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第七話 国境の河

翌日の昼前、小商船はセレヴィアへ入った。白い石造りの宿が水際に並び、段になった庭から季節の花が運河へ垂れている。遊覧船の屋根には色布が張られ、橋の欄干では、旅人たちが水鳥へ菓子を投げていた。けれどローデリックの船が着けたのは、花のある船着場ではなかった。


 宿で使う灯火油、浴場へ回す香油、厨房用の薪炭。観光客の目には触れにくい荷を扱う、街の裏手の荷揚げ場だった。


 樽が一つずつ陸へ渡される。受取人は荷札と封蝋を確かめ、船員は樽の数を声に出して読み上げる。最後に双方が受取証へ印を押した。レイチェルは、その一部始終を甲板から見ていた。


「綺麗な街にも、油は要るのね」


「綺麗に見せるためにな」


 ローデリックが答えた。


「客が寝たあとに廊下を磨く奴がいて、朝になる前に湯を沸かす奴がいる。花だけ運んで、観光都市が回るわけじゃない」


 レイチェルは頷いた。以前なら、あの白い宿と花の運河だけをセレヴィアとして覚えただろう。いまは、街の裏へ油を運び込む船も、その一部に見えた。


 荷役は二時間ほどで終わった。港務官はエレノアの封書どおり、船上で二人の無事を確認した。王太女へ礼を取ろうとした彼を、レイチェルは慌てて止めた。


 余分な乗員が二人増えたこと以外、港の午後は何も変わらなかった。


     ◇


 セレヴィアを発って二日目の午後、海の色が変わった。深い青の上へ、土を含んだ淡い水が重なっている。国境河から海へ流れ出した水だった。


 河口の両岸は低く、葦原がどこまでも続いていた。西岸がアガレスト帝国、東岸がフォローレシア王国。地図の上では、河の中央に一本の線を引けば済む。


 だが、実際の河は一本の線ではなかった。太い流れの横に浅い流れがあり、そのあいだに泥の中洲がある。倒木の向こうで水が二つに分かれ、少し先でまた一つになる。春の増水が削った新しい河岸は、ところどころ土の色さえ違っていた。


「どこが国境なの?」


 レイチェルが尋ねる。


「いま一番深い流れを採るなら、あそこだ」


 ローデリックが舵輪の向こうを顎で示した。


「昔の河道を採るなら?」


「東の葦原の向こうだ」


「ずいぶん違うわ」


「河は地図を読まんからな」


 小商船は東岸の中継港へ入った。港と呼ばれてはいたが、石造りの桟橋が一本と、低い倉庫が二棟あるだけだった。ここで木箱を川船へ渡し、代わりに上流から届いた麻袋を積む。登録された寄港地だった。予定外の上陸ではない。ローデリックは荷役の指示を出したあと、レイチェルとクラリスを見た。


「港務官が来るまで、桟橋と倉庫のあいだなら歩いていい。船から見えるところにいろ」


「子供ではないわ」


「子供は船倉から生えん。お前はもっと面倒だ」


 レイチェルは言い返しかけたが、クラリスに促されて渡り板を下りた。陸へ移っても、足元がまだ揺れているように感じる。


「地面って、こんなに固かったかしら」


「数日船に乗っただけです」


「数日も、よ」


 桟橋の端まで来たとき、乾いた金属音がした。荷役の音ではない。一定の間隔で三度鳴り、止まる。少し置いて、また三度。レイチェルは上流を見た。倉庫の陰、その先にある葦原から、細い白煙が上がっている。


