第49話 幽霊舟
その湾には、夜に舟を出してはいけないという言い伝えがある。とくに潮の引く深夜0時前後、干潮と満潮の合間――“潮止まり”の時間帯が最も危険だという。
それを「ただの漁師の迷信」と笑っていたのは、映像クリエイターのYだった。
Yは地域の観光PR用に、ドローンと小型ボートで海岸線を撮影していた。撮影の拠点としたのは、瀬戸内海沿いのとある湾。周囲は静かで、観光客も少ない。
その日も夕方までに撮影を終える予定だったが、機材トラブルで遅れ、夜9時を過ぎても海上で調整作業をしていた。
満潮の時間を過ぎたあたりで、潮の流れがぴたりと止まった。波も風もなく、音のない“凪”が広がった。
そのとき――Yは、沖合に一艘の舟が浮かんでいるのを見た。
誰もいない。
だが、舟の形は奇妙だった。木造だが、明らかに現代の漁船とは異なる。
屋根も舷も、どこか時代がかった造りだった。
しかも、灯りがついていないのに、なぜか白く見える。
それが、ゆっくりと湾の奥へ向かって進んでいく。
Yは不思議に思い、ドローンを飛ばして接近させた。赤外線カメラに切り替えて映像を確認する。
画面には――舟の中に人がいた。
いや、人“の形”をした何かが十数体、うずくまるように並んでいた。
髪の長い者もいた。着物のような輪郭も見えた。けれど、すべて、顔がない。
Yはぞっとしてドローンを引き返そうとした。だがその瞬間、舟がこちらに向かって旋回した。
エンジンをかけ、岸へ向けて加速する。
その間も、あの舟――幽霊のような白い舟は、まるで波をものともしないように滑って追ってくる。
ふと気づくと、足元が濡れていた。
「……え?」
Yの乗るボートの床に、じわじわと水が染み出してきていた。
バケツで掻き出すが、間に合わない。床板の継ぎ目から、じわりじわりと水が“湧いている”。
どこにも穴などない。底を叩いても異音はなく、破損もない。だが、水位はどんどん上がっていく。
ボートの底には、もう足首ほどの深さの海水が溜まっていた。
港にたどり着いたのは、沈む寸前だった。係留ロープをかけるのももどかしく、Yは飛び降りた。
すぐに港の係員を呼び、ボートの様子を確認してもらった。だが信じがたいことに――船体には傷一つなく、バルブも閉じたままで、どこから水が入ったのか皆目わからなかった。
Yは、起きたことを必死に説明した。追ってきた無人の舟のこと、足元から湧いてくるように水が溜まっていったこと――。
話を聞いていた管理人は、しばらく黙っていたが、やがてぽつりと、こう呟いた。
「それ……幽霊舟を見たんだな」




