第五話 海の誘拐犯
船は、岸が遠くなったからといって止まらなかった。外水門へ続く水路は、船二隻が余裕を持って並べるほど広くない。前には先行を許された小商船。後ろにも、同じ鐘で岸を離れた船が一隻いる。石造りの門壁が近づき、その間を抜ける水が船腹を強く押した。
「船長」
若い船員が、船尾を見たまま声を失っていた。ローデリックが振り返る。船尾の昇降口から、いるはずのない二人が甲板へ出ていた。金色の髪の少女と、その手を固く掴んだ青い髪の近衛騎士。ローデリックは何も言わなかった。一度だけ二人を見て、すぐに外水門へ向き直る。
「右舷、少し引け。帆はそのまま。門の中で風を拾うな」
船員たちが動いた。
「そこの二人」
レイチェルとクラリスが同時に顔を上げる。
「船尾から動くな。手すりを持て。話は門を抜けてからだ」
怒鳴ってはいない。けれど、レイチェルは黙って手すりを握った。船は石の門壁の間へ入った。両側から返る水音が高くなり、帆柱の上で風が乱れる。船体が横へ押されるたび、船員が綱を引き、舵が細かく角度を変えた。いま船長が王女に驚いている暇などないことだけは、レイチェルにもわかった。
やがて門壁が後ろへ流れ、広い水面が船の前に開けた。王都の高い護岸に遮られていた風が、外では船腹へまともに当たる。荒天と呼ぶほどではない。それでも水面には短い波が絶えず立ち、船は港内にいた時より深く、ゆっくりと上下し始めた。
ローデリックは後続船が門を抜ける位置まで進ませてから、小帆を落とさせた。船足が少し緩む。そこでようやく、船尾へ来た。
「さて」
ローデリックは二人を見た。
「どうして、お前らが俺の船にいる」
「船倉を、少し見るだけのつもりだったの」
「それは乗った理由だ。俺が聞いているのは、なぜ出ていかなかったかだ」
「荷役口を閉められました。船尾の昇降口へ回っている間に離岸しております」
クラリスが答えた。
「レイチェル様をお止めできなかったことも、出航までにお連れできなかったことも、私の失態です」
「蓋を閉めたのは俺です」
若い船員が進み出た。
「中を確かめずに――」
「下がってろ」
ローデリックは言った。
「俺が点検したあとだ。お前がもう一度見る理由はなかった」
「ですが」
「点検は済んだと俺が言った。お前は帆を見ろ」
若い船員はレイチェルを一度だけ見て、持ち場へ戻った。ローデリックはレイチェルへ向き直る。
「お前さん、自分が何をしたかわかってるか」
「約束を破ったわ」
「それだけか」
レイチェルは答えられなかった。
「王太女と、その筆頭近衛が港から消えた。最後に見られた場所は俺の船の前だ。そこで俺と話し、その直後にこの船は港を出た」
ローデリックは、遠ざかる水都を顎で示した。
「今ごろ岸じゃ、近衛が二人を捜してる。港務局は出港記録を洗い、外門番所には船を止めろと命令が走る。話が王宮へ届けば、沿岸の警備まで動く」
「私は、自分から乗ったのよ」
「それを知っているのは、この船の上にいる人間だけだ」
レイチェルは、甲板の船員を見た。彼らは仕事の手を止めてはいなかった。それでも、誰もこちらを見ようとしないことが、かえって重かった。
「お前さんが動かしたのは、自分の足だけじゃない。今ごろ岸じゃ、国が動き始めてる」
レイチェルは唇を結んだ。
「……ごめんなさい」
ローデリックは、それで話を終えなかった。
「謝る相手は俺だけじゃない。だが、まずは事を大きくしない方法を考える」
「船を戻してください」
クラリスが言った。
「できん」
「王太女殿下の安全に関わります」
「だから戻せん」
ローデリックは外水門を指した。
