秘密だって、愛おしい【番外編】(3)
その夜、自宅で寛いでいると、テーブルの上からいつもの着信音が鳴った。
確認しなくても、誰からの電話か分かってしまう。
平日の、夜が進んだこの時刻、こんなに長く着信音を響かせる人物は一人しか思いつかないからだ。
今里さん………
私は少しの躊躇のあと、電話に出た。
「……はい」
〈もしもし。野田さん?〉
「はい……」
〈こんばんは。今大丈夫だった?〉
「はい、大丈夫です」
いつもの優しい声が、私の耳をくすぐって、それだけで私はたまらなくなる。
〈今なにしてたの?〉
「今ですか?特に……」
そのとき、今里さんの後ろから車のクラクションが聞こえてきた。
「今里さんは、お仕事帰りですか?」
〈うん、そう。今運転中でハンズフリーで話してるから、ちょっとうるさいかな?〉
「いえ、大丈夫ですよ」
サイドテーブルにある置き時計を見ると、23時になろうとしていた。
「こんな時間まで、お疲れさまです」
〈今日はいろいろお客が来てたからね。その相手で大幅な時間ロスしたんだ。おかげでこんな時間だよ〉
ふと今里さんの口から出た ”お客” という言葉に、私は意識が固まってしまう。
その ”お客” は、彼女のことだろうか……
昼間に見かけた二人の姿が浮かんで、自分で自分の心に傷を付ける。
〈…もしもし?野田さん?〉
私が黙りこむと、電話の向こうから、今里さんが大きく私の名前を呼んだ。
秘密の社内恋愛がはじまってから時間が経っているのに、まだ苗字のままの呼び方で、少しだけ物足りなさを感じてしまうのは私だけだろうか。
「……はい。聞こえてます」
小さく返事すると、今里さんのホッとしたような声が返ってきた。
〈ああ、よかった。通話が切れたのかと思ったよ〉
今里さんの声に心地よさを感じながらも、どうしても昼間の光景を忘れられない。
……あの人にも、今と同じように優しい声で語りかけたのだろか。
……あの人のことは、なんて呼んでいるのだろうか。
一人勝手に想像しては、先輩達の噂話をリアルなものに感じて、気持ちが、今にも出口を求めて走り出しそうで。
「それだけお忙しくて、お昼を召し上がる時間はあったんですか?」
気が付いたときには、そう訊いていた。
自分でも、いやらしい訊き方だなと思った。
だって、私は昼間、今里さんが福島さんと一緒に外出するところを目撃しているのだから。
なにも、先輩達の噂話を信じたわけじゃない。
それでも、自分に自信が持てない私は、今里さんの口から彼女とは何でもないんだという説明を聞きたかったのだ。
なのに……
〈いや、昼休みは来客のせいで後回しになった仕事をしてたから、結局何も食べられなかったんだよ。夕方…5時くらいかな?やっと一段落したんだけど、それまで何も食べられなくて参ったよ〉
澱むことなく、今里さんは、スラスラとそう言ったのだ。
「え………。…じゃあ、お昼はずっとオフィスにいらしたんですか?」
〈うん、そうだよ〉
……うん、そうだよ。
私は、通話が繋がったまま、絶句してしまった。
うん、そうだよ……今里さんは微塵も焦ったり声色を変えずに、平気でそう答えたのだ。
じゃあ……、じゃあ、あの、昼休みも終わりに差し掛かった頃に見かけた姿は?
先輩達の噂のもとになった女性の存在は?
