第69話 堕ちた管理代行者
キィィィィン、という耳鳴りのような余韻が脳裏から消え去った後も、俺の体の中にはいまだかつてないほど濃密な魔力が脈打っていた。
合体し、究極の進化を遂げた【精霊のお護り】。
胸元で七色の淡い光を放つその結晶は、俺にベース能力値すべて+20という途方もない永久補正をもたらしてくれた。体幹がこれまでになく引き締まり、視界は驚くほどクリアだ。肺に吸い込む空気の一粒一粒、壁の氷が微かにきしむ音までが、まるでスローモーションのように鮮明に感じ取れる。
「あるじぃ、なんだか身体がぽかぽかするよぉ~♪」
俺にまとわりつき、暖かな水を体内で循環させてくれている『断熱・発熱モード』のプリンが、心地よさそうに俺の胸元で形を揺らした。お護りから放たれる温かな七色の魔力が、プリンのヒーター能力とも共鳴していたらしい。
「ああ、俺もだ。プリンの発熱に加えて、このお護りの力のおかげで、芯から凍えるような寒さがすっかり和らいでる。……なぁプリン、ちょっと実験させてくれ。一旦、その発熱モードを解除してみてくれないか?」
「は~い♪ わかったのぉ~」
プリンが素直に俺の身体から離れ、ポンッと音を立てていつもの可愛らしい青い人型の少女へと変化した。
その瞬間、俺は身構えた。地上の猛吹雪すら凌駕する、この地下遺跡の凍てつく暗黒。プリンの熱源がなくなれば、一瞬で凍傷に陥るのではないかと懸念したのだ。
だが、違った。
プリンが離れた後も、俺の皮膚は一枚の「目に見えない温かなヴェール」に包まれているかのように、少しも冷えることがなかった。それどころか、まるで春の柔らかな陽だまりの中にいるかのような、極めて快適な温度が保たれている。
(なるほど……そういうことか。鑑定!)
俺は自分の装備欄にある【精霊のお護り】の効果を詳しく読み取った。
風、砂(土)、炎、氷(水)。
四大属性のお護りが一つに融合したことで、相反するはずの「炎」と「氷」の魔力が完全に調和し、相殺し合っていたのだ。熱すぎることもなく、冷たすぎることもない。着用者の周囲数センチの空間を、生命活動に最適な「常温」へと自動的に調整・維持する『極限環境遮断(パッシブ結界)』が、お護りの基本能力として常時発動している。
「よっしゃ! これならプリンにずっとヒーター役を押し付けて、魔力を消費させずに済むな。お前も万全の状態で、最初から全力で戦えるぞ」
「やったぁ~! あるじを温めるのも好きだけど、これでプリンもいーっぱい動けるのぉ~♪」
「きゅっきゅ!」
ハムも胸元から顔を出し、プリンは完全自由化を喜ぶように小さなジャンプを何回もして喜んでいた。
「よし、このまま一気に進むぞ」
俺は肩に乗るハムの頭を軽く撫で、さらに深く、暗い地下通路へと歩みを進めた。
地底都市ドワーフの街へと続いたあの薄暗い洞窟とは全く違う。
下へと降りるにつれ、通路の壁は自然の岩肌から、精密に切り出された氷と水晶のブロックへと変化していった。その表面には、整然とした青白い魔導回路が網の目のように走り、不気味に点滅している。
「主よ、気を引き締めるのじゃぞ。ここから先は、ただの魔物のテリトリーではないぞ。……世界そのものの仕組みが、歪んだ形で集中しているように感じるからのぅ」
俺のすぐ後ろをついてくるヴァイスが、その白い獣耳を警戒に震わせながら言った。彼女の言う通りだ。壁を走る魔導回路は、ところどころで黒く濁った魔力に侵食され、まるで血管が壊死していくかのようにドロドロと脈打っている。あの駆除した「処刑人」の、ねっとりとした不快な魔力と同質のものだ。
「鷹の目、気配察知、隠密、気配遮断、風遮断」
俺は小声で呪文を唱えるように、所持している隠密・索敵系スキルをフル発動させた。
能力値が+20された今、スキルの発動精度も格段に向上している。俺自身の存在は、完全に空気の揺らぎさえ伴わない「完全な無」へと昇華された。プリンも、ヴァイスも、俺のスキル範囲内に収まることで、その気配を完全に隠している。
どのくらい進んだだろうか。
通路の天井がにわかに高くなり、目の前に巨大な、それこそサッカースタジアムがいくつも丸ごと入るのではないかと思えるほどの、途方もない大空洞が広がった。
「これは……何なんだ……」
俺は物陰の氷柱に身を潜めながら、目の前の光景に息をのんだ。
空洞の中央には、天を衝くほどの巨大な円柱状の魔導装置がそびえ立っていた。それ自体がザイリアの街の心臓であるかのように、ドクン、ドクン、と重苦しい金属音を立てて脈打っている。
しかし、その美しかったであろう半透明の超巨大水晶は、上部から伸びる無数の黒いドロドロとした触手のような魔力の束によってがんじがらめに縛り付けられ、絶えず黒いノイズを火花のように散らしていた。
装置を侵食するハッキング。まさに神がメールで言っていた通りの異常事態が、目の前で行われている。
「おい、見ろ。装置の真ん中に誰かおるぞ」
ヴァイスが鋭い視線で指し示した。
巨大な装置のコントロールパネルと思われる、宙に浮いた半透明のキーボードのようなものを叩いている人影があった。
俺は『鷹の目』の倍率を上げ、その姿を凝視する。
そこいたのは、純白の豪奢な神官服のようなローブを身に纏った、一見すると若く美しい男だった。
