第70話 決戦前夜の包囲網
ザイリアの街の片隅に佇む、水晶のように澄んだ半透明の宿屋。その一室に戻った俺たちは、地上の快適な温風に包まれながらも、誰一人として口を開くことができずにいた。
部屋の防音性は完璧なはずなのに、地下一階に広がっていたあの巨大な魔導装置のドクン、ドクンという重苦しい脈動が、いまだに足の裏から伝わってくるような錯覚に囚われる。
「……リリィ、だったな」
俺はベッドの端に腰掛け、手首に結ばれた子供たちのミサンガをそっと撫でながら、重い沈黙を破った。
堕ちた管理代行者の独白。
奴の狙いは、間違いなくリリィの【聖なる源泉(MPドナー)】だ。彼女の力を世界再構築のための「永久機関(電池)」としてシステムに組み込み、その命と引き換えにハッキングを完了させる。そんな外道極まりない計画を、奴は冷徹に進めていた。
「うむ。あの男、リリィを捕らえて自らの魔力供給源にするつもりじゃ。もし世界が奴の思い通りに再構築されれば、我が大森林も、主が作った陽だまりの村も、すべて消え去るか奴の都合の良いように書き換えられてしまうじゃろうのぅ」
ヴァイスは人型の姿のまま、氷のように冷たい瞳で窓の外を凝視していた。
「リリィちゃんを電池にするなんて、絶対に許さないのぉ~! あるじ、プリンも、みんなも、絶対に負けないのぉ~♪」
プリンが小さな拳を握りしめ、ふんすと鼻を鳴らす。その頭上では、ハムが「きゅいきゅい!」と激しく同意するように鳴き、前足をバタつかせていた。
だが、現実は甘くない。
あの地下大空洞を埋め尽くしていた、数千、いや下手をすれば数万に及ぶであろう改造人間の大軍。そして、システムの中枢を掌握しつつある堕天使のような男。
「どうするかな……」
くどいようだが、俺のステータスは【精霊のお護り】によってベース値すべてに+20の永久補正が入り、格段に強くなっている。だが、それでもだ。それでも敵の数があまりにも多すぎるのだ。
「俺の【能力3倍強化】があれば、敵の幹部クラスやあの黒幕とも互角以上に渡り合える。……だが、持続時間があまりにも短すぎる」
現在の俺の最大MPは、お護りの補正が入っても『161』だ。
能力3倍強化は、発動している間、凄まじい勢いで魔力を消費し続ける。一年前のように数秒単位でON/OFFを切り替えて戦うにしても、あの数の大軍に囲まれ、常に極限の乱戦を強いられる状況では、おそらく一分、持って二分で俺のMPは底を突くだろう。
魔力が切れた瞬間、俺はただの「少し強い人間」に戻る。その瞬間に、数千の改造人間に押し潰されて終わりだ。
「主よ……やはり、あやつの力が必要になる、ということか」
ヴァイスが俺の意図を察し、静かに目を細めた。
「ああ。リリィの【聖なる源泉(MPドナー)】。他者に魔力を直接供給し続ける、彼女の真骨頂……。リリィが俺の後方に控え、俺の身体に絶えず魔力を送り込み続けてくれれば、俺は消費MPを完全に相殺し、能力3倍強化を常時発動した状態で戦い続けられる」
常時、能力3倍。
ATKは550を超え、SPDは300を突破する。その領域に達すれば、数千の軍勢だろうと、ハッキング用の触手だろうと、すべてを光速で置き去りにして、影から影へと転移しながら一瞬でデバッグ(駆除)できる。
それが、この絶望的な戦力差を覆し、世界を救うための「唯一の勝算」だった。
「リリィちゃんを、この寒いザイリアに呼ぶのはかわいそうだけど……でも、リリィちゃんがここにいれば、あるじは無敵になるのぉ~♪」
「ああ。それに、もし俺たちがここで負ければ、陽だまりの村もどのみち消滅する。リリィを安全な村に隠しておいたつもりだったが、世界のシステムそのものを弄ばれている以上、このザイリアで黒幕を叩き潰さなければ、どこにいても安全はないんだ」
「だが、どうやって遠く離れた陽だまりの村から、リリィを安全に、かつ迅速にここまで連れてくる? 俺が『転移』で往復するのも手だが、片道で消費MP30だ。往復すれば俺の貴重な戦闘用のMPが削られてしまう……」
俺が眉間を指で揉みながら呟くと、ヴァイスが呆れたように白い耳をピクリと動かした。
「ふむ、主よ。何を悩んでおる? 我と我が子らの【影潜み・影移動】の力を忘れたか?」
「影移動……そうか! お前たちの影移動は、俺の影と村を繋ぐことができるのか!」
「そうじゃ。我が影には今、子フェンリルたちが全員潜んでおる。フェルイチ、ちょっと村に戻って、リリィを連れてくるのじゃ。フェルミの背にリリィを乗せ、影移動を中継しながらここまで急行させるが良い」
ヴァイスが俺の影に向かって命じると、影の中からフェルイチが「わん!」と短く鳴き、そのまま影の奥深くへと沈み込んで完全に消えた。彼らは既に行ったことのある場所――すなわち陽だまりの村の影へと、瞬時に転移したのだ。
村に到着したフェルイチが事情を説明し、リリィをフェルミの背に乗せる。そこから彼らは、俺の影を最終目的地として、影移動と疾走を繰り返してこちらに向かってくる。
本来、連続での影移動は子フェンリルたちのMPを激しく消耗するが、彼らの背に乗っているのはリリィだ。彼女の【聖なる源泉】で子フェンリルたちのMPをその都度回復させながら移動すれば、驚異的な速度でこのザイリアへと迫ることができる。