今里さんは、そんなのまったくなかったことかのように、ごくごく自然に、
――――嘘をついた。
〈もしもし?野田さん?もしもし?〉
「………はい」
〈どうかした?あ、野田さんは昼どこか行ったの?〉
「私ですか?私は………社内で、済ませました」
〈そうなんだ〉
なぜだか、咄嗟に、私も嘘をついていた。
けれど妙な後ろめたさが伴ったのか、
「あの、秘書課の先輩達と、一緒に……」
訊かれてもいないのに、そう付け加えた。
〈ああ、総務部ってみんな仲がいいもんね〉
素直に納得してくれる今里さん。
私は色んな意味で胸が苦しくなって―――――
「あの、……すみません、電話、キャッチが入ったみたいで……その、実家から……」
またひとつ、嘘を重ねたのだった。
今里さんは、
〈あ、そっか。それじゃ、また明日、朝にでもメールするよ。おやすみ〉
と、疑いもせずに優しく言ってくれた。
その優しさににわかに心がざわついたけれど、それよりも、今里さんが私に嘘をついたことが……秘密を作ったことが、悲しかった。
「すみません……おやすみなさい」
通話を切った後、どんなに考えないようにしても、今里さんと福島さん、二人の笑い合う姿が瞼から離れなかった。
二人は、どんな関係なのだろう。
白華堂のお嬢様ということは、きっと二人は昔からの知り合いなのだろう。
でもだったら、今里さんの事情を教えてもらってる私には、それを隠す必要はないはずなのに。
それとも………私には話せないような、秘密の間柄だったりするのだろうか。
『白華堂の社長とうちの社長が古い知り合いで、一人娘をうちの社長の甥に嫁がせたいと言ってる……』
『今時、政略結婚なんてあるのね』
『政略結婚とまでは言えないかもしれないけど、昔からの家族ぐるみの付き合いで幼馴染みなんて、まるで恋愛小説の設定みたいよね』
『まあ、どっちにしてもただの知り合いにあの雰囲気は出せないわよね……』
先輩達の噂話が真実味を帯びてくるようで、私は、それを頭から追い出したくて、ベッドに潜り込んで布団を頭まで掛けた。
秘密の社内恋愛をはじめて、”秘密” も悪くないなんて感じていたけれど、
やっぱり、秘密なんてろくなことない。
真っ暗な狭い中で、どんどん息が苦しくなってきて………だけどいつの間にか、私は眠っていたようだった。
まるで、今里さんが私に漏らした新しい秘密から、目をそらすように………
※※※※※
翌日、私は朝から一度も今里さんを見かけなかった。
出勤前にはメールをもらっていたけど、いつものように弾んだ気持ちにもなれず、差し障りのない返信しかできないでいた。
そんなこともあったので、どこか意識的に彼を避けていたのだろう。
夕刻になって、
「誰か手の空いてる人、これを事業部まで持っていってくれない?」
部署内でそう頼む声にも、即座に応じることができなかった。
普段なら、一番下の私が真っ先に名乗り出るのだけど、今日ばかりは事業部に向かうことに乗り気にはなれなかったのだ。
少しの間をおいて、二つ隣のデスクの先輩が、「じゃあ私が行ってくるわ。ついでに自販機寄ってくる」と手を挙げてくれた。
私がちら、とその先輩を見ると、ばっちり目が合ってしまう。
「あの……すみません」
本来なら私が行くべきなのに。
その含みを持たせて言うと、先輩はにっこり笑った。
「いいのよ。野田さん、今日はなんだか顔色が良くないから。体調悪いんじゃない?あんまり無理しないで、たまには先輩に甘えてなさい。あ、なにか飲み物買ってきましょうか?」
フォローだけでなく気遣いまでかけてくれる先輩に、私は急に申し訳ない思いがあふれてきた。
「あ……すみません、ちょっと、寝不足かもしれません。でも大丈夫です。飲み物も、ほんと、大丈夫です。ありがとうございます」
恐縮気味にそう答えると、他の先輩方も心配そうに私に声をかけてきてくれて、私は、本当にいい職場で働かせてもらってるんだなと思ったのだった。
自分では分からないけれど、やっぱりどこか気持ちが無理をしていたらしい。
それが顔色を悪くさせ、周りに心配をかけてしまった。
