第50話 流域祭の獣
Aは大学で民俗学を専攻しており、卒業論文の題材を探していた。
とある教授の紹介で、長野と岐阜の県境付近にある「M地区」という寒村を訪れることになった。
山あいを縫うように流れる川沿いに点在する数十戸の集落。
Aが気になったのは、そこに残る“幻の水祭”と呼ばれる古い風習だった。
地元ではそれを「流域祭」と呼んでいた。
川の増水や氾濫を鎮めるための祈祷祭であり、明治時代までは毎年、川の神に「贄」を捧げる風習があったという。
しかし大正に入る頃から、その記録が急に途絶えている。
Aは地元の古老から断片的な話を聞いた。
曰く――
「昔は川に“ケモノ”が出た。人間に化けて、流域を歩いた。
それを迎えるための祭だった。
ケモノは一人分の名と魂を食って、次の年まで川底に眠る」
「川のそばで夜に名を呼ばれるな。返事をしたら終わりだ」
それだけ聞いても荒唐無稽だが、Aは古文書の中に明らかに消されたページがあることに気づいた。
“ケモノ”の姿を描いた挿絵に、墨で×印がされていた。
獣の体に人の手。
裂けた口から、川水のような線が垂れていた。
夕刻Aは川沿いにある廃神社跡へ向かった。
地元では「水主社」と呼ばれていたらしいが、今は鳥居の礎石と、苔むした石段が残るのみ。
木々に囲まれたその一角は、まるで時間だけが取り残されているようだった。
その日は小雨が降っていた。
Aは、スマホを構えて動画を撮りながら、石段をゆっくりと登った。
教授への報告用に資料として残しておこうと考えたのだ。
「旧・水主社跡地、周囲には目立った遺構はなく……」
Aはスマホに向けて小声で実況しながら境内のような空間へと足を踏み入れた。
雨音。
足音。
川のせせらぎ。
どこかで何かが軋むような音が混じる。
ふと、スマホの画面に“何か”が映り込んだ。
川向こうの林に、白い影が立っていた。
Aは動画越しにそれを拡大しようとしたが、ピントが合わない。
代わりに、画面の中の影が、まるでAの方へ顔を向けたように見えた。
顔のパーツが縦に並んでいた。
目、鼻、口――すべてが、縦一列に歪んでいた。
そして、スマホのマイクが“水を揺らすような音”を拾った。
Aはそのとき、確かに自分の名前を呼ばれた気がした。
耳ではなく、頭の奥で響くような感覚。
Aは思わず「えっ?」と声を出した。
そして――意識が遠のいた。
その翌朝、Aは意識を失った状態で村の橋の下に倒れていた。
発見者によると、Aは泥と川藻まみれで、
口の中に“なぜか他人の名前が刻まれた小札”をくわえていたという。
札にはこう書かれていた。
「流域祭:代一名、納済済」
Aが地元の診療所に運ばれると、地区の古老たちはそれを見て、
誰も声を上げることなく、静かに視線を落とした。
病室の外で地区の一人がぽつりとこう言ったのが聞こえた。
「あの子、代わりになってくれたんだろ。
だから今年は静かに済んだんだ」
Aはその後退院し、大学にも復帰した。
だが、以前のように“自分の名前”に対して反応が鈍くなったという。
人に名前を呼ばれても、とっさに振り向けない。
誰かに「名前なんだっけ?」と聞かれるたび、心臓が冷たくなる。
Aはもう一度あの地区に行こうと思っている。




