番外編 ヴァイスの日常
「くぁあ……。よい朝じゃのぅ」
差し込む朝陽の眩しさに目を細め、我――フェンリルのヴァイスは、大きなあくびを一つ漏らした。
陽だまりの村の、一番大きなログハウスの応接間。
暖炉の前の特等席。ふかふかの絨毯の上で丸まって寝るのが、我の最近のお気に入りじゃ。
周囲を見渡すが、当然ながら「主」の姿はない。
今日は水曜日。地球の暦で言う平日のど真ん中じゃ。あれから地球とこっちの世界の時間が同じように流れるようになったのだ。
主であるムクノキ――あっちの世界では「村木京介」という、実に冴えない名を持つ男は、今頃あっちの世界で『かいしゃいん』として、せっせと汗を流しておるはずじゃ。
「平日の村は、少しばかり静かじゃのぅ」
我は身体を大きく伸ばし、変化のスキルを使って獣人形態へと姿を変えた。この姿の方が、村の家の中では色々と都合が良いからの。耳と尻尾はそのままじゃが、シスターが作ってくれた、身体にフィットした白いワンピースを揺らしながら、我はパトロールへと出かけることにした。
**
「お母様! おはようございます!」
村の広場へ出ると、今朝の哨戒を担当していたフェルイチとフェルニが、我の姿を見つけて元気に駆け寄ってきた。
我が子らもレベルが40を超えておるからの。大森林の奥にいた頃に比べれば、見違えるほど逞しく育っておる。
「うむ、おはよう。フェルイチ、フェルニ。今朝の森の様子はどうじゃ? 不審な魔物や、例の『お人形(改造人間)』の残党などの気配はないか?」
「はい! 東の境界線付近まで見回りましたが、魔物たちもおとなしいものです。お母様とムクノキ様がザイリアの黒幕を倒してくださってから、森全体の不気味な魔力の乱れも、完全に消え去りました!」
フェルイチが胸を張って報告する。
我らフェンリルの一族にとって、この大森林の一角、特にここは代々の縄張り。そこが主の尽力によって再び平穏を取り戻したことは、我にとっても我が子らにとっても、誇らしいことこの上ない。
「良い心がけじゃ。だが油断はするな? 主が『慢心は隙を生む』と言うておったからの。いつ何時、新たな脅威が迫るか分からん。日々の特訓を怠るでないぞ。ほれ! 気合を入れよ!」
「「はい!!」」
子フェンリルたちは、我の叱咤に嬉しそうに尻尾をブンブンと振りながら、再び森の哨戒へと走っていった。
本当に、良い子らに育っておるのぅ。主が地球から持ってくる『ちゅーる』とやらを貰うために、必死に芸(お座りやお手)を練習している姿だけは、少々威厳に欠けるがのぅ……。まぁ、美味いものには勝てん。それは我も同じじゃが……
**
パトロールを終えて村の中を歩いていると、カン、カン、と大工房から規則正しい心地よい槌の音が響いてきた。
「ウェスリーも精が出るのぅ」
我が工房の覗き窓から声をかけると、ウェスリーが金床に熱い鉄を打ち付けながら、嬉しそうに顔を上げた。
「あ、ヴァイスさん! おはようございます! ちょうど良かったです、新しく開発した『魔導農具』のテストに、少しだけ風の魔力を込めてもらえませんか?」
「ふむ、これか? 主が言っておった『こうあつ・せんじょうき』とやらの部品じゃな?」
「そうです! これにヴァイスさんの微細な風魔法を組み込めば、畑の泥を一瞬で吹き飛ばす便利な道具になるはずなんです!」
ウェスリーは、ドワーフのボルガンから受け継いだ鍛冶技術と、主がもたらす地球の知識を融合させ、日々恐るべき速度で村を豊かにする道具を生み出しておる。
我は彼の手元にある鉄のノズルに、すっと指先から極微量の風の魔力を注ぎ込んでやった。
「おおっ! 完璧です! これでムクノキさんが戻ってきて掃除したりする時も、腰を痛めずに作業ができるー!」
ウェスリーが嬉しそうに拳を握りしめる。
本当に、この村の連中はどいつもこいつも主のことが大好きじゃの。我は内心、少しだけ誇らしい気持ちになりながら、工房を後にした。
**
そしてお昼時。食堂から、何やらとても甘くて香ばしい匂いが漂ってきた。
中に入ると、リリィとシスターが、大きな鉄板を前にしてエプロン姿で何やら忙しなく立ち働いていた。
「あ、ヴァイスさん! こんにちは! ちょうど今、ムクノキお兄ちゃんから貰った『ほっとけーき・みっくす』でお昼ご飯を作っていたんです!」
「ほっとけーき……。主がお土産にと言っておった、あの黄色くてフワフワした菓子じゃのぅ?」
リリィが、フライパンの上できれいにきつね色に焼き上げられた、絵本に出てくるようなホットケーキを皿に盛り付け、我の前に差し出してくれた。
「はい、どうぞ! お兄ちゃんが持ってきてくれた『めいぷるしろっぷ』もたっぷりかけましたから!」
「おぉ……! これは美しい色じゃ……」
