第八話 沈黙の条件
最初に聞こえたのは、河の音だった。
つい先ほどまで剣戟と魔法が轟いていた河岸を、何事もなかったかのように濁った水が流れている。レイチェルは泥の上へ膝をつき、クラリスの首筋へ指を当てていた。脈はある。呼吸も途切れていない。
「クラリス。聞こえる?」
青い髪が、濡れた土の上へ広がっている。レイチェルは頬へ手を当てた。温かい。そのことを確かめて、ようやく息を吐いた。
「呼吸は安定している」
頭上から声がした。レイチェルは顔を上げる。リシャールはすでに軍刀を鞘へ戻していた。
「頭は地面へ打たせていない。だが、船へ戻ったら手当てを受けさせろ」
「あなたの言葉を信用しろというの?」
「信用する必要はない。自分で確かめればいい」
レイチェルはクラリスの後頭部へ傷がないことを確かめ、脇腹へそっと触れた。意識がないまま、わずかに顔が歪む。帝国の護衛が一人、布と小さな薬瓶を持って近づこうとした。
「止まれ」
リシャールの声で、護衛の足が止まる。
「そこへ置け。王女殿下と近衛騎士へ、誰も触れるな」
護衛は布と薬瓶を地面へ置き、数歩下がった。レイチェルは薬瓶を見たが、手を伸ばさない。
「使わないのか」
「中身が分からないものを、クラリスへ使うわけにはいかないでしょう」
「正しい判断だ」
「褒められても嬉しくないわ」
「褒めてはいない」
レイチェルは睨み返した。
少し離れた場所では、帝国の作業員たちが再び動き始めている。河へ渡されていた銅線が引き上げられ、六本の鋼杭は一本ずつ泥から抜かれていく。中央の円筒も分解され、厚い布に包まれていた。彼らの手に迷いはなかった。突然の撤収ではなく、最初から手順が決められていたらしい。
リュディガーが記録器を抱えてやってくる。
「殿下。測定値は九割三分までですが、必要な傾向は確認できました。第三杭と第五杭の偏差を補正すれば――」
「その報告は帝国へ戻ってからにしろ」
「撤収前に中央円筒の内部値だけでも再確認した方が」
「撤収を優先しろ」
「既に終わっています」
リシャールが作業員たちを見る。最後の銅線が箱へ収められ、杭の跡には土が戻されていた。作業員たちは箱を抱え、少し上流に繋いだ運搬用の舟へ向かっている。
「では、舟へ戻れ」
「記録器はどうしますか」
「君が持て」
「承知しました」
リュディガーは記録器を抱え直した。
「待ちなさい」
レイチェルが言う。
「それを置いていきなさい」
「これは帝国技術局の所有物です」
「器具ではないわ。記録よ」
「記録も帝国技術局の所有物です」
「他国の国境で無断で取った記録でしょう!」
「観測地点がどちらの領土に属するかについて、見解は一致していません」
「あなたには聞いてない!」
リュディガーはリシャールを見る。
「殿下が答えても、内容は同じですが」
「リュディガー」
「……舟へ戻ります」
技術局長は記録器を抱えたまま、作業員たちの方へ歩いていった。九割三分。すべてを測り終えたわけではない。それでも必要な傾向は確認できたと、リュディガーは言った。
「もう、欲しいものは手に入れたのね」
リシャールは答えなかった。
◇
しばらくして、クラリスの指が動いた。
「クラリス?」
閉じていた瞼がゆっくりと開く。焦点の合わない瞳が空を見たあと、すぐにレイチェルを探した。
「……レイチェル、様」
「ここにいるわ」
クラリスは起き上がろうとした。傍らの剣へ手が伸びかける。
「動かないで」
レイチェルが肩を支えた。
「戦闘は終わったわ」
クラリスの手が止まる。その指は一度剣の柄へ触れかけたあと、ゆっくりと膝へ戻った。
「殿下は……」
「無傷よ」
クラリスの目がリシャールへ向く。次に周囲の帝国兵、撤収されていく器材、レイチェルとの距離を確かめる。
「申し訳、ございません」
「謝らないで」
「お守りできませんでした」
「私は無傷よ」
「それは、あの方が傷つけなかっただけです」
レイチェルは何も言えなかった。リシャールは、確かにその気になれば自分を倒せた。魔法を封じ、低い土壁で足を止めただけなのは、できなかったからではない。
「話せるなら、話を終わらせたい」
リシャールが言った。クラリスは身体を起こそうとし、脇腹の痛みに顔を歪める。レイチェルが背中を支えた。
「そのままで構わない」
「私は構います」
