第三話 鉄の国の皇子
帝都アイゼンハイムで、貨物列車が止まって三分が過ぎていた。三分そのものは短い。だが、一本が止まれば、その後ろに続く列車も止まる。石炭が届かなければ炉が止まり、鋼材が遅れれば工廠が止まり、積み終えた兵糧は駅で夜を越す。
アガレスト帝国の中央貨物操車場では、すでに十七本の列車が動けなくなっていた。黒い煙が屋根のない空へ幾筋も上がり、機関車が苛立った獣のように蒸気を吐く。線路の間を伝令が走り、転轍手が怒鳴り、積荷監督官が書類の束を抱えて右往左往していた。
その中心で、二人の役人が互いの命令書を突きつけ合っている。
「軍務省の優先輸送だ! 先に西線へ入れる!」
「こちらは中央製鋼所への石炭だぞ! 第三炉群を冷やすつもりか!」
二人の間で、転轍手が旗を握ったまま待っていた。どちらの命令書にも、本物の印が押されている。
「何両だ」
大声ではなかった。それでも二人の役人は口を閉じた。
濃紺の軍装を着た男が、線路脇に立っていた。外套も勲章もなく、腰には儀礼用ではない剣を帯びている。煤を含んだ風が、やや長い銀髪を頬へ吹きつけたが、男は払いもせず、止まっている二本の列車を見ていた。
アガレスト帝国第二皇子、リシャールだった。鉄道局の役人が姿勢を正した。
「軍用貨車、三十二両であります」
「積荷は」
「ございません。西部集積所へ返送する空車です」
「石炭列車は」
「四十六両。正午までに中央製鋼所へ入らなければ、第三炉群の操業を落とすと」
リシャールは二枚の命令書を受け取った。軍用貨車には軍務省輸送局が発行した最優先の通行証。石炭列車には帝国産業院が発行した緊急輸送の指示書。
どちらも正しい。そして、どちらにも、この駅で相手とぶつかることは書かれていなかった。
「西側の待避線は何両入る」
「二十両です」
「荷役二番線は」
「十四両までです。今は空いています」
リシャールは二本の側線を目で追った。
「分けて退避させる案は出たか」
「十九両と十三両に分ければ、双方へ入ります。しかし輸送局からは、最優先編成を崩すなと」
鉄道局の役人は、言いながら軍務省の印を見た。
軍務省の役人が口を挟む。
「軍用列車の編成を崩すには、輸送局の許可が――」
「この空車が遅れれば、西部では何が止まる」
「明日の積み込みに使います」
「今日中に着けばいいのだな」
「はい。ただ、命令違反の記録が残ります」
リシャールは随行書記官へ手を出した。受け取った筆で、命令書の余白に時刻と変更内容を書き、署名する。
「私の命令による変更だ。現場の違反にはするな」
役人が紙を受け取る。その指が署名の上で止まったのを見てから、リシャールは線路へ向き直った。
「分けろ。石炭を先に通す」
「連結のやり直しに、どれだけかかる」
「熟練班を回せば、四十分ほどです」
「実際にかかった時間を残せ。明日、鉄道局と輸送局で予定表を合わせろ。この衝突が他にもないか、そこから調べる」
書記官が書き留める横で、転轍手がようやく旗を上げた。
命令が伝わると、操車場が一斉に動き始めた。連結器が外され、転轍機が切り替わり、蒸気機関車が重い車輪を軋ませる。
最初の貨車が側線へ入るまで、リシャールはそこにいた。
「先ほどの案を出した者にも、変更を伝えておけ」
鉄道監督官にそれだけ言い、線路を離れた。
◇
操車場に設けられた視察用の執務車両へ戻ると、帝都からの使者が待っていた。赤い封蝋には、帝国の公印が深く押されている。リシャールが封を切る間、随行書記官は机の向かいに立ったまま動かなかった。
文面は短い。アガレスト帝国とフォローレシア王国の友好、通商および技術交流を目的として、正式使節団を派遣する。全権代表には、第二皇子リシャールを任ずる。
両国の間で、使節団の往来そのものは珍しくない。商人と船荷は日々行き交い、官吏や技術者も必要に応じて互いの国を訪れている。今回、普段と異なるのは、その代表を皇族が務めることだった。
「出発は」
「十二日後です。外務院は、随員名簿を明朝までに確定させたいと」
「今日中に持ってこさせろ。必要な者が抜けていれば、追加の手配が要る」
「承知しました」
書記官が訪問先の資料を開いた。水都ミスティクス。運河に面した白い建物が重なり、その上に巨大な水球が浮かぶ挿絵だった。
リシャールは絵より先に、その下に記された数字を見た。帝国から流れ込む鋼材量、ミスティクスを経由する船荷、王国系銀行が保証する帝国商人の取引額。鉄道で国境まで運べば終わる数字ではない。
「港の荷役能力も入れろ」
「港、ですか」
「こちらの輸送量を増やしても、向こうの岸で積み替えられなければ同じだ。倉庫と水路の処理量も必要になる」
「承知しました」
窓の外で、貨車の連結音が響いた。書記官が頁をめくる。
「交渉責任者は、女王エレノア三世陛下です。外務卿、財務卿、王国通商院長が同席する見込みです」
「王配は」