「あの水路は、いま外向きだ。後ろから一隻来てる。ここで止まれば門口を塞ぐ。転回できる広さになるまで進んだころには、次の水位合わせが始まる」
門塔では、すでに別の信号旗が上がり始めていた。
「遅れていた穀物船が入ってくる。あれを通す間、こちらから戻る船は門へ近づけん」
「沖で待つことは」
「今夜はもう少し風が上がる。外門前の泊地で朝まで錨を入れるより、風を船尾から受けて次の港へ走る方が安全だ。まず手紙を戻す。そのうえで最初の寄港地へ入る。王宮が迎えを出すなら、そこが一番安全だ」
「最初の寄港地まで、どれほどですか」
「アルヴェールだ。順調なら明日の昼前。今夜は海の上になる」
クラリスは門塔の旗を確かめ、沖へ目を移した。入港を待つ穀物船の船腹が、海を狭く見せていた。
「それと、もう一つある」
ローデリックは足元の船倉を示した。
「俺たちは、品物以上に約束を売ってる」
「レイチェル様と積荷を、同じ秤に載せるとおっしゃるのですか」
「逆だ。載せる気はない」
ローデリックは即座に答えた。
「運賃を失うだけなら、俺がかぶる。次の仕事をなくすだけでも、この船を戻す。だが、あの替え刃は明日の午後、アルヴェールで川船へ積み替える約束だ。次の便は六日後。その先には、刈り入れまでに農具を直したい村がある」
「ですが、レイチェル様の御帰還が最優先です」
「当然だ。だがな、最優先ってのは、二番目から下を全部海へ捨てていいって意味じゃない」
ローデリックはレイチェルを見た。
「お前さんたちは今、無事にこの船の上にいる。手紙を戻して、明日の昼前にアルヴェールへ入る。そこで王宮の指示を待つ。それが一番安全で、一番早い。そのうえで、預かった約束も守れる」
クラリスは少し黙った。
「アルヴェールで、王宮の指示を待つ。それが条件です」
「それでいい」
「あなたほど名のある人なら、事情を話せば、荷主もわかってくれるのではなくて?」
「一度は許してくれるかもしれんな。だが、名前で許されると思い始めた船乗りから、信用をなくす」
ローデリックの声は静かだった。
「一度落とした信用は、ローデリック・ヴェイルと何度名乗っても、簡単には戻らん」
「外門番所へ戻る連絡艇があります」
見張りの船員が声を上げた。沖の信号浮標の向こうから、小さな艇がこちらへ向かっていた。低い船縁の中に、港務局の灰色の上着を着た男が二人見える。一人が舵を取り、もう一人が船首で信号旗を扱っている。
連絡艇の細い船首は、短い波を越えるたびに大きく上下した。二隻は同じ速さへ近づいていったが、互いの船腹を打ちつけないよう、投げ綱が届くぎりぎりの距離を残している。クラリスが身を乗り出した。
「レイチェル様だけでも、あの艇へ移せませんか」
「無理だ」
連絡艇の船首が持ち上がった。その瞬間、小商船の甲板は沈み、二つの手すりの高さが大きくずれた。
「人を渡すには、もっと近づけなきゃならん。この揺れで船腹がぶつかれば、人が挟まれる」
ローデリックは綱を用意するよう指示した。
「書状なら、この距離で渡せる」
ローデリックは船員へ顔を向けた。
「書状を渡す。用意ができるまで並走を頼め」
船員が信号旗を振ると、連絡艇の船首からも旗が返った。艇は間隔を保ったまま、こちらの船足に合わせた。クラリスはなおも連絡艇を見ていた。レイチェルは、何も言わなかった。ローデリックがその横顔を見る。
「お前さん、さっきから一度も帰りたいと言わんな」
「レイチェル様」
クラリスが振り返った。
「帰らなければならないとは、わかっているわ」
「聞いたのは、帰りたいかどうかだ」
レイチェルは遠くなったミスティクスを見た。白い岸壁に港務塔、水路の上を渡る橋。そのすべてを見下ろすように、アクア・コロナが空に浮かんでいる。
