第九話 公式には初対面
エレノアが最初に見たのは、娘の顔ではなかった。
クラリスの顎に残った薄い痣と、旅装の下で庇われている右の脇腹だった。
小商船がミスティクスへ戻った日の夕刻。レイチェルとクラリスは、旅装を解くより先に女王の執務室へ通されていた。
帰還の報せは先に届いている。レイチェルに負傷なし。クラリスは負傷しているが、命に別状なし。
負傷について書かれていたのは、それだけだった。
「座りなさい」
エレノアが言った。クラリスは立ったまま頭を下げる。
「ご報告を終えるまでは、このままで」
「命令です」
「……失礼いたします」
クラリスは椅子へ腰を下ろした。その瞬間、ほんのわずかに呼吸が止まる。エレノアは見逃さなかった。
「医師には診せましたか」
「港で診察を受けております。骨に異常はなく、顎と脇腹の打撲のみとのことです」
「のみ、ではありません」
エレノアの声は穏やかだった。穏やかだからこそ、レイチェルは背筋を伸ばす。
「何がありましたか」
答えなければならない。本来なら、最初から最後まで話すべきだった。国境の河で帝国技術局の設備を見つけたこと。リュディガーに会ったこと。第二皇子リシャールが現れ、クラリスが剣を抜き、そして負けたこと。けれど、言葉は喉の奥で止まった。
「申し訳ありません」
レイチェルは膝の上で両手を握った。
「お話しできません」
室内が静かになった。窓の外を流れる水の音だけが聞こえる。
「理由を尋ねても?」
「口外しないと約束しました」
「誰にですか」
「それも、お話しできません」
エレノアはしばらく娘を見た。
「脅されましたか」
「いいえ」
「命を盾に取られたのですか」
「違います」
「では、自分で約束したのですね」
「はい」
視線がクラリスへ移る。
「あなたも?」
「はい、陛下」
クラリスは一度息を整えた。
「ただし、今回の警護については私にも責任がございます。王太女殿下を危険へ近づけ、なおかつ――」
「あなたの責任については、傷が治ってから聞きます」
「ですが」
「痛みを我慢して責任を引き受ければ、それでよいとは考えていません」
クラリスが口を閉じた。
「治療を優先しなさい。話せることがあるなら、その後で聞きます」
「……承知いたしました」
エレノアはレイチェルへ向き直った。
「あなたが王太女の名で結んだ約束なら、その責任もあなたが負いなさい」
「はい」
「守りなさい。後になって、自分に不利な約束だったと分かっても」
国境河で交わした言葉が、胸の奥で重くなる。
「はい」
「ただし、約束したことを理由に、自分の判断まで正しかったことにしてはいけません」
レイチェルは顔を上げた。ローデリックにも、似たことを言われた。
「分かっています」
「本当に?」
「……これから分かります」
エレノアの眉がわずかに動いた。
「正直なのは結構です」
許されたわけではない。無断で船へ入り、王宮と国を騒がせた責任も消えていない。だが、エレノアはその場で処分を決めなかった。数日後にはアガレスト帝国の正式使節団を迎える。王太女にも外せない公務があり、クラリスには治療が必要だった。
「ヴェイル卿と船員たちには、王宮から正式に謝意を伝えます。彼らに責任がないことも確認しました」
レイチェルは小さく息を吐いた。
「ありがとうございます」
「あなたが礼を言うことではありません」
「では、私からも謝ってきます」
「すでに謝ったのでは?」
「一回では足りない気がします」
「その点については同意します」
◇
翌朝、ローデリックの小商船は再びアルヴェールへ向けて出航した。王宮から渡された謝礼の証書を見て、ローデリックは露骨に嫌そうな顔をしたが、船員へ支払われる分まで断ることはしなかった。
「次はちゃんと客として乗れよ」
岸壁に立つレイチェルへ、彼は言った。
「乗せてくれるの?」
「王宮の許可状と運賃を持ってきたら考える」
「絶対よ」
「考えると言った」
「乗せるとは言ってない、ってこと?」
「少しは言葉を聞けるようになったな」
帆が風を受け、小商船が岸から離れていく。
「今度こそ、積荷だけ運ばせろ!」
最後に飛んできた声へ、レイチェルは大きく手を振った。
◇
それから数日後。ミスティクス王宮の大謁見室には、絶えず水の音が響いていた。
白い列柱の間を細い水路が走り、壁面を流れ落ちた水が、床へ埋め込まれた青い硝子の下へ吸い込まれていく。高窓から差し込む光は、水面で砕けて天井へ揺れていた。