「儀礼行事には御出席なさいますが、実務交渉には加わられません」
「王太女」
書記官が一枚戻した。
「レイチェル殿下。十七歳。近年は女王名代として国内公務へ出ておられます。歓迎式典と晩餐会には御同席の予定です」
金色の髪を整え、正面を見つめる少女の肖像が添えられていた。その下には教養、名代経験、水魔法の適性。王国側から公表されている経歴が、短く整然と並んでいる。
「実務上の決定権は」
「最終的には女王陛下が」
「ならば交渉準備は女王を基準にする。王太女については、儀礼上の無礼がないだけの情報でいい」
リシャールは肖像の頁を閉じた。十七歳の王女がどれほど聡明か、どれほど将来を期待されているか。それは今度の使節団が結ぶ条件にはならない。少なくとも、現時点では。
書記官は肖像の頁から栞を抜き、女王の経歴へ挟み直した。
資料の末尾には、使節団とは別件の薄い別紙が一枚だけ添えられていた。
以前、両国の国境に近い空から、強い光を伴う何かが落下し、フォローレシア王国領内へ消えたという目撃情報があった。隕石ではないかという見方が大勢だったが、落下地点も残骸も確認されていない。帝国は念のため、王国側で何か把握していないか、非公式に照会していた。
「王国からは」
「把握していない。おそらく隕石だろう、と」
「残骸がなければ、それ以上は分からん」
「追加の照会は」
「いらん。記録だけ残せ」
リシャールは別紙を元の位置へ戻した。
◇
最後の報告書は、夕刻になって届いた。
操車場の混乱はすでに解け、優先して通した石炭列車は正午までに中央製鋼所へ入っていた。窓の外では、再び三十二両に組まれた軍用貨車が西部集積所へ向けて走り出している。黒煙の向こうで、アイゼンハイムの工場群が赤い夕日を跳ね返していた。
封筒の隅に、細い三本線が刻まれていた。技術者リュディガーが、重要度の高い私信にだけ使う印だった。リシャールは一枚目を読み、二枚目で眉をわずかに動かした。
「予定より進んでいるのですか」
書記官が尋ねた。
「成果はな」
国境沿いの河では、極少人数による先行研究が行われていた。本来は帝国側の河岸で、予備的な試験だけを行う予定だった。ところが春の増水で流路が変わり、古い境界標の一つが水中へ沈んだ。現在の主流を国境とするか、以前の河道を基準とするかで、両国の地図は一致していない。
リュディガーは、その曖昧さを研究の中止理由とは考えなかった。むしろ、人が来ない理由として利用していた。
「本日予定していた撤収を、十二日後へ延ばしたいとあります」
「延期後の撤収日が、使節団の出発日と同じです」
「分かって書いている」
「ゴッズ大将への報告は」
「していない」
「まだ、ということでしょうか」
「違う。報せれば止められると分かっているから、していない」
リシャールは報告書を裏返した。
成果は捨てがたい。しかし秘密研究がフォローレシア側に発覚すれば、十二日後の使節団は友好の使者ではなく、証拠を隠すための一団と見なされかねない。
昼に届いた任命状を脇へ寄せる。同じ国名が書かれた二枚を、重ねて置く気になれなかった。
「即時撤収を命じますか」
「まず撤収準備を命じろ。新しい試験は認めない。搬出の手順と、必要な日数も報告させる」
「従いますでしょうか」
リシャールは二枚目を見直した。撤収延期の理由には、成果の重要性が何行にもわたって書かれている。準備に要する日数は、どこにもなかった。
「帰れと言うだけでは、帰るまでの研究を増やす」
「では、護衛を増やしますか」
「人数を増やせば、秘密ではなくなる」
リシャールは机の上へ国境地図を広げた。帝国の鉄道線と製鋼都市、軍の集積所、それにフォローレシアへ向かう使節団の正規経路が描かれている。そのどれからも少し外れた場所を、一本の河が流れていた。
「出発日を二日早める」
「外務院との合流に間に合いません」
「使節団本隊は予定どおりでいい。私と必要な者だけ先に出る。先に準備を進めさせておき、私が現地で撤収を確かめる」
書記官は地図を見た。
「殿下御自身が、国境河へ向かわれるのですか」
「これから訪問する国との境で、説明できないものを残したまま、友好を語るつもりはない」
「危険です」
「承知している」
書記官は筆を止めた。
「殿下が赴かれれば、発覚した際に、現地の独断とは説明できなくなります」
リシャールの指が地図の上で止まった。
窓の外を、空の貨車が通り過ぎていく。昼には署名一つで、現場の違反を自分の命令へ変えた。今度の紙には、署名するだけでは済まないものが残っている。
「ここで報告を読んだ以上、すでに独断では済まん」
リシャールは言った。
「だから、持ち帰らせる」
国境河へ印をつけた。水都ミスティクスへ向かう正式な旅程の脇に、細い迂回線が一本加わる。書記官が新しい出発時刻を書き入れた。
フォローレシア王太女レイチェルの名は、まだ別の紙にあった。




