第六話 初めての小さな旅
海の誘拐犯になった船にも、仕事はあった。連絡艇を見送ったあと、ローデリックは帆を戻させた。絞られていた布が風をはらみ、船首が再びアルヴェールへ向く。岸はもう遠く、白い水都は水平線の手前で少しずつ小さくなっていた。
けれど船員たちは、王太女が乗っているからといって手を止めなかった。綱を引き、帆の具合を見て、水樽の蓋を確かめる。二人増えた人間より、変わり続ける風の方が、いまは船にとって大事だった。ローデリックはレイチェルとクラリスを船尾へ呼んだ。
「先に言っておく。この船に王女の部屋はない。王女用の食事もない」
「承知しました」
クラリスが答える。
「それから、船の上では俺の指示に従え。身分の話は岸へ着いてからだ」
「私も?」
「ほかに王女がいるなら、そいつにも言っとけ」
「私だけね」
「なら話が早い」
ローデリックは甲板の隅に積まれた細い綱を指した。
「余分な乗員は、余分な手でもある。あれを束ね直せ」
レイチェルは綱を見る。
「どうやって?」
「それを聞くところから始めろ」
◇
綱を束ねていたのは、船倉の蓋を閉めた若い船員だった。レイチェルが近づくと、彼の手が一瞬だけ止まった。レイチェルも足を止める。
「先ほどのことだけれど」
「はい」
「私のせいで、あなたまで巻き込んでしまったわ」
若い船員は答えなかった。
「怖い思いをさせて、ごめんなさい」
見るだけのつもりだった。出航が早まるとは思わなかった。蓋を閉められるとも思わなかった。どれも本当だった。けれど、それを言っても、彼の仕事が増えたことは消えない。
「今後は、船長の点検が終わったあとでも、金髪の娘が生えていないか確かめます」
若い船員は真面目な顔で言った。レイチェルは少し迷ってから、首を振った。
「それをあなたの仕事にしたら、私が謝った意味がなくなるわ」
若い船員の口元が、ようやくわずかに緩んだ。
「では、綱の束ね方だけ覚えてください」
「それは得意よ」
「では、一度やってみてください」
若い船員は、輪を重ねる向きだけを一度見せた。レイチェルは真似をした。三つ目まではうまくいった。四つ目で輪がねじれ、五つ目で最初の輪まで崩れた。クラリスが隣へ膝をつく。
「こちらを押さえます」
「あなたはできるの?」
「できないから、押さえるのです」
二人でやっても、最初の束はひどく不格好だった。若い船員は結び目を見て、ほどいた。そして、もう一度だけ見本を作った。
「手首で回そうとしないでください。腕ごと同じ向きへ」
「こう?」
「少し違います」
「少しなら合ってるのね」
「かなり、少しです」
近くで樽を固定していた船員が吹き出した。甲板に残っていた妙な緊張が、そこで少しだけほどけた。
◇
海は、王室艦の窓から見るよりよく動いた。大きな船では気づかないほどの短い波が、小商船の船首を一つずつ持ち上げる。上がった甲板はすぐに下がり、下がりきる前に次の波が来る。初めのうち、レイチェルは海の色を見るため、手すりから身を乗り出していた。半刻もすると、帆柱の根元へ座っていた。
「顔色が悪いぞ」
通りかかったローデリックが言った。
「少し、甲板が動きすぎるだけよ」
「甲板は船についておりますので、正常です」
クラリスが答えた。
「あなたは平気なの?」
「平気に見せる訓練は受けております」
よく見れば、クラリスもいつもより口数が少ない。ローデリックは二人へ水と硬いパンを渡した。
「少しずつ口にしろ。下を見ず、遠くを見ろ」
レイチェルは不満そうに水平線を見た。宮殿も、橋も、次に見るべき書類もない。ただ水と空の境だけが、船の上下に合わせて揺れている。硬いパンを一口かじり、しばらく噛んだ。隣のクラリスは、まだ水だけを飲んでいる。
「半分いる?」
「レイチェル様がお召し上がりください」