「あれは何?」


 クラリスの表情が変わった。


「船長」


 呼ばれたローデリックが、積荷の向こうから顔を出す。クラリスは葦原を指した。


「港の設備ですか」


 ローデリックは一度見ただけで、首を振った。


「知らん。少なくとも、先月はなかった」


 白煙の下で、何かが光った。帝国の測量器に使われる、黒く磨かれた鋼だった。レイチェルにも見覚えがある。国境警備の報告書に、同じ形の三脚が描かれていた。


「確認します」


 クラリスが言った。


「私も行くわ」


「ここでお待ちください」


「王国側の岸に帝国の測量器があるのよ。見つけた私だけ船へ戻るわけにはいかないでしょう」


「だからこそ、私が先に――」


「二人とも、船から見えるところを出るな」


 ローデリックが割って入った。それから若い船員へ、港務官が来たらすぐ知らせろと命じる。


「葦の手前までだ。妙なものなら近づくな。戻って港務官を待て」


「わかったわ」


「覚えたかと聞いてるんじゃないぞ」


「守るわ」


 ローデリックは疑わしそうに眉を寄せたが、今度は止めなかった。


     ◇


 正体は、葦の手前からでも見えた。地面へ打ち込まれた六本の鋼杭。その中心に据えられた、腰ほどの高さの円筒。円筒から伸びた銅線が河へ入り、別の線は古い河道の向こうへ渡されている。四人の作業員が計器を囲んでいた。軍服ではない。