クラリスは片膝を立て、どうにか上体を起こした。剣には手を伸ばさなかった。桟橋への道を塞いでいた護衛も、器材を運ぶ作業員たちの方へ戻っている。
「帝国側は、すべての設備を撤去する」
リシャールが言う。
「人員も器材も舟で主流を渡り、西岸へ戻す。王国側の施設や土地に損害が確認された場合は、正式な外交経路を通して補償する」
「研究記録は持ち帰るのね」
「そうだ」
「なら、王宮へ報告するわ」
「それを止める権利は私にはない」
レイチェルは眉を寄せた。
「止めないの?」
「報告すること自体を、力ずくで止めるつもりはない」
「さっきは帰るのを止めたでしょう」
「撤収を完了させるためだ」
「同じよ」
「同じではない」
リシャールは舟へ運ばれていく箱を見た。
「報告すれば、正式な調査が始まる。国境線が現在の主流か、条約締結時の旧河道か。設備のどの部分が、どちらの領域へ置かれていたか。私が撤収完了まであなた方を留めたことも、近衛騎士がそれを拒んで実力行使したことも、すべてが両国の協議対象になる」
「脅しているの?」
「起きることを話している」
クラリスの表情が硬くなる。
「こちらは、王国領内で行われていた無許可の観測を確認しました」
「帝国側の見解では、観測地点は条約上の帝国領内だ」
「銅線の一本は、現在の東岸へ刺さっていました」
「それも含めて争うことになる」
レイチェルは黙った。王宮へ戻れば、母は必ず動く。国境侵犯を放置することはない。両国の官吏が古い条約と地図を調べ、測量隊が送り込まれ、帝国は研究内容を秘匿し、王国は開示を求める。そのあいだにも、記録器は帝国へ運ばれていく。
「何が望みなの」
レイチェルが尋ねた。
「今回の観測と、ここで起きた戦闘について口外しないこと」
「私たちに、黙っていろと?」
「その代わり、帝国はこの国境河に同種の設備を再設置せず、同じ作業を再開しない」
「それだけ?」
「設備と人員は完全に撤収する。あなた方の船を追跡せず、船員の身元も調べない」
レイチェルの目が鋭くなる。
「船のことを知っているのね」
「この近くへ王太女殿下が徒歩で来たとは考えていない」
「ローデリックたちは関係ないわ」
「承知している。だから調べないと約束する」
「私たちが断ったら?」
「今日の設備は撤収する。だが、別の場所で同じ観測を行わないという約束はできない」
レイチェルは河岸を見た。器材は解体され、桟橋への道も空いている。今ならクラリスを支えて船へ戻れる。
戻って報告すれば、あとの判断は母に委ねられる。だが、協議が終わるまでに、別の場所で観測が始まるかもしれない。ここで再開しないと約束させる機会を、手放してよいのだろうか。
「記録を破棄する条件は?」
「受け入れられない」
「リュディガーに内容を忘れさせることは?」
「方法があるなら、私も知りたい」
舟のそばで、リュディガーが顔を上げた。
「聞こえています」
「聞かなくていいところだけ聞くのね!」
「大きな声でしたので」
「リュディガー。下がっていろ」
「既に舟のそばです」
「さらに下がれ」
「はい」
リュディガーは記録器を抱えたまま、数歩後ろへ下がった。レイチェルは額を押さえ、それからクラリスへ向き直った。
「クラリス。どう思う?」
「報告すべきだと考えます。近衛として、その意見は変わりません」
「そうよね」
「撤去はすでに決まっています。相手が差し出しているのは、再開しないという約束です。そのために、陛下へ判断を仰ぐ機会まで手放すことになります」
レイチェルは河岸を見た。杭の穴は、もう埋められている。
「それでも、ここで止める条件を取りたい」
「後から正しかったと分かる保証はありません」
「ええ」
クラリスはすぐには頷かなかった。その沈黙を待つ間に、レイチェルは母の顔を思い浮かべた。帰ったら、何があったか聞かれる。その時に黙ることまで、ここで選ぶのだ。
母なら、記録の開示まで求めるだろう。自分には、それを引き渡させることができなかった。けれど、この河で同じ観測を繰り返さないという約束なら、いま取れる。
そのために、母へ事情を話す機会を手放す。クラリスの忠告は、そういう意味だった。レイチェルは舟へ運ばれる箱を見つめ、もう一度だけ息を吸った。
レイチェルは立ち上がった。
「条件を確認するわ」
リシャールが向き直る。