「一人で全部食べたら、あなたがあとで倒れるでしょう」
「倒れません」
「平気に見せる訓練を受けてるだけでしょう」
返された言葉に、クラリスは黙った。レイチェルはパンを二つに割った。綺麗には割れず、片方が少し大きい。大きい方をクラリスへ差し出す。
「こちらの方が大きいですが」
「近衛だからよ」
「理由になっておりません」
「じゃあ、私が小さい方を食べたいの」
クラリスはそれ以上言わず、受け取った。二人で同じ方向を見ながら、硬いパンを少しずつ食べた。
◇
夕食は、豆と魚を煮た汁物だった。同じ鍋から木椀へ注ぎ、硬いパンを浸して食べる。レイチェルの椀にも、クラリスの椀にも、船員の椀にも、入っているものは変わらない。レイチェルは最初の一口を慎重に飲んだ。
「おいしいわ」
「腹が減れば、大抵のものはうまい」
ローデリックが向かいで答える。
「褒めたのに」
「船の飯に、宮殿の返事を期待するな」
昼の硬いパンだけで耐えていた胃に、温かい汁が落ちていく。塩は少し強く、魚の骨も完全には取り除かれていない。それでも揺れる甲板で両手を使って椀を支え、一日働いた者たちと同じ鍋を囲む食事は、王宮の長い食卓とは違っていた。先ほど綱を教えた若い船員が、鍋の前でレイチェルの椀を見る。
「もう少し、いりますか」
レイチェルは空になりかけた椀を見た。
「いただくわ」
「クラリス様も?」
「少しだけ、お願いします」
若い船員は二人の椀へ同じように汁を足した。今度は、王太女に給仕しているような顔ではなかった。ただ、同じ船で夕食を食べている二人へ、鍋を回しているだけだった。
◇
食後、ローデリックは船尾の小部屋を二人へ示した。寝台が一つ。壁に固定された机が一つ。海図を収める棚と、着替えるだけでいっぱいになる床。
「今夜はここを使え」
「船長室ではありませんか」
クラリスが言った。
「見ればわかる」
「私どもは甲板でも休めます」
「王女だから譲るんじゃない。男ばかりの船で、娘二人を雑魚寝させる趣味がないだけだ」
「ですが、船長は」
「空いた吊床で寝る。船が沈みそうなら起こせ」
「沈みそうでなくても起こします」
「近衛ってのは融通が利かんな」
扉が閉まる。部屋には小さな灯りと、船体を伝う水音が残った。寝台は二人で横になるには狭い。クラリスは上着を丸めて床へ置こうとしたが、レイチェルがその腕を掴んだ。
「詰めれば入れるわ」
「レイチェル様がお休みください」
「あなたも船酔いしているでしょう」
「平気に見せる訓練を受けております」
「それは、平気ではないという意味ね」
二人は狭い寝台へ並んだ。肩が触れ、船が傾くたびに、どちらかが壁へ押しつけられる。しばらく、誰も話さなかった。
「クラリス」
「何でしょう」
「怒っている?」
「はい」
返事が早かった。
「少しくらい迷うかと思ったわ」
「レイチェル様が御無事であることと、私が怒っていることは両立いたします」
レイチェルは天井を見た。
「お母様は、あなたが私を連れ戻すために船倉へ入ったとわかってくださるわ」
「陛下がどう御判断になるかとは別に、私はお止めできませんでした」
「私が聞かなかったのよ」
「それでも止めるのが、私の役目です」
船が一度、大きく上下した。暗い部屋で、クラリスの手が寝台の縁を強く掴む。
「怖かった?」
今度は、返事までに少し間があった。
「はい」
「船に乗ったことが?」
「違います」
クラリスは目を閉じていた。
「間に合わなかったことが、です」
レイチェルは横を向いた。暗い室内では、クラリスの顔は半分しか見えない。
「……ごめんなさい」
「はい」
「今度は、戻れと言われたら戻るわ」
クラリスが目を開いた。
「次は、止められる前に戻ってください」
レイチェルは少しだけ眉を寄せた。
「厳しいわね」
「今回は、間に合いませんでしたので」