レイチェルはエレノアの右手側に設けられた席へ座り、小さく欠伸を噛み殺した。
「レイチェル様」
背後に控えるクラリスが、誰にも聞こえない声で注意する。
「してないわよ」
「まだ何も申し上げておりません」
「深く呼吸しただけ」
「口を大きく開けてですか」
「今日は空気を多めに吸いたい気分なの」
クラリスはそれ以上言わなかった。礼装の下には、まだ脇腹を固定する布が巻かれている。医師は、挨拶が済んだら座って休むことを条件に、本日の出仕を認めていた。レイチェルの席の後ろには、クラリスのための椅子も用意されている。
今日は、アガレスト帝国の正式使節団を迎える日だった。
帝国製蒸気船の入港条件。鉄道事業への出資。両国商人の保護。通貨と銀行間決済。重要なのは分かっている。分かってはいるが、まだ誰も来ていない広間で姿勢を正して待つ時間は、どうしても退屈だった。
今朝届いた使節団の最終名簿は、まだ確認していなかった。議題の資料を読み終えたところでクラリスの診察に付き添い、そのまま支度の時間になってしまったのだ。
レイチェルは頬杖をつきかけた。エレノアがこちらを見る。手が止まり、何事もなかったように膝へ戻った。
大扉の左右に立つ近衛兵が、槍の石突きを床へ打ちつける。
澄んだ音が広間へ響いた。扉が開く。
「アガレスト帝国皇帝陛下の名代、帝国第二皇子リシャール・アガレスト殿下。ならびに帝国使節団の皆様、ご入場」
レイチェルの表情が固まった。列柱の向こうから、黒を基調とした礼装の一団が歩いてくる。その先頭にいる男を見間違えるはずがなかった。
泥の河岸。倒れたクラリス。風、土、火をほとんど同時に操った魔法。
そして、舟で西岸へ去っていった背中。
この河でお会いすることは、もうないでしょう。
「あいつ……」
レイチェルの腰が、椅子から浮きかけた。クラリスが素早く袖を引く。
「レイチェル様」
「だって、あれ」
「承知しております。お座りください」
レイチェルは息をのみ、自分で椅子へ腰を戻した。エレノアが怪訝そうに娘を見る。
「レイチェル。どうしました?」
「あ……」
国境の河にいた男です。そう言えば、それだけでは終わらない。
「……少し、見覚えがあるような気がしただけです」
「そうですか」
エレノアはそれ以上追及しなかった。ただし、納得もしていない。リシャールは玉座の前まで進み、帝国式の礼を取った。
「アガレスト帝国皇帝陛下の名代として参上いたしました。第二皇子リシャール・アガレストと申します。このたびの謁見をお許しいただき、心より感謝申し上げます」
「ようこそ、フォローレシアへ。第二皇子殿下をお迎えできましたことを嬉しく思います」
エレノアが穏やかに応じる。
「こちらは我が娘、王太女レイチェルです」
紹介を受け、リシャールがレイチェルへ向き直った。視線が正面からぶつかる。河岸では軍刀を手にしていた男が、いまは一分の隙もない礼装で頭を下げる。
「お初にお目にかかります、レイチェル王太女殿下」
レイチェルの眉が動いた。
「……お初?」
「はい」
「本当に?」
「少なくとも、公式の場でお目にかかるのは初めてかと」
公式の場では。わざわざ、そう付け加えた。
「そうね。公式には初めてね」
「お会いできましたことを光栄に思います」
「私もよ。まさか、こんなに早く会えるとは思わなかったわ」
「私も再会を――」
リシャールが一瞬だけ言葉を止めた。
「失礼。お目にかかれる日を楽しみにしておりました」
「いま、再会って言いかけたでしょう」
「お聞き違いでしょう」
「言ったわよ」
「レイチェル」
エレノアの声が飛ぶ。レイチェルは口を閉じた。
「申し訳ありません。娘は少々、率直すぎるところがありまして」
「率直さは美徳です」
リシャールは平然と答えた。
「外交の場では、扱いの難しい美徳でもありますが」
「やっぱり馬鹿にしてるでしょう!」
「レイチェル様」
クラリスの声と、エレノアの視線が同時に飛んできた。
「……失礼しました」
リシャールの視線がクラリスへ移る。河岸で剣を交えた時とは違い、今日は青と銀の近衛礼装を身につけている。
「そちらの方は?」
「娘の護衛を務める王家近衛騎士、クラリスです」
「クラリス卿」
リシャールが一礼する。
「王太女殿下への忠誠心が厚く、剣と水魔法の双方に秀でておられると伺っています」