「帝国側は、ここにいる人員と設備を完全に撤収させる。国境河のどこにも同種の観測設備を再設置せず、同じ作業を再開しない」
「約束する」
「私たちが乗ってきた船を追わない。船員の身元を調べない。この件へ一切関与させない」
「約束する」
「私とクラリスが、船へ戻ることを妨げない」
「約束する」
「もう一つ。この約束は、国境線について帝国側の見解を認めるものでも、今回の研究が正当だったと認めるものでもないわ」
「承知している」
レイチェルはクラリスを見る。クラリスは反対だと言った。その意見は変わっていない。それでも、決めるのは自分だった。
「なら、私も約束する。ここで見た観測設備と研究、その記録について、誰にも話さない」
「戦闘についてもだ」
レイチェルの表情が変わる。
「クラリスが負傷したことは隠さない」
「構わない」
「戦闘の相手と理由は話さない。それ以上は譲らないわ」
「十分だ」
「王太女の名にかけて約束する」
口にした瞬間、胸の奥に重さが生まれた。誰かに命じられたのではない。自分で選び、自分の名を置いた約束だった。クラリスも頭を下げる。
「私も、レイチェル様と同じ約束をいたします」
リシャールは二人を見た。
「帝国第二皇子、リシャール・アガレストの名において、提示した条件を履行する」
これで交渉は終わった。そう思ったとき、舟のそばから再び声がした。
「殿下」
「何だ」
「沈黙の条件へ、時計の構造確認を追加する余地はありますか」
「ないわよ!」
レイチェルの返事は、リシャールより早かった。
「外装だけでも構いません」
「構うわ!」
「竜頭がない以上、通常のぜんまい式では――」
「リュディガー」
リシャールが名を呼ぶ。
「交渉は終わった。移動しろ」
「……承知しました」
リュディガーは残念そうに記録器へ視線を落とした。あれだけの戦闘を目の前で見たあとでも、頭の中にあるのは時計らしい。
「絶対に見せないから」
レイチェルは袖口を引き下ろした。
「所有者の許可なく確認するつもりはありません」
「さっき触ろうとしたでしょう!」
「触れてはいません」
「リュディガー」
「移動します」
今度こそ、技術局長は作業員たちとともに葦の向こうへ消えた。
◇
クラリスが立ち上がった。足元が揺れ、レイチェルが慌てて腕を回す。
「私につかまって。そこは強がらなくていいわ」
「歩けます」
「いま倒れかけたでしょう」
リシャールが帝国兵の持っていた折り畳み式の担架へ視線を向けた。
「必要なら貸そう」
「必要ありません」
クラリスが即答した。
「そう言うと思った」
「では、最初からお尋ねにならないでください」
リシャールはわずかに目を細めた。
「船へ戻るまで、帝国側から接触する者はいない」
「あなたも?」
「約束した」
リシャールは舟の方へ歩き出す。
「待ちなさい」
レイチェルの声に、彼は足を止めた。
「あなた、私たちが誰か知らなかったら、どうしていたの?」
「同じだ」
「本当に?」
「必要な時間だけ留め、撤収後に帰した」
「クラリスを倒して?」
「道を塞がなければ、私も抜きませんでした」
クラリスが言った。リシャールは彼女を見たが、反論はしなかった。
「この河でお会いすることは、もうないでしょう」
そう言い残し、舟へ向かった。やがて葦の切れ間から、器材を積んだ舟が西岸へ渡っていくのが見えた。レイチェルはしばらく、その場所を睨んでいた。
「次に会ったら、絶対に一言言ってやるわ」
「この河では、とおっしゃいました」
「だから、あったらよ!」
「何をおっしゃるのですか」
「まだ決めてないわ」
「決めてからお呼び止めください」
クラリスの足が少しもつれた。レイチェルはすぐに支え直す。
「ほら。もう話さないで戻るわよ」
「最初に話し始めたのはレイチェル様です」
「今は私が終わらせたの」
二人は互いに身体を支えながら、船のある桟橋へ戻り始めた。
◇
葦原を出たところで、ローデリックと若い船員が走ってくるのが見えた。その後ろには、遅れて到着した港務官もいる。ローデリックは二人の姿を見ると、一瞬だけ足を止めた。泥だらけのレイチェル。肩を借りなければ歩けないクラリス。服の裂け目と、脇腹に広がり始めた青い痣。
何も聞かず、クラリスの反対側へ肩を入れる。
「船へ戻るぞ」
「歩けます」
「歩ける奴は、人の肩を二本も使わん」
「一本は不要です」
「では王女殿下を離せ。そっちの方が先に転びそうだ」