「……そうね」
船がまた傾いた。二人の手が寝台の上で触れた。クラリスは、その手を一度だけ握った。今度は引き戻すためではなかった。
◇
レイチェルの手紙がアクアリア宮へ届いた時、王都では捜索船の出港準備が始まっていた。女王エレノアは、防水筒から出された二通の手紙を読み終えるまで、一言も発しなかった。最初にレイチェルの署名を見て、次にクラリスの報告を読む。最後に、二通を並べた。
「沿岸警備と近衛へ、両名の無事を伝えなさい。捜索船は止めます」
「ローデリック・ヴェイルの船については」
港務局長が尋ねた。
「追跡対象から外します。船長と船員に嫌疑なし。記録にも明記を」
「御帰還は、アルヴェールから王室船を出させますか」
エレノアは答える前に、港務局から添えられた出港記録へ目を通した。
船名、船長、乗員、喫水、積荷、寄港地。
アルヴェール、セレヴィア、さらに沿岸の港を経て、ミスティクスへ戻る。すでに荷は積まれ、それぞれの受取時刻も届け出られている。
「この航路を終えるまで、何日ですか」
「順調なら八日。天候を見ても十日以内です」
「使節団を迎える準備に支障は」
「十日であれば、ございません」
エレノアは出港記録を閉じた。
「アルヴェールで、まず二人の健康状態を確認させます。船体と航海の継続に問題がないことも、港務官から報告を」
「そのうえで、殿下をそのまま航海させるおつもりですか」
「許可するのではありません」
エレノアの声は穏やかだった。
「すでに起きたことを、どのように終わらせるかを決めます」
港務局長は黙って続きを待った。
「本人が望んだ遊覧ではありません。自分で入り込んだ船が、何を背負って走るのかを最後まで見届けさせます」
エレノアは新しい紙を引き寄せた。
「既定の航路であること。各寄港地で指定した港務官が安否を確認すること。クラリスは帰還まで警護を継続。船長が同乗を拒むなら、二人はアルヴェールに留まり迎えを待つこと」
「期限は」
「十日です。それを超える可能性が出た時点で、航海を終えさせなさい」
「承知しました」
「処分は、帰還後に決めます。それも書き添えなさい」
港務局長が一礼した。エレノアは机の上に残った娘の手紙を見た。自分の意思で船へ入った。戻れと言われても戻らなかった。文字の形まで見覚えのある手紙を、もう一度だけ折り直した。
◇
翌朝、レイチェルは鐘の音で目を覚ました。ミスティクスの鐘より低く、間隔が短い。甲板へ出ると、海の先に四本の塔が見えた。二つの潮門施設が湾口の両側に立ち、それぞれ外側の灯台塔と内側の制御塔を持っている。四塔の間には広い中央航路が開き、大型帆船が蒸気曳船に引かれてゆっくり進んでいた。双潮門。
その向こうに、第二都市アルヴェールが広がっている。白と灰色の石造建築。濃紺の屋根。赤褐色の倉庫群。黒い岸壁に沿って鉄製のクレーンが並び、その奥では、建造中の船の骨組みが朝の空へ伸びていた。
帆布を打つ音。鍛冶場の槌。曳船の蒸気笛。レイチェルは、ここへ来たことがある。三年前、初めて女王名代を務めた時だった。王室船の高い甲板から歓迎砲を受け、潮見府へ続く整えられた道を進み、用意された演壇から港を見た。
あの日も双潮門を見た。けれど、今朝の門はずっと大きく見えた。小商船の低い甲板では、曳船の起こす波が船腹へ直接当たる。岸壁の荷役人の声が届き、船渠から流れる油と木屑の匂いまでわかる。
「同じ街なのに」
「乗る船が違えば、見える高さも違います」
クラリスが隣で言った。ローデリックの船は、千倉区の黒い岸壁へ入った。係留綱が投げられ、待っていた荷役人が杭へ巻く。船が岸壁へ寄ると同時に、荷札を持った倉庫番と川船の船頭が近づいてきた。
「替え刃はどれだ!」
「船倉前方、長箱が二つだ!」