 油染みのついた作業着と、工具を下げた革帯。だが胸元には、帝国技術局の小さな徽章があった。その中心にいる痩身の男は、こちらへ背を向けたまま数字を読み上げていた。


「第三杭、偏差〇・七。圧は維持。このまま動かさないでください」


「戻りましょう」


 クラリスが声を潜めた。レイチェルは、葦の向こうに並ぶ鋼杭をもう一度見た。確かめたいことは、いくらでもある。だが、今度は頷いた。


「ええ。港務官を待つわ」


 二人が船へ戻ろうとした、そのときだった。三度続いていた金属音が、不意に止んだ。


「そこの二人」


 作業員の一人が声を上げた。三人が一斉に振り返る。痩身の男だけが振り返らない。


「帝国技術局の者が、フォローレシア領内で何をしているのです」


 クラリスはレイチェルの前へ立ち、問い返した。


「聞こえています。ですが、観測中です」


 男は計器を見たまま答えた。レイチェルの眉が跳ね上がる。


「聞こえているなら、こちらを向いて答えなさい」


「話しかけられると数値を取り違える可能性があるので」


「あなた、私が誰か分かってるの?」


「分かりません。静かにしていただける方であれば、どなたでも構いません」


「誰でも構わないなら、私の質問にも答えられるでしょう」


 クラリスがレイチェルを庇う位置を保ったまま、男へ声を向けた。


「観測を続けるかどうかは、こちらの問いに答えてからです」


 男はようやく顔を上げた。


「口頭でお答えしますので、ご質問を」


「じゃあ、最初からそうして」


 年は三十代半ばほど。背が高く、灰褐色の髪は整えた様子がない。片眼鏡の奥には薄い隈があった。


「所属と氏名を述べてください」


「帝国技術局、リュディガー」


「帝国の人間が、ここで何をしているの?」


「観測です」


「何の?」


「説明しても理解できないでしょう」


 レイチェルの額に青筋が浮かんだ。


「では、理解できるように説明する努力をしなさい」


 リュディガーは困ったようにクラリスを見る。


「この方はいつもこうなのですか?」


「回答を拒み続けているのはあなたです」


「拒んではいません。説明しても時間の浪費になると判断しています」


「同じことでしょう!」


 リュディガーは少し考えた。


「厳密には違います」


 ぷつりと、何かが切れた。導線ではない。レイチェルの堪忍袋だった。


「許可証はあるの?」


「ありません」


「秘密工作じゃない!」


「秘密であることと、工作であることは同義ではありません。これは研究です」


「どちらにしても無許可でしょう!」


「そもそも、ここは王国領内ではありません」


 リュディガーは、当然の前提を確認するように答えた。


「国境線は旧河道の中央です。春の増水で主流が西へ移っただけで、この地点は帝国側にあります」


 レイチェルは、円筒から伸びる銅線を目で追った。一本は主流の脇をたどり、東岸の泥へ刺さっている。


「では、あの杭は?」


「測定杭です」


「名前を聞いたのではないわ。あれはこちらの岸に刺さっているでしょう」


「現在の岸です。国境を定めた時点の岸ではありません」


「河が動けば、帝国領だけこちらへ伸びてくるの?」


「条約文を文字どおり解釈すれば、そうなります」


 レイチェルが東岸の測定杭を指した。その拍子に袖口がずれ、左腕が一瞬のぞく。リュディガーの目が、そこで止まった。


「それは」


 レイチェルは反射的に袖を引いた。


「何よ」


「いま見えたものです。腕へ固定している。時計ですか」


 リュディガーが一歩近づく。クラリスの右手が剣の柄へ動いた。


「お下がりください」


「形状だけ確認します。見たことのない構造です」


「触れてよいとは言っていないわ」


「触れません。留め具と側面を見るだけです」


 そう言いながら、男はレイチェルの左腕へ手を伸ばした。クラリスがその手首をつかもうとする。だが、至近距離にいたレイチェルの方が一瞬早かった。伸びてきた腕を内側へ払い、手首をつかむ。半身になって男の肘を引き、踏み込んできた勢いをそのまま肩へ乗せた。


「え」


 男の足が地面から離れる。次の瞬間、その身体は背中から泥地へ叩きつけられていた。あまりにも簡単に倒れたので、レイチェルの方が一瞬戸惑った。作業員たちが息を呑む。クラリスも、つかむはずだった手を宙で止めた。リュディガーは泥の上で瞬きをした。


