第四話 船に乗らない約束
五日後、ローデリックの船が、フォローレシア王国の王都――水都ミスティクスへ戻った。
それを知ったレイチェルは、朝の公務をいつもより早く終わらせ、午後の予定に空きがあることを確かめ、自分で外出申請を書いた。二度目ともなれば、申請書の欄を埋める手も慣れている。
女王エレノアは、差し出された紙を最初から最後まで読み、それから娘を見た。
「条件は覚えていますか」
「クラリスから離れない。港の仕事を邪魔しない。船へ乗らない」
「港務官の指示に従う、です」
「そうだったわ。港務官の指示に従う」
「船には、渡り板も含みます」
「覚えているわ」
エレノアは許可印を押した。
「覚えていることと、守ることは同じではありませんよ」
「今日は守るわ」
その言葉を、レイチェルは本気で言った。
◇
港では、三つの鐘がそれぞれ違うものを告げていた。
街の鐘は時刻を知らせ、水門の鐘は水位を知らせ、岸壁の鐘は船を動かす。慣れた船員は音の高さだけで振り向く先を変え、荷役人は自分に関係のない鐘には顔も上げない。
外水門の上では、青と白の信号旗が風を受けていた。青旗が上がると、沖で待っていた船が動き始める。岸壁の男は綱を持ったまま待っていた。自分たちの番ではないらしい。
「前回より船が多いわ」
「北から穀物船が入る日です」
クラリスは答えながら、レイチェルと岸壁の間へ自分の身体を置いた。
「私、落ちないわ」
「落ちる方は、皆そうおっしゃいます」
レイチェルは反論せず、船を探した。
二本の帆柱に、塗り直した跡の残る船腹。新旧の布が混じった帆も見覚えがある。ローデリックの小商船は、前と同じ岸壁にはいなかった。水門に近い出港区画で、すでに次の荷を腹へ収めつつある。
「早とちりの嬢ちゃんが、また来たか」
甲板から低い声が降ってきた。
ローデリックは上着の袖を肘まで捲り、太い綱を片手で押さえていた。五日前よりも、古い船と馴染んで見える。
「今日は誰も倒さないわ」
「そりゃ港にとって何よりだ」
「あなたの船を見に来たの」
「見てるじゃないか」
「外からではなく、中を」
「いけません」
クラリスが答えた。ローデリックは肩をすくめる。
「五日前と同じだな」
「今日はお母様の許可を得て来たわ」
「船に乗る許可もか」
「それは……得ていないわ」
「なら、岸から見ろ」
ローデリックは容赦なく言い、船員へ綱を渡した。
船と岸壁の間には、荷を運ぶための渡り板が掛かっていた。その上を、二人の荷役人が細長い木箱を担いで上がっていく。木箱が甲板へ運び込まれると、ローデリックは渡り板を下り、岸に残った荷の札を確かめた。
レイチェルは渡り板の手前で止まった。母は、ここも船に含めた。
「あの箱は何?」
「農具の替え刃だ。帝国の鋼を、王都の工房で仕上げたものだな」
「隣の樽は?」
「油。こっちの巻いた布は染め直しに出す品だ」
「行き先が全部違うのに、同じ船へ積むの?」
「同じ方角だからな」
長箱にはアルヴェールの倉庫印。油樽にはセレヴィアの受取人。隣り合って積まれた荷の札に、違う街の名が並んでいた。
レイチェルは、荷札に結ばれた青い細紐を指した。
「これは?」
「銀行の保証がついている印だ」
「荷物はまだここにあるのに?」
「送り主には、もう代金の一部が渡ってる。荷が着けば残りが動く」
「お金の方が先に着いているのね」
「金は身軽だからな」
ローデリックが笑った。
「では、あれは全部あなたの荷ではないの?」
「全部買ってたら、船より先に俺の財布が沈む」
「では、あなたは何を運んでいるの?」
「約束だ」
レイチェルは首を傾げた。
「いつまでに、どの岸へ、濡らさず、壊さず届ける。荷主から預かるのは品物だが、売ってるのはそっちだ」
先ほどの長箱が、荷役口から船倉へ下ろされていく。岸から見えたのは、蓋の片隅までだった。
「あの長箱も、順番を間違えたら下ろせなくなるでしょう?」
「だから積む前に考える」
「どこへ入れたの?」
「前の方だ」
レイチェルは背伸びをした。見えるのは荷役口の縁と、梯子の上端だけだった。
ローデリックは話を終えると、渡り板を上がった。
「船長、外水門は午後二番の通門で変更なしです」
若い船員が板帳を手に報告した。
「前の穀物船次第だ。旗を見てろ」
「はい」
「それと、船倉を閉じる前にもう一度見る」
ローデリックは甲板中央の荷役口から、梯子を下りていった。しばらくして、下から樽を叩く鈍い音がした。
「何をしているの?」
「積荷の固定と、貨物の陰を確認しておられるのです」
クラリスが答えた。
「どうして陰まで?」
ちょうど梯子を上がってきたローデリックが、その問いを聞いた。
「金髪の娘が生えてないか見るためだ」
「私のこと?」
「他にいるなら会わせろ」