私は先輩方の優しい声を無駄にしないためにも、その後はデスクワークにつとめ、定時であがることにしたのだった。
※※※※※
「あ!野田さーん!」
エントランスから外に出たところで後ろの方から呼び止められ、私は特に意識せずに振り返った。
すると、新入社員研修でお世話になった先輩が私を見つけて小走りに駆け寄ってくるところだった。
休日に私が今里さんと一緒にいるのを見かけて心配してくれた先輩だ。
あの後、この先輩には、今里さんと付き合いはじめたことを報告していた。
今里さんとのことで心配かけた分、安心してもらいたかったのだ。
親しい先輩と久しぶりに会えて、今日は沈みがちだった私のテンションもに僅かに浮上した。
「お疲れさまです。先輩も定時あがりですか?」
「そうよ。ここのところ残業続きだったから、今日は無理やり終わりにしちゃったの」
小走りしたのに先輩の髪は少しも乱れてないし、仕事終わりなのにまるでメイクしたてのような、いつもと変わらない完璧なルックスだ。
秘書課の先輩方も気安く接してはくれているけど、みなさん頭のてっぺんから指の爪の先まで綺麗に整えているし、私の周りには、世間の一般ランクより高い人達が多い。
……彼女達なら、あの福島さんと張り合うこともできるのだろうか………
ぼんやりと浮かんだそんな考えに、せっかく弾んだ気持ちもまた下降してしまった。
すると、先輩が心なしか悩ましそうな表情に変わった。
「ところで野田さん、大丈夫?」
「え?」
「ほら、昨日あたりからすごい噂じゃない」
てっきりまた顔色が悪いとか言われるのかと思いきや、先輩は苦々しげにそんなことを言ってきた。
「噂……」
咄嗟には意味が分からなかったけれど、少し考えると、すぐに思い当たるものがあった。
昨日あたりからの噂といえば――――
無意識のうちに、顔の筋肉が、強張っていく。
バッグを持つ手にも力が入って、唇をキュッと噛み締めて、これじゃ先輩の問いに無言で肯定してるようなものだ。
先輩も違わずに私の感情を受け取ったようで、ふっと柔らかく笑うと、
「ね、ちょっと飲みに行かない?ご馳走するから」
明るく誘ってくれた。
事情を知ってる先輩からの心遣いは有難くて、甘えてしまいたい気持ちもあったけれど、顔色が悪いと言われて定時であがっているし、飲みに行くのは少々気がひける。
私は先輩が心配しないよう、笑顔を作り、なるべく和やかに断ろうと思った。
「すみません、今日は……」
けれど、まっすぐ帰ります、そう答えようとした私のすぐそばで、
「健さん!」
まるで私のセリフを遮るように高い女性の声がしたのだった。
健って、今里さんと同じ名前だなと、瞬時にそんなことが思い浮かんでいると、今度はそれに応えるように男性の声がした。
「香澄ちゃん、もう来てたんだ。待たせてごめんね」
――――その声は、とても聞き覚えのある声だった。
だってその声は、昨夜も私の耳もとに優しく話しかけてくれた声だったから。
大好きな、恋人の声だったから………
知りたくなくても、気付いてしまう。
見たくなくても、勝手に体がその声の主を見つけてしまう。
まるで、吸い寄せられるように。
私の視界には、まだそんなに離れてはないエフ・レスト本社の正面玄関から、私の恋人である今里さんが急ぎ足で福島さんに向かってる姿が、鮮明に映ったのだった。
今日はじめて見る彼は、私にいつもとは違う意味で緊張を与えた。
「そんなに待ってないから大丈夫ですよ」
朗らかに答える福島さんに、「そう?ならよかった」と笑い返す今里さん。
まるで、デートの約束をしていた恋人同士みたいだ。
私は二人から目を逸らせなくて、それが不躾な視線に感じられたのだろう、今里さんがふとこちらを見た。
当然、ぶつかり合う視線。
彼の口が、大きく開いて「あ……」と言うのがはっきり見えた。
そして次の瞬間、彼が驚いた顔でこちらに手を伸ばしかけて―――――
でも私は、反射的に走り出していた。
「野田さんっ!」
「あ、野田さん?!」
今里さんと先輩の声が重なって追いかけてきたけど、私は足を止めずにそれらを背中で振り払った。
「今里さん、いったいどういうつもりなんですか?」