「弱っ!」


「私は技術者です」


「技術者は、他人の腕へ勝手に触るの?」


「触れていません。側面を確認しようとしただけです」


「触る直前だったでしょう!」


「クラリス。こいつ一回殴っていい?」


「すでに地面へ叩きつけています」


「では二回目を――」


「そこまでにしていただこう」


 低い声が、葦の奥から届いた。


     ◇


 黒い外套の男が、二人の護衛を伴って姿を現した。旅装ではあるが、腰の軍刀も、胸元に留めた銀の徽章も隠していない。クラリスが即座にレイチェルの前へ出た。


「アガレスト帝国第二皇子、リシャール・アガレスト殿下」


 レイチェルも肖像を見たことがあった。


「なぜ、あなたがここにいるの」


「その質問には、私も同じものを返したいところです」


 リシャールは泥の上の男を見る。


「リュディガー。立て」


「はい」


 リュディガーは起き上がり、背中の泥を払った。怒った様子はない。むしろ、まだレイチェルの袖口を見ている。


「殿下、あの時計ですが」


「あとにしろ」


「しかし、竜頭らしきものが見当たりませんでした」


「リュディガー」


「……はい」


 短く名を呼ばれただけで、技術局長は口を閉じた。リシャールは六本の鋼杭と円筒を見渡した。


「測定は」


「必要値の九割三分まで。残り四分あれば基準値と比較できました」


「撤収しろ。記録器と中央円筒を優先。杭と導線は残すな」


「ですが」


「見られた」


 リシャールの視線が、レイチェルとクラリスへ戻る。


「国境線の解釈は、君の言うとおりかもしれない。だが、見られた。その時点で、この実験は失敗だ」


 作業員たちは迷わず動き始めた。計器の針が止められ、銅線が河から引き上げられる。


「待ちなさい」


 レイチェルが言った。


「王国側へ無断で設備を置いて、見つかったから持ち帰る。それで終わると思っているの?」


「ここが王国側かどうかについて、両国の見解は一致していません」


「では国境会議を開いて、その場で研究の許可を求めるべきだったわ」


「許可を求めれば、秘密の研究ではなくなる」


「堂々と言わないで!」


 リシャールは否定しなかった。


「設備はすべて撤去します。王国側に損害が確認されれば補償する。今回の件についても、必要な説明は正式な外交経路で行いましょう」


「それで、なかったことにするつもり?」


「なかったことにはしません。研究を中止し、設備を撤去する。それで現場は終わりです」


「研究の中身は?」


 リシャールは答えなかった。


「何を調べていたのか。誰の命令で、いつから、どこまで実験したのか。観測記録も含めて、王国側へ提出しなさい」


「それはできません」


「なぜ」


「帝国の研究記録だからです」


 レイチェルは一歩前へ出た。クラリスが腕で制する。


「お待ちください、レイチェル様」


 その呼び方に、リシャールの目がわずかに細くなった。


「レイチェル」


 彼は確認するように名を繰り返した。


「フォローレシア王太女、レイチェル殿下です」


 クラリスが答える。


「なるほど」


「何が、なるほどなの」


「資料の肖像より、行動的な方だと」


「馬鹿にしてるでしょ」


「評価を修正しただけです」


「なら話が早いわ」


 レイチェルは解体されていく記録器を指した。


「王太女として要求します。研究の目的、実施内容、責任者、それから観測記録を王国側へ提出して」


「設備は撤去する。損害があれば補償する。外交上必要な説明も行う。ですが、研究記録そのものを引き渡すつもりはありません」


「こちらの岸に杭まで打っておいて、記録だけ帝国へ持ち帰るの?」


「国境線について、こちらにも主張があります」


「それを決めるのはあなた一人ではないわ」


「同感です。だから外交経路で処理すると言っています」


「その外交の前に、証拠が全部そちらへ消えるでしょう」


 リシャールは否定しなかった。レイチェルの声が低くなる。


「記録器を置いていきなさい。少なくとも王国側が確認するまでは、持ち出させない」


「できません」


「なら、港務官に止めてもらうわ」


 クラリスが振り返った。


「レイチェル様」


「無断研究を見つけて、記録まで目の前で持ち去られるのを見送るつもりはないわ。王国側へ報告します」


 リシャールは、ほんの一瞬だけ黙った。


「あなたと争うつもりはありません」


「負けるのが怖いの?」


「……その認識に至れること自体が、ある意味では才能ですね」


「馬鹿にしてるでしょ!」


「レイチェル様、お願いですから今は挑発に乗らないでください!」


 クラリスの声が河岸へ響いた。リュディガーが、解体途中の円筒を抱えたまま首を傾げる。


「殿下は褒めていません」


「あなたは黙ってなさい!」


「リュディガー。作業を続けろ」


「はい」


 リシャールは記録器を収める箱を一度見て、桟橋の方角へ目を向けた。港務官が到着すれば、撤収前の設備も記録も押さえられる。


「記録器を先に運べ。撤収を急げ」


 レイチェルとクラリスが船へ戻ろうとすると、リシャールが護衛二人へ合図した。二人は葦原を回り、桟橋へ続く道を塞いだ。リシャールもクラリスの進路へ移る。


「こちらも記録を奪われるわけにはいきません。撤収が完了するまで、あなた方にはこの場に留まっていただきます」


「……それ、私たちを拘束するという意味?」


「一時的にです。数分で終わる」