レイチェルは横目で彼を睨んだ。伺ったのではない。実際に見たのだ。
「過分なお言葉にございます」
クラリスは表情を崩さなかった。
「第二皇子殿下の技量には、到底及びません」
エレノアの視線がクラリスへ向く。
「あなたがそこまで言うとは珍しいですね」
空気が止まった。レイチェルがクラリスを見る。クラリス自身も、言葉を一歩進めすぎたと気づいている。リシャールは、わずかな間も置かなかった。
「帝国とフォローレシアでは、近衛の戦闘思想も訓練体系も異なります。技量を単純に比較することはできません。クラリス卿のご謙遜でしょう」
「……そのようなことにしておいてください」
クラリスが頭を下げる。エレノアは追及しなかった。代わりに、何かを記憶へ留めるような目で三人を見た。
使節団の紹介が続いた。外務官、通商局の代表、軍務官。最後に、一人の長身の男が前へ出る。
「帝国技術局長、リュディガー・ハイゼンベルク」
片眼鏡。整えられていない灰褐色の髪。河岸で装置にかじりつき、レイチェルに投げ倒された技術者だった。リュディガーもレイチェルに気づいた。
「あ」
静かな広間へ、妙にはっきり響いた。リシャールが横目で見る。リュディガーは少し考えたあと、礼を取った。
「お初にお目にかかります」
「あなたもそれを言うのね……」
「公式には初対面ですので」
「そっちは最初から言い訳を用意してたでしょう」
「事実を申し上げただけです」
「レイチェル」
「……何でもありません、お母様」
リュディガーは列へ戻ろうとして、レイチェルの左袖を一度見た。レイチェルはすぐ腕を後ろへ隠す。
「駄目よ」
「何も申し上げておりません」
「顔に書いてあるわ」
「興味があるだけです」
「なお駄目よ」
リュディガーは袖口から視線を外し、自分の右肩を軽く回した。
「ところで、以前転倒した際の私の肩ですが、まだわずかな痛みが――」
「技術局長」
リシャールが遮った。
「はい」
「挨拶は済んだ。下がれ」
「しかし、人体を用いた投擲の再現性について――」
「下がれ」
「承知しました」
技術局長は、最後まで袖口を見ながら列へ戻った。
◇
正式な協議が始まった。
クラリスはレイチェルの背後に用意された椅子へ腰を下ろす。エレノアはそれを確かめてから、協議書を開いた。
最初の議題は、帝国製蒸気船の入港条件だった。帝国側は大型船へ適用される港湾使用料の軽減を求める。フォローレシア側の財務官は、港の拡張費と事故時の補償を理由に難色を示した。
「使用料そのものを恒久的に下げることはできません」
エレノアが言った。
「ただし、帝国船が王国の指定する安全検査を受け、フォローレシアの銀行へ保証金を預けるのであれば、入港回数に応じた還付は検討できます」
「その条件であれば、詳細を詰める価値があります」
リシャールが答えた。帝国側の通商官が数字を書き直し、王国側の財務官が別の欄へ印を付ける。
次は鉄道だった。帝国は新線建設へフォローレシア資本を求める一方、運営権への介入は認めない。
「運営権を渡せないことと、帳簿を見せられないことは同じではありません」
リシャールが言った。
「決算は定期開示する。双方の担当者を置く共同委員会も設置できます」
エレノアはすぐには頷かなかった。
「監査人が何を確認できるかも、明日の協議で定めましょう。委員会を置くことだけで合意したとはなさらないでください」
「承知しました」
レイチェルは、いつしか退屈を忘れていた。軍刀も土壁もない。だが、リシャールはここでも、守ると決めたものを動かさず、周囲へ条件を置いていた。河岸でクラリスの水魔法を崩した時と、どこか似ている。腹が立つのに、目を離せなかった。
レイチェルは母を見る。委員会を置く。言葉だけなら、帝国が大きく譲ったようにも聞こえる。だが、誰が、どこまで帳簿を見られるかが決まっていなければ、何も決まっていない。
河岸で、自分は「撤収する」という言葉を聞いた。国境河のどこでも同じ観測を再開しないことは、別の条件だった。
レイチェルは机の上の協議書へ目を戻した。次からは、言葉の後ろまで聞かなければならない。
協議は、周辺諸国を通る商人の保護へ移る。帝国側の外務官が、今回の使節団は数か月前から各国と日程を調整してきたと説明した。
レイチェルの中で、何かがつながった。国境の河で会ったのは、ほんの数日前だ。