ローデリックは後ろから上がってきた船員に尋ねた。
「緩みは」
「ありません。検分通路も空いています」
「よし。荷役口は信号が変わったら閉じろ」
出航前の確認は終わった。
ローデリックは船首へ向かった。レイチェルは渡り板のすぐ手前まで進み、クラリスの視線に気づいて止まる。
「念のため申し上げます」
「何かしら」
「今の確認は、レイチェル様が船内へ入ってよいという意味ではございません」
「わかっているわ」
その時、外水門の塔で青旗が一段上がった。続いて、短い鐘が二度鳴る。甲板の空気が変わった。
「穀物船、遅延!」
岸壁の信号手が叫んだ。
「小型三隻、先行せよ! 次の水位合わせまでに外門へ!」
若い船員が船首へ走る。
「船長!」
「聞こえてる! 前綱を残せ、出港札を受け取れ!」
ローデリックの声が飛ぶ。
予定より早い出航許可だった。岸壁と甲板の人間が一斉に動き、束ねた綱が運ばれ、半ば畳まれていた帆が解かれる。最後の荷を運び終えた荷役人は、すでに岸へ戻っていた。船員たちは船首と船尾の作業へ散り、荷役口のそばにいた一人も、閉鎖用の綱を手に甲板の反対側へ回った。帆布が風にはためく音と、綱を送る声が重なる。
甲板中央の荷役口は、綱束の陰に半ば隠れていた。閉鎖綱を扱う船員の位置からは、その入口が見えない。渡り板の先にも、もう誰も立っていなかった。
レイチェルは、まだ開いている四角い口を見た。岸から覗けるのは、荷役口の縁と梯子の上端、それに下から漏れる灯りだけだった。先ほどの長箱も、もう見えない。船倉のどこへ収まり、他の荷とどう並んでいるのかを確かめたかった。
見るだけだ。さっきの長箱がどこへ収まったか、それを確かめたらすぐ戻ればいい。
母は、渡り板も船に含めた。船長にも、岸から見ろと言われた。意味は分かっている。それでもレイチェルは、一歩踏み出した。
「レイチェル様」
「すぐ戻るわ」
返事をしながら渡り板を越え、荷役口へ身を滑らせる。後ろで靴音が速くなった。
「お戻りください!」
クラリスは渡り板を駆け上がり、船首へ声を飛ばした。
「船長、出航を――」
鐘が鳴った。船首のローデリックは港務札を受け取っている。こちらを見ない。その間にも、金色の頭が梯子の下へ消えかけた。
クラリスは荷役口へ駆け寄った。まずは連れ戻す。そう決めて梯子へ足をかけた。青い外套が綱束の陰へ消えた直後、甲板の反対側で閉鎖綱が引かれた。
船長の点検を終えた荷役口に、重い蓋が滑っていった。
◇
船倉は、レイチェルが思っていたより狭かった。荷と荷の間には、人一人が身体を横にして通れるほどの隙間しかない。壁際には固定綱が幾重にも渡され、樽の底には楔が打たれている。空いた場所には、予備の帆布や水樽、船員の道具が収められていた。
灯りの下に、アルヴェールの印が見えた。
「あった――」
その先を確かめる前に、手首を掴まれた。
「戻ります」
クラリスの声には、もう問答する余地がなかった。
レイチェルは引かれるまま梯子へ向き直る。頭上で、木が噛み合う重い音がした。二人は同時に見上げた。梯子の先から、空が消えていた。
「閉められたわ」
「見ればわかります」
クラリスは梯子を上がり、蓋を押した。力を込めても動かない。
「上から留められています」
「呼べば開けてくれるでしょう」
クラリスが拳で蓋を叩いた。
「開けてください! 中に人がいます!」
返事はない。代わりに、甲板を走る足音と、滑車の回る音が響いた。
鐘が三度鳴った。今度はすぐ近く、船の上からだった。
「クラリス」
「船尾側に、船員用の昇降口があるはずです」
クラリスは梯子を下りた。船尾から、別の足音が聞こえている。
「こちらです。手を離さないで」
二人は細い検分通路を船尾へ進んだ。
その途中で、船体が大きく軋んだ。足元が、ごくわずかに傾く。樽を固定する綱が、一斉に低い音を立てた。レイチェルは足を止めた。
「今、動いた?」
「急いでください」
クラリスは答えなかった。
船尾の狭い階段を見つけ、二段飛ばしで上がる。上の扉には鍵が掛かっていなかった。クラリスが押し開ける。海風と光が、一気に船内へ流れ込んだ。
甲板では、船員たちが帆と綱へ向かっている。船首ではローデリックが外水門を見たまま、次の指示を飛ばしていた。近くの船員が振り返り、綱を握ったまま動きを止めた。
レイチェルは甲板へ出た。渡り板は、もうない。船と岸壁の間を、濃い水が流れていた。
白い石造りの港が、ゆっくりと後ろへ動いていく。港務塔の信号旗。その向こうに重なる水都の屋根。さらに高く、アクア・コロナが午後の光を抱いていた。
「クラリス」
「何でしょう」
「……岸が、遠くなっているわ」
「存じております」
ミスティクスの出航鐘が、水の上へ長く響いた。