 クラリスが、レイチェルの前へ一歩出た。


「確認いたします、リシャール殿下」


 声から、それまでの苛立ちが消えていた。


「フォローレシア王太女殿下の行動を、御本人の意思に反して、帝国側の判断で制限するとおっしゃるのですか」


「撤収が終わるまでです」


「時間の問題ではございません。その措置を撤回してください」


「できません」


 一度目の警告を、リシャールは退けた。レイチェルがクラリスの肩越しに言う。


「私たちは船へ戻るわ。報告は王国側から正式に行う。そこを退いて」


「いま戻らせることはできない」


「なぜ?」


「船へ戻れば、港務官へ知らせるでしょう」


「当然よ」


「撤収が終わるまで、それを待ってもらう」


「それを拘束というのよ」


「数分だけです」


「時間の問題ではないわ。それを決める権利はあなたにはない」


 リシャールが一歩進んだ。クラリスの剣が鞘を離れた。


「止まってください」


 切っ先は低い。だが、声には一切の迷いがなかった。


「これ以上レイチェル様へ近づけば、殿下に対する拘束行為と判断し、近衛として排除します」


 二度目の警告だった。リシャールは足を止めた。


「退くつもりはありません」


「私もです」


 リシャールの右手が、軍刀の柄へ置かれた。周囲の空気が変わった。


「クラリス」


 レイチェルが背中へ手を伸ばす。


「船長へ知らせる方が――」


「その船へ戻ることを、いま禁じられました」


 クラリスは前を見たまま答えた。解体された記録器は、すでに革張りの箱へ収められている。あと数分もあれば、帝国側は設備も記録も持ち去ってしまう。


「レイチェル様。私の後ろから、決して動かないでください」


 レイチェルも剣を抜いたが、その場からは動かなかった。


 リシャールが軍刀を抜いた。クラリスが踏み込んだ。最初の一撃から、警告ではなかった。


     ◇


 クラリスの剣が、リシャールの軍刀を横から激しく打った。火花が散る。狙ったのは身体ではない。武器を弾き、そのまま一息で制圧するつもりだった。


 受けられたと見るや、クラリスは刃を滑らせて軍刀の鍔元へ絡める。右手を外へ押し流しながら半歩入り、空いた左手で肘を崩す。続けて柄頭を胸元へ打ち込み、足を払う。すべて、殺すためではない。だが一つでもまともに入れば、武器を落とすか、地面へ倒れる。それだけの速さと重さがあった。


「速いな」


 最後の足払いをわずかに退いてかわしながら、リシャールが言った。


「余裕を見せていられるのも、いまのうちです」


「余裕ではない。評価しただけだ」


 クラリスは間を与えない。軍刀の外側へ剣を沿わせ、手首を返して再び武器を巻き込む。今度こそ弾き落とす――はずだった。だが、動かない。逆にリシャールの軍刀が、その剣を絡め取っていた。


 クラリスは即座に柄から片手を離し、リシャールの顔面へ掌底を放つ。彼が首を傾けてかわした瞬間、絡め取られた剣を引き抜き、間合いを外した。二人の距離が開く。クラリスは剣を構え直したが、追撃しなかった。呼吸は乱れていない。身体にも傷はない。


 それでも、理解していた。剣では勝てない。


 いまの攻防で、リシャールは一度も攻勢に出ていない。こちらが武器を奪い、体勢を崩そうとするすべての動きを読みながら、最低限の動きだけで処理していた。このまま続ければ、いつでも倒される。クラリスの左手が、静かに河へ向けられた。


「レイチェル様。私の後ろから、決して動かないでください」


 声の変化に気づき、レイチェルが息を呑む。


「クラリス、それを使うの?」


「この方を相手に、温存する余裕はありません」


 河面が震えた。最初は風による小さな波にしか見えなかった。しかし次の瞬間、河岸一帯の水が一斉に持ち上がった。巨大な水塊が河から引き抜かれ、クラリスの背後へ集まっていく。轟音とともに渦を巻き、幾重にも圧縮され、やがて頭上を覆う巨大な奔流となった。その水量だけで、人間どころか河岸の木々まで押し流せる。


 帝国の作業員たちが動きを止めた。


「リシャール殿下!」


 一人が叫んだが、リシャールは振り返らなかった。クラリスの周囲に、青白い魔法陣が三重に展開される。上位水魔法。単純に大量の水を叩きつける術ではない。幾層もの水流が異なる方向へ回転し、触れたものを巻き込み、圧力で粉砕する。逃げようとしても、外層の奔流に絡め取られる。


 正面から防ぐなら、同格の防御魔法が必要になる。レイチェルは頭上の水塊を見上げた。これなら勝てる。クラリスの上位魔法に、自分の魔法を重ねれば――。そう考え、剣を持たない左手へ魔力を集めた、その瞬間だった。リシャールの周囲に、小さな光が六つ灯った。


 一つではない。異なる形状の魔法陣が、ほぼ同時に展開されている。


「六重……?」


 レイチェルの声が漏れる。最初に発動したのは、もっとも小さな風魔法だった。鋭く絞られた風が河面を走り、水塊と河をつないでいた三本の水流のうち、一本を切断する。同時に河岸から二本の土柱が突き出し、残る水流の方向を強引に変えた。クラリスの上位魔法へ供給されていた水が乱れる。だが、術は崩れない。


 クラリスが即座に魔力を増し、巨大な水塊を維持する。


「その程度で!」


 頭上の奔流が一気に形を変えた。巨大な波となり、リシャールへ落下する。その正面に中規模の風壁が展開された。受け止めるためではない。斜めに傾けられた風壁が、奔流の先端だけを左右へ割る。そこへ左右から火球が撃ち込まれ、水の一部が激しい蒸気へ変わった。