反対側には、何も遮るもののない水面があった。王室艦の窓から見た海ではない。出迎えの時刻も、決められた座席も、次の式典もない海だった。
「……帰りたくないわ」
クラリスの手が、わずかに強く握られた。
「叱られるからではないの」
「なお悪い気もしますが、続きを伺います」
「私は、この国が水路でつながっていると知っていたわ。あの荷がどこへ行くのかも、その先に街があることも。でも、知っていただけ」
甲板の下には、アルヴェールとセレヴィアへ向かう荷がある。
「ここで戻れば、私はまた岸から船を見るだけになる。次にこうして乗れるのが、いつになるかもわからない」
ローデリックはしばらく黙っていた。
「立派な理由に仕立てるなよ、嬢ちゃん」
レイチェルが彼を見る。
「知りたいと思うのは勝手だ。だが、その代金を他人に払わせるな」
レイチェルは、まだクラリスに掴まれている自分の手を見た。船員、港務局、近衛、王宮。
「……ええ」
「帰りたくないことと、帰さなくていいことも別だ」
「わかっているわ」
「なら、手紙を書け」
◇
船尾の小卓へ、紙とインクが運ばれた。揺れる船の上では、王宮の机と同じようには書けない。レイチェルが一行目を書いたところで船が傾き、最後の文字がわずかに跳ねた。
「お母様へ――」
「その次だ」
ローデリックが言った。
「私は見るだけのつもりで――」
「いらん」
「まだ書いていないわ」
「顔に書いてある。必要なのは、つもりじゃなく、やったことだ」
レイチェルは筆を止めた。書き出しの下へ、しばらく何も足せなかった。遠くで連絡艇の旗が揺れている。紙を押さえ直し、今度は自分のしたことから書いた。
私は自分の意思で、ローデリック船長の船へ入りました。
出航までに戻れなかったのは私の行動によるものであり、船長および船員に責任はありません。
私はクラリスとともに無事です。
アルヴェールへ向かい、そこで王宮からの指示を待ちます。
最後に署名を入れ、王家の小さな携行印を押した。クラリスも別の紙へ、同じ事実を書いた。
「警護上の失態は、すべて私にあります」
「勝手に全部買うな」
ローデリックが止めた。
「お前さんは連れ戻すために入った。それも書け。近衛が王女と示し合わせて逃げたと思われたら、もっと面倒になる」
クラリスは一度だけ目を閉じた。
「私が、戻れと言われても戻らなかったの」
レイチェルが言った。クラリスは主君を見た。レイチェルは目を逸らさない。
「そこも書いて」
「……承知いたしました」
クラリスは書き直した。二通の手紙を油紙で包み、防水筒へ入れる。ローデリックは筒を綱へ結び、自分で二度引いて確かめた。
並走していた連絡艇が、書状を受け取る位置へ寄ってきた。横付けはしない。二隻は互いに帆を絞ったが、それでも水面の上を進み続けている。連絡艇の船首に立つ港務官が、短い投げ綱を頭上で回した。
その先の重りが、ローデリックの船の甲板へ落ちる。船員が綱を拾い、こちらの細綱を結んだ。港務官が引くと、防水筒が水面へ落ち、波を切りながら連絡艇へ渡っていく。
「王宮へ最優先だ!」
ローデリックが叫んだ。
「王太女殿下御自身の書状だ! 御身は無事、アルヴェールへ向かう!」
港務官の顔色が変わった。すぐに防水筒を抱え、外門番所へ向けて赤い緊急旗を上げる。連絡艇は速度を戻した。二人の港務官は、それぞれ舵と船首を離れない。艇は旋回し、やがて外水門へ続く航路へ入っていった。レイチェルは、小さくなっていく赤旗を見送った。
「あれが着けば、王宮は私たちが無事だとわかるのね」
「着けばな」
ローデリックは答えた。それから船員たちを見回し、苦い顔で笑った。
「あれが王宮へ着くまでは、俺たちは海の誘拐犯だ」