これほどの人数を、数日で集められるはずがない。あの時点で、リシャールはミスティクスへ来ることが決まっていた。河岸で自分の名を知った時にも、その予定を知っていた。
この河でお会いすることは、もうないでしょう。
この河で。
「……場所の話だったの」
背後へ届くほどの声で言うと、クラリスがわずかに身を寄せた。
「今は、協議を」
「分かってる」
レイチェルは目の前の書類へ向き直った。
◇
協議が一段落すると、エレノアが立ち上がった。
「本日の正式協議はここまでといたしましょう。続きは明日、担当者を交えて詰めることとします。別室に席を用意しておりますので、まずは旅のお疲れを癒やしてください」
「ご配慮に感謝いたします」
リシャールが礼を取る。使節団が案内に従って動き始める。レイチェルは席を立ち、まっすぐリシャールの前へ向かった。
「第二皇子殿下」
「はい」
「水都の王宮をご案内します」
エレノアが娘を見る。
「あなたが?」
「王女としてのおもてなしです、お母様」
「そうですか」
まったく信じていない声だった。リシャールが先に応じる。
「ありがたいお申し出です。ぜひ、お願いしたく存じます」
「クラリスも同行しなさい」
「かしこまりました」
クラリスが答えた。三人は大謁見室を出た。
白い石造りの回廊の片側には、大きな窓が並んでいる。幾重にも連なる運河。水上を行き交う小舟。白い建物の間を流れ落ちる段丘の水。遠くには、王宮上空のアクア・コロナが陽光を受けて輝いていた。
「見事なものですね」
リシャールが窓の外を見る。
「そうでしょう」
レイチェルは一度だけ王女らしく微笑んだ。次の角を曲がり、謁見室のざわめきが遠ざかったところで足を止める。
「王宮で会うつもりだったのね」
前置きはなかった。リシャールも足を止める。
「その可能性は高いと考えていました」
「それなら、あの言い方は何だったのよ」
「この河でお会いすることはない、と申し上げました」
「場所を限定すればいいわけ?」
「実際、この王宮は国境河ではありません」
「屁理屈!」
「事実です」
レイチェルは一歩詰め寄った。
「あなたは知ってた。私だけ、もう会わないと思っていたのよ」
「次の謁見でお会いするとは、お伝えしていませんでしたね」
「そういうことを言ってるの!」
リシャールは否定しなかった。レイチェルは窓の外を見た。小舟が一艘、橋の下へ消える。
「それに、あの撤収。私たちが来る前から予定していたの?」
「観測を終え次第、撤収する予定でした」
「再開しないという約束とは別。それは分かってるわ」
「そのとおりです」
「でも、あなたがどこまで決めていたかは、聞かなかった」
「尋ねられませんでしたので」
「聞かなければ教えないのね」
「帝国の研究については、答えられる範囲で」
「……やっぱり、そう言うのね」
「虚偽を答えるよりは適切です」
「国境河で再開しないという約束は、今も変わらないのね」
「変わりません」
「船も、船員も調べない」
「そのとおりです」
クラリスが口を開いた。
「レイチェル様。殿下は、約束した条件を履行されています」
「クラリスはどっちの味方なのよ!」
「レイチェル様の味方だからこそ申し上げております」
クラリスがリシャールへ向き直った。
「ただし、それで私たちの帰路を塞いだことまで了承したわけではございません」
「承知している」
「それと、王宮で再会する見込みをお話しにならなかったことが、レイチェル様のお怒りの理由かと」
「その点も、承知しています」
「ほら!」
「レイチェル様」
「なんで私だけ怒られるのよ!」
「怒ってはおりません」
「その顔は怒ってるわ」
「脇腹が痛むだけです」
レイチェルの勢いが止まった。
「……なら、座る?」
「話を終わらせてください」
少し先の窓辺には腰掛けがあった。レイチェルはクラリスをそちらへ促し、座ったのを確かめてからリシャールを振り返る。
「……それでも、むかつく」
「感情については否定しません」
「その言い方が一番むかつくのよ!」
「レイチェル様。この方と争うおつもりですか」
「争うつもりはないわよ」
リシャールも静かに答える。
「私も、あなたと争うつもりはありません」
レイチェルは彼を睨んだ。
「負けるのが怖いの?」
「……その認識に至れること自体が、ある意味では才能ですね」
「馬鹿にしてるでしょう!」
「レイチェル様、お願いですから挑発なさらないでください」
「挑発してきたのは向こうよ!」
「私は評価しただけです」