 白い霧が爆発的に広がり、視界を覆う。上位魔法そのものを消し去ったわけではない。風で供給を断ち、土で流れを変え、火で水量を削り、残る本流を風壁によって受け流した。一つひとつは上位魔法に遠く及ばない。だが、すべてが必要な場所へ、必要な瞬間に、寸分違わず撃ち込まれていた。クラリスの表情が初めて変わった。


「同時に、これほど……」


 そのとき、レイチェルも魔法を放った。河から引いた細い水流が、リシャールの足元で拘束輪となって立ち上がる。クラリスの上位魔法へ意識を集中している。今なら避けられない――そう判断しての援護だった。だが、リシャールはレイチェルを見てすらいなかった。七つ目の魔法陣が足元に現れる。


 小さな土の隆起が水の輪の中心を突き上げ、形成される直前の術式を内側から崩した。


「え……?」


 レイチェルの水魔法が、ただの水滴となって地面へ落ちる。続けて八つ目。レイチェルの足元を囲むように地面が隆起し、膝ほどの高さの土壁が作られた。攻撃ではない。彼女をその場所から動かさないためだけの術だった。


「邪魔をするな」


 リシャールの視線は、なおもクラリスだけに向けられている。


「次も無傷で止められるとは限らない」


 その言葉に、レイチェルの身体が止まる。自分の魔法は、見もせずに潰された。しかもリシャールは、クラリスの上位魔法を処理しながら、こちらの動きまで把握していた。二人で戦えば勝てる。ほんの一瞬抱いた考えが、完全な思い上がりだったと理解する。リシャールはクラリス一人と戦っていたのではない。


 最初から二人とも、彼の制御下に置かれていた。


「レイチェル様!」


 クラリスが叫ぶ。リシャールの注意がレイチェルへ逸れたように見えた。クラリスは残る水塊を一本の巨大な槍へ圧縮し、正面から撃ち出す。リシャールは左手を上げた。それまで別々に動いていた風が、一点へ集束する。水槍の先端がわずかに上を向いた。


 ただそれだけだった。だが、進行方向をずらされた巨大な水槍は、リシャールの頭上を通過し、背後の河へ轟音とともに落下した。水柱が空へ立ち上る。その飛沫が地面へ届くより早く、リシャールは動いていた。蒸気の中を一直線に踏み込み、クラリスとの間合いを消す。クラリスが剣を振るう。


 しかし上位魔法を維持し、さらに大技を放った直後だった。最初の攻防にあった速度はない。リシャールの軍刀が剣を外側へ弾く。返す柄がクラリスの脇腹へ入り、呼吸を奪った。それでもクラリスは倒れない。膝をつきながら短剣を抜き、リシャールの脚を狙う。


「まだ動くか」


 リシャールは身体を引いてかわし、その手首を押さえた。クラリスが逆の拳で彼の顔を狙う。その拳も受け止められた。腕をひねられ、完全に体勢を崩される。


「クラリス!」


 レイチェルが土壁を越えようとする。その声に反応し、クラリスは最後の力でレイチェルの前へ戻ろうとした。リシャールは一瞬だけ、その動きを見つめた。軍刀の柄が、クラリスの顎へ正確に打ち込まれる。クラリスの身体から力が抜けた。地面へ倒れる寸前、リシャールは襟元をつかみ、頭を打たないよう横向きに寝かせる。


「クラリス!」


 土壁を越えたレイチェルが駆け寄る。クラリスは意識を失っていたが、呼吸はある。レイチェルは剣を握り直し、リシャールを睨みつけた。それでも、立ち上がることができなかった。恐怖だけではない。クラリスを置いて戦えない。


 そして、自分が加わったところで結果は変わらない。目の前の男は、クラリスの上位水魔法を正面から上回る大魔法で押し潰したのではなかった。八つもの小・中規模魔法をほぼ同時に操り、術式の弱点だけを正確に撃ち抜いた。その最中にもレイチェルの魔法を封じ、傷つけることなく行動だけを止めた。勝てなかったのではない。


 最初から、勝負として成立していなかった。

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