しかし、その背中から生えているのは、純白であるはずの天使の羽ではなく、半分がどす黒い闇に染まり、羽毛がボロボロと抜け落ちた不気味な黒翼だった。
「天使……? いや、神の部下だった奴か。すると堕天使? だがシルビアとは全く違う、禍々しい気配だな」
男の頭上を『鑑定』してみるが、名前の部分は激しくバグったノイズのようになっており、まともに読み取れない。ただ【職業:堕ちた管理代行者】という文字だけが、赤黒く明滅していた。
男は狂気的な笑みを浮かべながら、ぶつぶつと独り言を呟き、何やら複雑な数式のような魔力言語を空中に打ち込み続けている。
「ふふふ……ハハハ! もうすぐだ。あとわずかで、この世界を管理するメインシステムの中枢は、私の支配下に入る。あの忌々しい創造神の女め、私をこの世界の単なる『部品(代行者)』として扱いおって……。私が真の神となり、このゴミ溜めのような世界を私好みに再構築してやるのだ」
男の声は、静かな大空洞に不気味に響き渡った。
俺は気配を完全に絶ち、息を殺してその独り言に耳を傾ける。
「システム権限のハッキング率は現在、八十五パーセント。……だが、コアとなる魔力の供給スピードが足りん。やはり、あの『ドナー』の少女が必要だ。聖なる源泉の力があれば、システムの再構築にかかる膨大な負荷をすべて彼女の魔力(電池)で肩代わりさせ、瞬時に完了できるというのに……」
男は苛立たしげに、宙に浮く魔力画面を乱暴に払いのけた。
「一体どこへ消えたのだ? ヴェントの暗殺者ギルドの支部を壊滅させた何者かが、あの少女を連れ去ったことは分かっている。だが、どれだけ捜索させても居場所が掴めん。この世界に、私の索敵から逃れられる場所など存在するはずがないというのに……! もしや、あの出来損ないのフェンリルの縄張りである大森林の奥にでも隠れているのか?」
俺は隣のヴァイスと視線を合わせた。
ヴァイスは声を出さずに、静かにそして怒りに満ちていた。やはり、奴の狙いはリリィだったのだ。
リリィの持つ【聖なる源泉(MPドナー)】。他者に無限に近いMPを分け与えるその希少なスキルを、世界の再構築を行うための「永久電池」として消費するつもりなのだ。そんなことをされれば、リリィの細い身体は魔力を絞り尽くされ、文字通り消滅してしまうだろう。
(ふざけるな……。リリィは、陽だまりの村の子供たちは、お前のようなクズの道具じゃない)
俺の胸の中に、ヴェントの暗殺者アジトで感じたあの冷徹な怒りが、静かに、しかし確実に点火する。
だが、俺はすぐに飛び出したい衝動をグッと抑えた。
『気配察知』と『鷹の目』が、この大空洞の周囲に存在する、さらなる絶望的な「異常」を捉えたからだ。
「主よ……これは、さすがに骨が折れるのぅ」
普段はどんな強敵を前にしても不敵に笑うヴァイスの顔から、余裕が消えていた。
大空洞をぐるりと取り囲むように配置された、氷でできた無数のカプセル。
その内部には、かつて人間、あるいは獣人だったであろう者たちが、不気味な青い液体に浸された状態で眠っていた。
いや、眠っているのではない。彼らの身体の半分以上は、魔物の肉体や金属製のパーツ、そして不気味に明滅する魔導回路へと改造され、文字通りの『生ける人形』と化していた。
その数、およそ数百……いや、数千。
地上の魔導都市ザイリアに暮らす住人たちの気配が、なぜあそこまで希薄で無機質だったのか。その理由が、今すべて繋がった。
「街の住民全員が……いや、この都市そのものが、あいつの兵隊であり、実験材料だったのか? だがこれはいくら俺達でも……」
カプセルに眠る改造人間たちの気配は、かつて俺が瞬殺した「処刑人」よりはスペックが落ちるものの、それでも平均レベルは20を超えている。さらに、その中には明らかに幹部クラスと思われる、巨大な大剣や魔導銃を装備した数体の強力な改造人間の姿もあった。
「これだけの数を、この狭い空間で一時に相手にするのは、いくら俺たちが強くても厳しい。ヴァイスやプリン、影の子フェンリルたち全員で暴れ回れば勝てないことはないだろうが……もしあいつが、その混乱に乗じてシステムの暴走を直接引き起こしたら、この都市ごと吹き飛びかねないな」
「うむ。それに、あの堕天使のような男、自身もかなりの魔力を持っておる。主の『能力3倍強化』をもってしても、あの改造人間の大軍に囲まれながら一対一で仕留めるのは、かなりのリスクを伴うじゃろうな」
俺は冷静に現状を分析した。
まだ、奴は俺たちの存在に気づいていない。俺の極限まで高められた隠密スキルは、ハッキングに没頭している男の索敵を完全に上回っている。
しかし、これ以上の潜入は危険だ。これだけの改造人間の大軍を前に、無計画に突っ込むのは『暗殺者』の戦い方ではない。
「……一旦、退くぞ。ヴァイス、プリン」
「わかったなのぉ~。戻るのぉ~♪」
俺たちは音もなく大空洞を後にし、ザイリアの街の宿屋へと戻ることにした。
戦うための準備、そして、奴の喉元に確実に刃を突き立てるための、完璧な「状況」を作り出すために。
「待っていろよ、管理代行者。お前のその傲慢なシステム、俺たちの手で完全にシャットダウンしてやる」
俺はアイテム袋の中のプレートをそっと握りしめ、冷たい地下通路を静かに引き返していったのであった。