「どういうつもりって……」
「野田さんのことですよ!噂は本当なんですか?!野田さんがどんな気持ちで…」
先輩が今里さんを責め立てるようなセリフが聞こえてきて、でも、もうなにも聞きたくなかった私はただ足をはやめるばかりだった。
きっと福島さんは、いったい何事かと、あの上品な雰囲気を歪めて驚いてることだろう。
もしかしたら通りすがりの人達だって、いきなり走り出した私を不審に思ったかもしれない。
だけど、
目の前の現実を、私は受け入れられなかったのだ………
『まあ、どっちにしてもただの知り合いにあの雰囲気は出せないわよね……』
あまりにお似合いの二人は、例えどんな言い訳を聞いたところでその ”お似合い” が崩れることはないと感じた。
――――私より、あの人の方が今里さんの隣に似合ってる。
そんな卑屈な考えに、自分の ”彼女としての自尊心” が簡単に負けてしまいそうで。
それは、私の弱さなのかもしれない。
でも今は、その弱さに立ち向かうよりも、ただただ逃げ出したかった。
逃げて逃げて逃げて、一人きりになりたかった。
自分の部屋に帰って、一人きりで、誰にも会いたくなかった。
何も、聞きたくはなかった。
なのに……
「野田さんっ!」
ぐいっと右腕を後ろに引かれ、私は無理やり足を止められてしまった。
振り向かなくても、考えられる相手は一人しかいない。
……あの人のことは、下の名前で呼んでいたのに。
黒くて不快な感情がもくもくと湧き上がってくるのを、抑えられなかった。
「ちょっと待って!オレ、まさか自分の噂が流れてるなんて知らなくて。彼女は、福島さんは、」
焦った姿も声も、何もかもがかっこいいなとは思ったけど、どこか、冷えた感覚に喉が締まった気がした。
私は、
私は……
「何も聞きたくありませんっ!」
人目も憚らず、大声で今里さんの言い訳を拒絶したのだった。
見上げた先に、今里さんの困惑顔。
一瞬、彼にそんな顔をさせてしまったことに胸が痛むけれど、
それでも今は、どんな言い訳も聞きたくなかったのだ。
例えパーフェクトな言い訳を述べられたとしても、それが真実だったとしても、今の私にはそれを素直に受け入れるだけの余裕がなかったから。
なにを言われても、私は自信のなさを盾に、すべてを跳ね返してしまいそうで。
それに……、今里さんが私に嘘をついた事実は変わらない。
昨夜の電話で、私に、はっきりと言ったじゃない。
昼はずっと社内にいたって。
私に、また秘密を作ったじゃない。
私は秘密が嫌いだって、知ってるはずなのに。
秘密のせいで、私達はあんなに振り回されてすれ違ったのに。
「話を聞いてほしい。オレと、」
それでもまだ何かを伝えたがる今里さんに、私は咄嗟に声をあげた。
「私はっ!」
大切な恋人を睨みあげるように見つめ返した。
彼も、私の言葉の勢いに負かされたように口をつぐんだ。
「私は……」
……だめだ。
じっと私を見る今里さんの瞳に、ふいに、涙がこぼれそうになってしまう。
私は今里さんから目を逸らし、俯いた。
近所の商業ビルに合わせてデザインされた歩道の、幾何学的な模様が視界を埋める。
涙が、下睫毛を揺らして、幾何学模様の色をぼんやり変えた。
「私、昨日のお昼、先輩達と外でランチしてたんです。それで………やっぱり秘密は好きじゃありません」
ぽそりと、小さな訴えを告げると、ふわりと、右腕が解放された感覚がした。
そして、
「………ごめん」
同じように、小さく、今里さんが告げた。
そのとき彼がどんな表情をしていたかなんて、俯いたままの私には分からなかったけれど、『………ごめん』という言葉がすべてだと思った。
つまり今里さんにも、思い当たることがあるわけだから。
私は、自由になった体を翻して、また走り出していた。
今度は、今里さんは追ってはこなかった。
走りながら、必死に泣くのを堪えていた。
堪えながらも、胸の中では叫びをあげていた。
やっぱり、秘密なんて大っ嫌い――――
あんなに秘密の社内恋愛に胸をときめかせていた自分が、もう、ずっとずっと遠くの昔のことのように、色褪せていくのを感じていた………