「河でも同じことを言ってたわね!」
「剣士の方にも、似た説明をしました」
クラリスの眉が動く。
「皇子殿下。私まで巻き込まないでいただけますか」
「申し訳ない」
まったく申し訳なさそうには見えなかった。レイチェルは腕を組み、顔を背ける。
「とにかく、私はあなたを信用しないから」
「賢明な判断です」
「そこは少しくらい否定しなさいよ!」
「他国の第二皇子を無条件に信用する王太女は、外交上の危険になり得ます」
「いちいち正論で返すの、やめてくれる?」
「努力します」
「絶対する気ないでしょう」
リシャールは答えなかった。その沈黙が、何より明確な答えだった。
回廊の向こうから、使節団を呼びに来た侍従の姿が見える。リシャールは再び、公人の表情へ戻った。
「そろそろ戻るべきでしょう」
「待ちなさい」
レイチェルが呼び止める。
「約束は守るわ。あの時のことは、これからも誰にも話さない」
クラリスがレイチェルを見る。リシャールも足を止めた。
「でも、勘違いしないで。あなたに言いくるめられたから黙るんじゃない。私がフォローレシアの王太女として約束したから守るの」
「承知しています」
「それと、次にあんなことをしているところを見つけたら、今度は絶対に見逃さない」
「別の研究でも、次は正式な許可を申請します」
「そうしなさい」
「申請が却下された場合は?」
「やらないのよ!」
「分かりました」
素直な返事だった。だが、返答の前にほんのわずかな間があった。
「いまの間は何?」
「何のことでしょう」
「それよ! また、その顔!」
「レイチェル様」
クラリスが肩へ手を置いた。
「殿下をお待ちの方がいらっしゃいます」
「分かってるわよ」
リシャールは侍従の待つ方向へ歩き出した。レイチェルはクラリスの隣へ腰を下ろした。開いた窓から風が入り、礼装の裾を揺らした。
遠ざかる背中を見ながら、レイチェルが小さく呟く。
「いつか絶対、あいつを負かす」
「おやめください」
クラリスが即答した。
「まだ何もしてないでしょう」
「何かなさる前に止めております」
「クラリスは悔しくないの? あんな負け方をして」
「悔しくないと申し上げれば、嘘になります」
クラリスは遠ざかるリシャールを見る。
「ですが、あの方は上位魔法を一度も使っておりません」
レイチェルの表情が固まった。
「……使えないんじゃないの?」
「いいえ。帝国が公表している記録だけでも、リシャール殿下は少なくとも二つの上位術式を修得しています」
「二つ?」
「河岸で展開したのは、すべて小規模か中規模の術式です」
クラリスの上位水魔法を崩しながら、レイチェルの援護まで封じた。あれだけ一方的に圧倒しておきながら、リシャールは自分の上位魔法を一つも使っていなかった。つまり、あの河岸で見せた力さえ、彼の全力ではなかった。
「……それ、先に言ってよ」
「レイチェル様が、再び殿下へ勝負を挑むとおっしゃるまでは、お伝えする必要はないと判断しておりました」
「今はあるってこと?」
「大いにございます」
レイチェルはもう一度、リシャールの背中を見る。悔しい。腹が立つ。次に会ったら必ず一言言ってやると思っていたのに、実際に会えば、また相手の計算どおりに動かされている。それでも、不思議と恐怖だけはなかった。
勝てないことは分かっている。信用できないことも分かっている。だがリシャールは、交わした約束を守った。こちらの約束も、力ではなく言葉によって守らせた。
「クラリス」
「はい」
「やっぱり、いつか一回は勝つわよ」
「何で勝つおつもりですか」
レイチェルは少し考えた。
「……水上競走とか」
「まず王太女として、外交で勝つことをお考えください」
「それは難しそうだから後回し」
「最も後回しにしてはならないものです」
回廊の先で、リシャールが一度だけ振り返った。距離があるため、会話は聞こえていないはずだった。だがレイチェルには、その目がまたこちらを評価しているように見えた。
「何よ!」
リシャールは無言で一礼した。そして何事もなかったように、帝国使節団の待つ部屋へ入っていく。レイチェルは確信した。
「あいつ、絶対聞こえてたわ」
「まさか」
「では、なぜこちらを見たのよ」
「レイチェル様のお声が、王宮中に響いていたからでは?」
レイチェルはしばらく黙り込んだ。
「……それなら聞こえてるじゃない」
クラリスは答えなかった。