ローデリックが答える。荷役口が開いた。昨日なら、レイチェルは真っ先に下を覗き込んでいただろう。今日は少し離れた甲板から、吊り綱が長箱へ掛けられるのを見た。あの箱だった。船倉へ入った日に、自分が場所を確かめようとした長い木箱。
アルヴェールの倉庫印が確認される。受領札へ印が押され、箱は岸壁を横切って、隣の桟橋で待つ浅い川船へ運ばれていく。川船の船頭が蓋の留め金を一つだけ確かめた。
「これで上流の村へ間に合う」
誰に聞かせるでもなく、そう言った。レイチェルは、その箱を見送った。
「王都より、王太女殿下への封書です」
背後から声がした。灰色の港務服を着た役人が二人、岸壁に立っていた。後ろには、細長い船体の王室連絡艇が係留されている。荷を持たない高速艇で、夜通し王都から走ってきたのだろう。帆はまだ降ろされたばかりだった。港務官は深く礼を取ろうとした。
「ここでは、目立たない方がよいわ」
レイチェルが言う。港務官は一瞬だけ迷い、礼を浅くした。
「陛下からも、同じ御指示です」
封書には、レイチェルとクラリスだけでなく、ローデリックの名も記されていた。三人は船尾の小卓で、それを開いた。
レイチェルおよびクラリスの無事を確認した。
ローデリック・ヴェイル船長ならびに乗員に責任はない。
港務官による健康状態の確認を受け、船体および航海の継続に問題がなく、船長が同乗を認める場合に限り、届け出済みの既定航路を継続してよい。
これは旅の許可ではない。無断乗船の責任を免じるものでもない。
新たな寄港地、予定外の上陸、航路の変更は認めない。
各港では、指定された港務官による船上での安否確認を受け、十日以内にミスティクスへ帰還すること。
クラリス・ウェルフォードは、帰還まで王太女の警護を継続すること。
末尾の一文に、レイチェルは目を留めた。
処分は帰還後に決定する。
「よかったな」
ローデリックが言った。
「旅の許可と処分の予告が、同じ紙で届いたぞ」
「許可ではないと書いてあるわ」
「そこだけよく読めたな」
港務官による確認が済むまで、三人は船を離れなかった。レイチェルとクラリスに目立った異常はない。船体にも問題はなく、ローデリックも航海を続けられると答えた。残るのは、船長の同意だった。
「船長が同乗を認める場合に限る、とあります」
クラリスが言う。
「そうだな」
ローデリックは紙を畳んだ。レイチェルは何も言わなかった。乗せてほしい。迷惑はかけない。何でも手伝う。いくつかの言葉が浮かんだが、どれも口にしなかった。
決めるのは、ローデリックだった。彼は、黙って待っているレイチェルをしばらく見た。
「この先も、王女の部屋はないぞ」
「ええ」
「飯も同じだ」
「ええ」
「船の上では、俺の指示に従う」
「わかっているわ」
「覚えていることと、守ることは同じじゃないぞ」
レイチェルは、一瞬だけ目を見開いた。
「……今度は守るわ」
「その台詞には、前科がある」
ローデリックは若い船員を呼んだ。
「二人分、乗員名簿の末尾へ足しとけ」
「肩書はどうします」
ローデリックは少し考えた。
「余分な乗員だ」
若い船員が笑いをこらえながら、板帳へ書き込む。
◇
昼前、アルヴェールの双潮門が外向きの航路を開いた。小商船は岸壁を離れる。
レイチェルは朝に使った綱の束を見つけ、甲板の隅へしゃがんだ。昨日、若い船員に二度教えられた束ね方を思い出す。
一つ、二つ、三つと輪を重ねる。四つ目で輪がねじれ、レイチェルは手を止めた。そのまま押し込まず、一つ戻して向きを直す。それから、もう一度重ねた。
隣で作業していた若い船員が、ちらりと見た。レイチェルは最後の輪を重ね、束を床へ置いた。若い船員は少し形を確かめた。
「それなら、次に使えます」
レイチェルは綱を見た。昨日より、ちゃんと丸かった。
船首の向こうに、次の水路が開いていた。




