エピローグ 改訂版
【エピローグ 帰れなかった人】
阿倍仲麻呂は、十九歳で海を渡った。
唐の都・長安で学び、官僚となり、李白や王維らと同じ時代を生きた。異国の地で名を知られ、唐の朝廷に仕え、長い年月を重ねた。
そして、七五三年。
仲麻呂は、日本へ帰ろうとした。
唐に渡ってから、すでに三十六年が過ぎていた。
十九歳だった青年は、もう若者ではない。故郷を離れた年月は、人生の大半に及んでいた。
それでも、帰りたかったのだ。
唐を嫌っていたからではない。長安で築いた人生が、偽物だったわけでもない。
唐には友人がいた。仕事があり、思い出があり、彼が彼として生きた時間があった。
それでも、日本へ帰りたかった。
人間の心は、ひとつの場所だけを故郷にするとは限らない。
異国を愛することと、生まれた国を恋しく思うことは、矛盾しないのだ。
けれど、仲麻呂の帰国はかなわなかった。
船は嵐に遭い、彼は海を渡り切ることができなかった。日本では、仲麻呂は死んだものと思われた。友人の李白も、彼の死を悼む詩を残している。
仲麻呂は生きていた。
しかし、帰れなかった。
この物語を書きながら、私は何度も考えた。
彼は、どんな気持ちだったのだろう。
三十六年ぶりに帰国しようとした彼には、日本で待っている人がいたのだろうか。
父や兄弟、親族。幼いころに暮らした家。見慣れた山や海。
渡唐したとき、彼はまだ十九歳だった。出発の日、彼を見送った人々は、彼がそのまま唐で生涯を終えるなどと思っていただろうか。
仲麻呂の家族については、わかっていないことが多い。
誰が彼の帰りを待っていたのか。誰が、帰らない彼を思い続けたのか。
彼が唐で家庭を築いたのかどうかについても、確かなことは多くない。妻がいたのか、子どもがいたのか。いたとすれば、どのような人々で、彼は彼らをどれほど愛していたのか。
史料は、そうした問いに十分な答えを与えてくれない。
ここで、物語の都合に合わせて妻や子どもの姿を描くことはできる。けれど、それを史実であるかのように語ることはできない。
わからないものは、わからないままにしておきたい。
ただし、わからないからといって、彼に家族への思いがなかったと決めつけることもできない。
仲麻呂は、歴史に名を残した人物だ。
だが、名を残すことと、その人の人生がすべて記録されることは、同じではない。
官職や功績、詩に記された名前は残っても、誰と食卓を囲み、誰の帰りを待ち、夜に何を思ったのかまでは、残らないことがある。
歴史に残る人にも、記録されなかった日々があったはずだ。
そして、七七〇年。
仲麻呂は、唐で生涯を終えた。
日本へ帰ることは、ついにかなわなかった。
死後の彼についても、謎が残る。
日本側の史料には、仲麻呂の死後、親族に関わる記録が見える。そこからは、彼の死をめぐる人々の暮らしや、葬礼にまつわる事情をうかがう余地がある。
しかし、そこから先を、確かな事実であるかのように語ることは難しい。
誰が彼の最期を看取ったのか。
誰が彼の死を悲しんだのか。
どこに葬られ、誰がその墓を守ったのか。
仲麻呂の墓所として確実に特定された場所は、現在も知られていない。
西安には、彼を記念する碑がある。
けれど、記念碑は墓そのものではない。
その場所に立てば、彼が生きた唐の都に思いを寄せることはできる。だが、彼の遺体がどこに眠っているのか、私たちは確かな答えを持っていない。
十九歳で海を渡った青年。
異国で学び、官僚となり、友人を得た人。
唐を生きる場所のひとつにしながら、日本への思いを失わなかった人。
その人が、最後に誰を思ったのか。
誰に会いたかったのか。
どこに帰りたかったのか。
私たちは、すべてを知ることができない。
けれど、わからないことが多いからといって、彼の心まで空白だったことにはならない。
私は、仲麻呂を、何もかも達観した大天才として描きたくなかった。
彼ほどの知性を持つ人でも、悔しかっただろう。悲しかっただろう。腹も立っただろう。
帰国の船が失われたと知ったとき、その怒りを誰に向ければよかったのだろう。
海か。運命か。それとも、帰れると信じて船に乗った自分自身か。
どれほど考えても、失われた時間は戻らない。
怒りをぶつける相手がいたとしても、三十六年という歳月を取り戻すことはできない。
それでも、生きていかなければならなかった。
仲麻呂は、長安へ戻った。
そこには、彼が長い年月をかけて築いた人生があった。
帰れなかったことへの悲しみと、唐で生きていくことは、同時に存在したのだと思う。
人間は、失ったものだけでできているのではない。
失ったものを抱えたまま、それでも続いていく日々によっても、形づくられていく。
仲麻呂が唐でどのように晩年を過ごしたのか。その胸の内に何があったのか。私たちには、わからないことが多い。
だからこそ、彼の歌が残っていることを、私は大切に思う。
**天の原 ふりさけ見れば 春日なる
三笠の山に 出でし月かも**
広い空を仰ぎ、月を見つめる。
その月は、かつて日本で見た月と同じ月だったのだろうか。
遠い異国から故郷を思うとき、人は、目の前にあるものに、かつて見た景色を重ねることがある。
この歌が詠まれた状況については、後世に伝わる物語と史実を区別して考える必要がある。それでも、この歌が長い年月を越えて人々の心を動かしてきたことは確かだ。
そこには、遠い故郷を思う人間の心がある。
月は、帰る道を教えてはくれない。
それでも、人は月を見上げる。
帰りたい場所があるから。
会いたい人がいるから。
そして、どれほど遠く離れていても、自分がどこから来たのかを、忘れられないから。
阿倍仲麻呂は、十九歳で海を渡り、異国を故郷のひとつにした。
それでも、故郷を思い続けた。
そして、帰れなかった。
彼の家族についても、結婚についても、墓所についても、私たちは知らないことが多い。
けれど、彼が生きた時間まで、なかったことにはできない。
歴史は、記録された事実だけでできている。
しかし、歴史を読む私たちは、その事実の向こうに、一人の人間が生きていたことを想像する。
想像することと、事実を捏造することは違う。
わからないことを、わかったふりで埋めない。
けれど、わからないからといって、その人の人生を空っぽにもしない。
そのあいだにこそ、歴史小説を書く意味があるのかもしれない。
墓所は、わからない。
家族のすべてを知ることも、できない。
けれど、歌は残った。
十九歳で海を渡り、異国を故郷のひとつにしてしまった人。
それでも、故郷を思い続けた人。
帰りたかった人。
そして、帰れなかった人。
その名を、私たちは忘れない。
阿倍仲麻呂は、西暦770年に、72歳または73歳で亡くなったとされています。
生年を698年とするか701年とするかで、数え方が変わります。
十九歳で唐へ渡り、帰国を願ったのは五十代半ば。
そして、日本へ帰国できないまま、唐で生涯を終えました。
七十歳を過ぎても、彼の人生には「帰れなかった」という事実が残った。
唐で築いた人生があった。
大切な人たちもいたかもしれない。
それでも、日本へ帰りたかった。
大天才だから、悲しみを乗り越えられたわけではないんです。
そして、彼が亡くなって千年以上が過ぎた今も、私たちは彼の歌を読んでいる。
「帰りたかった人。そして、帰れなかった人。」




