よりも増して、不自然な「隙」が減っている。これは、『影』が蒼真の行動を予測し、より厳重な体制を敷いている証拠だった。或いは、由紀の父親である幹部、白咲瑛司の動きが本格化し、由紀を取り巻く状況が一段と切迫しているのかもしれない。どちらにせよ、由紀が今、これまで以上に危険な状況に置かれているのは明白だった。
蒼真は、マンションのエントランスに入る前に、公園のベンチに座り、スマホを取り出した。偽名で登録した匿名アカウントから、『影』の内部情報ネットワークに、ごく僅かな痕跡を残さないよう、慎重にアクセスする。由紀の父、白咲瑛司の最近の動向について調べてみる。すると、彼が複数の機密会議に出席し、組織内での発言力を急速に高めていることを示す情報が、断片的に見つかった。
「やはり……」
蒼真は唇を噛んだ。由紀は、その父親の権力闘争の駒として、さらに深く巻き込まれようとしている。そして、蒼真自身もまた、その渦に引きずり込まれようとしているのだ。由紀を突き放そうとすればするほど、彼女は彼に近づこうとする。そして、蒼真自身も、由紀の身に危険が迫るたび、彼女を守りたい衝動に抗えずにいる。
翌日、学園祭の準備は佳境を迎えていた。演劇部では、舞台設営や小道具の最終調整が行われている。由紀は、衣装の仕上げ作業に集中していた。蒼真は、校舎の屋上から、由紀のいる教室を密かに見下ろしていた。監視の目も、今日ばかりは学園祭の準備に紛れて、多少は緩んでいるように見える。だが、蒼真は、その僅かな油断が、かえって危険を招くと知っていた。
午後も半ばを過ぎた頃、事件は起こった。由紀が、舞台の装飾に使う布を運ぶため、脚立に乗っていた時のことだ。天井近くに設置されたライトの固定が緩んでいたのか、突然、金属製の部品が、由紀の真上から落下してきたのだ。周囲の生徒たちは、突然の異音に気づき、悲鳴を上げた。
由紀は、振り返った時には、既に落下物と、それが起こすであろう衝撃を認識していた。避ける間もなく、自身の運命を受け入れようと、目を閉じた、その時だった。
一瞬にして、彼女の背後から伸びた、誰かの手が、落下物を弾き飛ばした。金属片は、壁に激しくぶつかり、大きな音を立てて砕け散った。由紀は、恐る恐る目を開くと、目の前に立つ蒼真の姿があった。彼は、何事もなかったかのように、ただ由紀の無事を確認するように、一瞥をくれただけだった。
「仁科、お前、いつの間に!?」
近くにいた男子生徒が、驚きの声を上げる。蒼真は、あたかも偶然そこに居合わせたかのように、冷静に振る舞う。「たまたま、通りかかっただけだ」と、短い言葉を返すと、由紀から視線を逸らした。しかし、由紀は、蒼真の異常なまでの速さに、再び気づいていた。まるで、瞬間移動でもしたかのような、信じられない速さだった。
「仁科君……」
由紀の呼びかけに、蒼真は答えず、すぐにその場を離れようとする。その背中には、以前にも増して、孤独な影がまとわりついているように見えた。由紀の心は、激しく波立っていた。彼は、やはり何かを隠している。そして、その秘密が、彼自身を苦しめているのだと、由紀は確信した。
蒼真は、人混みに紛れながら、改めて由紀を守る決意を固めていた。彼女を危険から遠ざけるためには、突き放すしかないと、何度も自分に言い聞かせた。しかし、それはもはや、彼の本心ではなかった。由紀の危機に際し、自身の能力が微かに漏れ出てしまうことを恐れながらも、彼女を救う衝動に抗うことはできない。いや、抗うべきではない、とさえ感じ始めていた。
由紀を、影から守る。それが、今の自分にできる、唯一の償いなのだろうか。蒼真は、由紀を遠ざけようとすればするほど、彼女の存在が、自分の心の奥深くに、深く根を下ろしていくのを感じていた。秘密を抱えたまま、由紀の隣に立つことはできない。だが、彼女を完全に手放すことも、もう、自分にはできない。この矛盾を抱えたまま、蒼真は、由紀を隠れて護衛することを、改めて己に誓った。それは、孤独な戦いであり、彼自身の心が、人間らしさを取り戻すための、新たな一歩でもあった。
一方、由紀は、蒼真が去った後も、その場に立ち尽くしていた。彼の冷たい態度とは裏腹に、その行動が、由紀の心に、これまで以上に深く刻み込まれた。彼は、やはり特別な存在だ。そして、彼は、いつも私の危機に現れ、私を救ってくれる。由紀は、蒼真の背中に向けられた、自身の強い感情を自覚し始めていた。たとえ彼が何を隠していようと、私は彼を信じたい。由紀の心の中で、蒼真への好意と、彼の秘密を解き明かしたいという探求心が、ますます強く燃え上がっていた。
蒼真の逃亡者としての本能が、由紀を遠ざけろと叫ぶ。しかし、彼の心は、由紀という光に引き寄せられ、もう後戻りできない地点に達していた。彼自身の意思とは裏腹に、二人の関係は、着実に深まっていく。そして、その背後では、『影』の追跡の手が、ゆっくりと、しかし確実に、蒼真と由紀に迫りつつあった。