我は人型の姿のまま、上品に(主はそうは思っておらんようじゃが)フォークを手に取り、一口、口へと運んだ。
咀嚼した瞬間、口いっぱいに広がる、暴力的なまでの甘みと、鼻に抜ける香ばしいメイプルの香り。そして何より、この羽毛のように軽いフワフワとした食感。
「美味い……! 美味いぞリリィ! これは、肉とはまた違う次元の破壊力じゃのぅ!」
「あはは、良かった! リリィ、お兄ちゃんから焼き方のコツを教えてもらったんだ!」
リリィは自慢げに微笑んだ。
彼女はこの一年で本当に強くなった。かつて攫われた時の恐怖に震えていた面影はなく、今では村のムードメーカーの一人じゃ。彼女の持つ【聖なる源泉】の力は、我ら一族にとっても今やなくてはならない守りの要となっておる。
「ヴァイスさん、どうぞ」
シスターが温かいハーブティーを淹れてくれた。
地球産のクッキーをサクサクとかじりながら、我はシスターと他愛のない雑談を交わす。
「ムクノキ様がいらっしゃらない平日は、少しだけ村が広く感じられますね」
「うむ。まぁ、あやつがいない間は、我らがこの村の平和を完璧に守っておいてやらねばならんからな。あの甘い菓子を、主の分まで我らが美味しく消費してやることも、重要な任務じゃのぅ」
我の言葉に、シスターはクスクスと優しく微笑んだ。
**
夕方。我は温泉大浴場へとやってきた。平日のこの時間は貸し切りじゃ。
変化を解いて、本来の巨大な白いフェンリルの姿に戻り、ざぶんと温かい湯船に身体を浸からせる。
「ふぅぅぅ……。極楽、極楽じゃのぅ……」
極寒の地での激闘、そして長命の我が身体に溜まった、数百年分の見えない疲れが、このウェスリーが掘り当てた湯の中に溶けて消えていく。
湯船のヘリに、巨大な前足をだらりと乗せ、お湯の温もりを堪能していると、ぽよん、と湯船の端から青い人型のプリンが浮かび上がってきた。
「あったかいねぇ~♪」
「うむ。プリンよ、お主も随分と魔力が安定したようじゃな」
「そうなのぉ~♪ あるじにギュッてしてもらうのも好きだけど、こうしてみんなと温泉に入るのも、プリンだーい好きなのぉ~!」
プリンは温泉の中で嬉しそうに足をバタバタとさせている。彼女の頭の上には、ハムが小さな身体をお湯に濡らさないように必死にしがみついておる。
「きゅきゅ~♪」
「お主ら、本当に主が大好きじゃのぅ」
「ヴァイスも大好きなのぉ~♪」
「……我は、あやつが持ってくる地球の肉と菓子が好きなだけじゃぞ?」
我はそっぽを向いて、温かい湯を尻尾でパシャリと撥ねた。
だが、その言葉に、自分でも嘘が混ざっていることは分かっていた。
主のいない平日は、平和で、静かで、実に快適じゃ。
だが、どうにも物足りん。
あの、我の鬼特訓にズタボロになりながらも必死に喰らいついてきた、あの冴えない「中身はおじさん」の、間の抜けたツッコミ。
地球のお土産を出す時に、少しだけドヤ顔をするあの得意げな表情。
我のフワフワした背中に嬉しそうに寄りかかって、プシュッと缶ビールを開けるあの音。
それらがない日常は、どうにも「それなり」に退屈なのだ。
**
金曜日の深夜。俺たちのログハウス。我は変化を解き、暖炉の前で横になりながら、部屋の奥に設置された『転移ドア』をじっと見つめていた。
プリンも、ハムも、寝静まった真夜中。
我は片耳をピンと立て、その扉の向こうから伝わってくる、かすかな気配に全神経を集中させていた。
コト、と。
ドアノブが、静かに回る音が聞こえた。
カチャ。
扉が開き、そこから、いつもの安っぽいスニーカーを履いた、主の足が見えた。肩に大きな買い物袋(地球のスーパーのポリ袋じゃな)をぶら下げ、少しだけ眠たそうな、しかし「ただいま」という愛おしそうな笑顔を浮かべた、俺たちの主がそこに立っていた。
「ただいま、ヴァイス。起きてたのか?」
俺の姿を見るなり、我はわざとフイとそっぽを向いて、巨大な尻尾を一度だけ床にパタパタと打ち付けた。
「遅いぞ、主よ。我は待ちくたびれて、今夜の『霜降り肉』のメニューを頭の中で三周も組み立てておったところじゃぞ」
「あはは、悪かったよ。ほら、ちゃんと買ってきたから。……よし、週末の始まりだな。みんな、起きてるかー?」
「あるじぃ! おかえりなのぉ~♪」
「きゅっきゅー!」
奥の部屋から、寝ていたはずのプリンとハムが嬉しそうに飛び出してきた。
ウェスリーやシスターたちも、主の気配を察して、すぐに笑顔で起きてくるだろう。
我は、主が差し出してきた冷えた『霜降り肉』の袋を受け取りながら、そのフワフワとした背中を、主が寄りかかりやすいように少しだけ丸めてやった。
「うむ。やはり、お主がおらんと、この村は『それなりに』締まらんからのぅ」
おじさんと、我らフェンリル一族の平和な日常であった。
なんとなく…その後をちょっとだけ書いてみた…