「転ばないわよ!」
声を上げたレイチェルの足が泥に滑った。ローデリックが空いた手で襟をつかむ。
「……いまのは地面が悪かったの」
「そうか」
「クラリスと同じことを言った顔をしないで」
三人は港務官に見送られ、桟橋へ戻った。
船員たちは荷役を止め、渡り板の両脇を空ける。クラリスは船尾の小部屋へ運ばれた。服の上から脇腹を冷やし、顎の腫れを確かめる。ローデリックは船に積んでいた傷薬を出したが、無理に飲ませることはしなかった。
「吐き気は」
「ありません」
「目は見えるか」
「問題ございません」
「指は何本だ」
「三本です」
「なら、すぐ死ぬことはない」
「診断が大雑把すぎます」
「船乗りの診断に何を期待してる」
クラリスは横になったまま、わずかに息を吐いた。ようやく身体から力が抜けたようだった。ローデリックは毛布をかけ、若い船員たちを部屋から出した。部屋に残ったのは、レイチェルとクラリス、ローデリックだけだった。
「何があった」
ローデリックが尋ねる。レイチェルは答えようとして、言葉を止めた。
「クラリスが負傷したわ」
「見れば分かる」
レイチェルは唇を結んだ。ローデリックは続きを待っている。
「詳しい事情は、言えないの」
ローデリックはレイチェルを見た。
「誰かに黙れと脅されたか」
「違うわ」
「なら、自分で約束したか」
レイチェルは小さく頷いた。
「なら聞かん」
「……それだけ?」
「よくはない」
ローデリックは即答した。
「俺の船から王女と近衛が出ていって、片方がこの有様で戻った。よいわけがあるか」
レイチェルは口を閉じる。
「若いのが見てた。お前たちは葦の手前で引き返してたな。向こうから呼び止められた」
「ええ」
「なら、俺が言ったことは守った」
「でも、そのあと――」
「そのあとの話は、言えないんだろう」
レイチェルは頷いた。ローデリックは腕を組む。
「代わりに、俺が知る必要のあることだけ答えろ。追手はない。船員は関係ない。港を出ても問題ない。それで間違いないか」
「間違いないわ」
「クラリス」
横になったまま、クラリスが答える。
「私も、その三点については間違いないと判断します」
「なら出る」
ローデリックは扉へ向かった。
「王宮への報告は?」
足が止まる。
「送る」
「嘘は書けないわ」
「なら、書ける事実だけ書け」
◇
港務官へ渡した報告は、短いものになった。
クラリス・ウェルフォード卿、国境中継港にて負傷。命に別状なし。
レイチェル王太女殿下に負傷なし。
両名ともローデリック・ヴェイル船へ帰着済み。
本船は予定を切り上げ、ミスティクスへの帰路に就く。
負傷の原因は書かなかった。誰と争ったのかも書かなかった。書かれていることに、嘘は一つもない。
それでもレイチェルは、自分の手から離れていく紙片を見ながら、外水門の沖で書いた手紙を思い出していた。あの時は、自分が勝手に船へ入り込んだことも、クラリスが連れ戻すために入ったことも、最初から最後まで書いた。
今回は、真実の一部を自分の意思で書かなかった。
「これでいいのかしら」
隣に立つローデリックは、港務官の小舟が離れていくのを見ていた。
「俺に聞くな」
「少しくらい答えてくれてもいいでしょう」
「お前が決めた約束だ」
「冷たいのね」
「自分で決めたものを、あとから他人に正しいと言わせるな」
レイチェルは黙った。
「ただし」
ローデリックが続ける。
「間違ってたと分かったら、意地を張らずに直せ。約束を守ることと、間違いを守ることは同じじゃない」
船尾で係留索が外される。帆が上がり、小商船はゆっくりと桟橋から離れ始めた。
「約束って、難しいのね」
「いまさら気づいたか」
「荷物を運ぶより?」
「荷物は勝手に意味を変えん」
ローデリックは河口へ向けて舵を切った。
「人間の約束は、結んだあとから重くなる」
レイチェルは遠ざかる葦原を見た。帝国の設備は、もうどこにも見えない。杭も、導線も、円筒もない。まるで最初から何もなかったようだった。それでも、クラリスの痣と、自分で結んだ約束は残っている。西岸へ去った男の声が蘇る。
この河でお会いすることは、もうないでしょう。
レイチェルは袖の上から左腕の時計へ触れた。
「次があったら、絶対に一言言ってやるわ」
何を言うのかは、まだ決めていなかった。
時計は変わらず動いていた。