『マップ共有』を展開すると、陽だまりの村から俺の座標に向かって、子フェンリルとリリィの光点が、影から影へと跳びながら恐るべき速度で北上してくるのが確認できた。
これなら、到着までそれほど時間はかからないはずだ。その間、俺たちはこの宿屋でリリィの到着を待つ。
「あるじ! プリンも、村に置いてきたプリンたち(分裂体)を、ぜんぶ元に戻すのぉ~!」
プリンが真剣な表情で言った。
「村の防衛が手薄になるが、大丈夫か?」
「大丈夫なのぉ~♪ ウェスリーのゴーレムたちがいるもん! それに、あいつを倒すためには、プリンも全力(100%)にならないとダメなのぉ~!」
「わかった。頼む、プリン」
プリンが目を閉じ、静かに精神を集中させる。
次の瞬間、俺の『気配察知』が、遥か南の陽だまりの村に置いてきた三体のプリンの分裂体が、光の粒子となって消滅したのを感じ取った。
それと同時に、目の前のプリンの身体に、失われていた魔力と生命力の奔流が一気に収束していく。彼女の青い髪が微かに発光し、その身体から放たれるオーラが、これまでとは比較にならないほど濃密なものへと膨れ上がった。
これで、プリンのステータスは完全に統合され、最大出力に戻った。
(よし……これで準備は整いつつある。あとは、リリィが到着するのを待って、地下へ突入するだけだ)
俺は少しだけ安堵し、ベッドに身を横たえようとした。
しかし、その時。
胸元の【精霊のお護り】が、突如として不気味に、冷たく脈打った。
それと同時に、俺の『気配察知』が、極めて異質な「ノイズ」を拾い上げる。
ザザザ……ザザ……。
それは、まるで壊れたラジオのノイズのような、あるいは無数の虫が這い回るような、不快極まりない羽音に似た気配だった。
俺は跳び起きた。
「主よ……気づいたか?」
ヴァイスが既に剣を構え、窓の外を睨みつけていた。彼女の表情は、これまでに見たことがないほど険しい。
「ああ。おかしい……。街の気配が、一瞬にして消えた。いや、消えたんじゃない。……すべてが『一つ』に統合されたような、そんな不気味な気配だ」
俺は『オートマップ』を展開した。
そして、その画面に映し出された光景に、全身の血が凍りつくのを感じた。
つい先ほどまで、宿屋の周辺を整然と行き交っていた、青い光点を灯した無数の「住民」たち。
彼らの光点が、一瞬にしてすべて「赤黒い敵対色」へと変貌していた。
しかも、それだけではない。
街中の住民、数千、数万に及ぶ赤黒い光点が、まるで一つの意志に操られる群隊のように、蜘蛛の子を散らすような動きで、俺たちのいるこの宿屋に向かって一直線に収束してきているのだ。
「ネズミめ……。この地に人間が潜りこめるとはな。我が聖域を汚した罪、その命で償うがいい」
宿屋のスピーカーから、あるいは空間そのものを振動させるように、あの地下で聞いた「堕ちた管理代行者」の冷酷な嘲笑が響き渡った。
「私のハッキング装置の近くまで、気配も残さず潜り込んできた不審者がいるとシステムが警告してな。まさか、あのヴェントのアジトを壊滅させた『ムクノキ』が、自ら私の元へと歩み寄ってくるとは……! 面倒な捜索の手間が省けたというものだ」
男の声が、狂気的に響く。
「ザイリアの住人どもは、すべて私の忠実な端末(お人形)だ。街全体が、お前たちを監視し、排除するための巨大なトラップなのだよ! さあ、我が軍勢に囲まれ、その無力さを知りながら死んでいくがいい!」
ドォォォォン!!!
宿屋の正面玄関が、凄まじい衝撃と共に粉砕された。
吹き飛ぶ氷の破片。
煙の向こうから現れたのは、街で見かけたはずの、機能的な服を着た住人たちだった。
だが、彼らの目は一様に、機械のように冷酷な赤色に発光し、その手には氷で作られた魔導銃や、鋭い大剣が握られている。
「グギャギャギャギャ!」
人間の形をしていながら、口からは魔物のような悍ましい咆哮が漏れ聞こえる。
彼らはもはや、人間ではない。黒幕のハッキングシステムによって脳を、肉体を、魂までも完全に支配された、哀れな改造人間の兵隊たちだ。
「おいおい……街の全員が敵って、どんなディストピアだよ……!」
俺はアイテム袋から剣を抜き、構えた。
リリィはまだ、ザイリアに向かって走っている途中だ。到着するまで、少なくともあと半日はかかる。
「主よ、贅沢な前哨戦じゃのぅ。リリィが来る前に、この街のクズどもをすべて片付けてしまうのも悪くないがのぅ!」
ヴァイスが獰猛な笑みを浮かべ、その身体から嵐のような風の魔力を放つ。
「あるじぃ! プリンがみんなを足止めするのぉ~♪」
プリンは叫ぶ。
「よし。子フェンリルたち、みんな出てこい!」
俺の影から、フェルイチをはじめとする子フェンリルたちが、一斉に牙を剥いて飛び出してきた。
「きゅっきゅー!」
ハムも俺の肩の上で、自らの体を大きく見せるように威嚇する。
「リリィが到着するまで、この宿屋を死守する! 敵は街全体だ、手加減なしで行くぞ!」
俺の叫びと共に、宿屋のロビーを舞台に、世界の運命をかけた最終決戦が、唐突に、そして最悪の包囲網の中で幕を開けた。
ここからちょっと1話ズレてたので、最終話まで再投稿しなおしてあります。




