第二話 港の老人
翌日、レイチェルは港へ行けなかった。女王エレノアは、自分で言ったことを忘れない母だった。
午前は前日の報告書を書き直し、午後は港務局から届いた回答を読んだ。南船着場の使用料は、滞留日数に応じて一部差し引かれる。祭礼用区画も半分だけ臨時の荷置場として開かれ、東倉庫の補修は職人を増やさず、作業順を変えることで三日短縮できる見込みだという。
赤い帽子で前歯の欠けた船頭についても、氏名まで追記されていた。
「歯の記述は有効だったでしょう」
「船の係留番号で判明したそうです」
クラリスはそう答えたが、レイチェルは自分の手柄ということにした。
そして二日目の朝、レイチェルは、港務局の確認書と自分で書いた外出申請を抱え、母の執務室に立っていた。
「南船着場だけを見て、港を見ないままでは報告が途中だわ」
「あなたの報告書は、昨日受理しました」
「でも、船がどこから来て、港で何を積み、どこへ運ばれるのかは書けなかったもの」
「新しい報告書を増やすつもりですか」
「必要なら」
エレノアは申請書へ目を落とした。目的、経路、同行者、帰還予定。欄はすべて埋まっている。同行者の欄には、クラリス・ウェルフォードと書かれていた。
扉の脇に立つクラリスは、祈るような顔で母娘を見守っている。
「お母様が言ったのでしょう。市井を見るなら、見たものに責任を持ちなさいって」
「言いました」
「だから、最後まで確かめたいの」
エレノアは少しの間、娘を見た。遊びに出たいだけなら、レイチェルはもっと上手に理由を並べる。今は珍しく、逃げ道を作らずに許可を求めていた。
「条件が三つあります」
「聞くわ」
「クラリスの視界から出ないこと。港務官の指示に従うこと。船へ乗らないこと」
「……乗らないわ」
「今の間は何ですか」
「船のどこからが『乗った』ことになるのか考えていただけよ」
「舷側より内側です」
エレノアは迷いなく境界を定めた。
「渡り板も含みます」
レイチェルの考えていた抜け道は、使う前に塞がれた。
「お母様は、私の考えることがわかりすぎるわ」
「十七年も母をしていますから」
外出許可の印が押された。クラリスが、誰にも気づかれないほど小さく息を吐いた。
◇
ミスティクスの港は、市場の水路より声が大きかった。荷役を急かす鐘が鳴り、帆桁から船員の怒鳴り声が飛ぶ。木箱を下ろす滑車の軋みに混じって、海鳥は人間の都合など知らず、魚の籠を狙って鳴いている。
潮と油と濡れた綱の匂いが混ざり、沖から入る風が、アクア・コロナの淡い水光を細かく砕いていた。内陸へ続く主水路の入口には大小の船が順番を待ち、船腹の高い外洋船から下ろされた荷が、それより浅い艀へ積み替えられて街の水路へ散っていく。
昨日まで紙の上にあった線が、今日は人と荷物になって動いていた。
「あれは何を運んでいるの?」
「北方産の毛織物です」
案内役の港務官が答える。
「では、その隣は?」
「樽の印からすると果実酒かと」
港務官が樽の印について説明を続けようとした時、レイチェルはもう次の船へ歩きかけていた。船縁に積まれた荷を指して、また口を開く。
「あちらの黒い箱は?」
「殿下」
クラリスが割って入った。
「次へお進みになる前に、説明を最後までお聞きください」
「今、答えは聞いたわ」
「荷の名前だけでなく、印の読み方もご説明くださるところでした」
港務官は笑いを噛み殺し、手元の板帳へ視線を落とした。
王太女が来ると聞いて、港全体が取り繕われた様子はない。荷は重く、船員は汗をかき、監督役は怒鳴っていた。もっとも、レイチェルの進路だけは昨日までより念入りに掃かれているようだった。
「あの綱、新しいでしょう」
レイチェルは太い係留綱を指した。
「よくお気づきになりました。南船着場から滞留船が回ってくるため、今朝交換しました」
「昨日の報告が、もうここへつながっているのね」
「港は一か所が止まると、別の場所へ負担が流れますので」
レイチェルは頷いた。新しい綱は、すでに船の重みを受けて張っている。昨日、紙の上でようやくつながったものが、今日は目の前で別の誰かの仕事になっていた。
その時、荷揚げ場の奥で短い怒声が上がった。レイチェルは顔を向けた。積み上げた木箱の向こう、港の表通りから外れた倉庫と岸壁の隙間に、五人の男がいる。四人は若く、揃って柄が悪い。残る一人は老人だった。
ただし、守ってやらなければ風に飛ばされそうな老人ではない。背が高く、肩幅は若い男たちより広い。日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、灰色の髪を無造作に首の後ろで束ねている。古びた外套は潮に焼けていたが、厚い生地と丁寧な仕立てには、元が上等な品だった名残があった。
四人に囲まれているのに、老人だけが慌てていない。
「荷札を置いて、この港から消えろ」
若い男の一人が言った。
「そうすりゃ、骨の二、三本で済ませてやる」
「親切な話だな」
老人は低い声で応じた。
「で、お前らにそれを頼んだのは誰だ」
「知ってどうする」
「礼を言いに行くのさ」
老人は笑っていた。
「もっとも、名も出せん小物なら、探しようもないが」
先頭の男の口元が歪んだ。
「小物だと? 俺たちを寄越したのは――」
「そこまでよ」
男が言い切るより先に、レイチェルは吊り荷が岸壁を横切る直前の隙間を抜け、木箱の陰から出た。
クラリスの手が外套の端をかすめる。直後、吊り下げられた大きな木箱が二人の間へ入った。
「荷を止めて! 港務官、警備兵を!」
クラリスは声を飛ばし、箱の回る先を避けて岸壁側へ回り込んだ。
老人が、初めて嫌そうな顔をした。
「何だ、お前」
「通りがかった者よ。その人から離れなさい」
レイチェルは四人と老人の間へ進んだ。背後から、クラリスが自分を呼ぶ声がする。
クラリスはすぐそこにいるし、声も届いている。これくらいなら、視界から出たことにはならないはずだ。母との約束を頭の中で確かめたが、確かめる必要がある時点で、クラリスには叱られると分かっていた。
「嬢ちゃん」
老人が言った。
「悪いことは言わん。そこをどけ」
「大丈夫。すぐ終わるわ」
「そういう意味じゃないんだがな」
四人のうち、いちばん細い男が笑った。
「爺さんの次は、お姫様ごっこか」
地元の者ではないらしい。それなら、レイチェルの顔を知らないこともある。
「最後に言うわ。その人から離れなさい」
「嫌だと言ったら?」
「あなたたちが後悔する」
「お前が、じゃなくてか」
「ええ」
男の手が、レイチェルの肩へ伸びた。触れるより先に、レイチェルは半歩沈んだ。岸壁の排水溝を流れていた水が細い帯になって跳ね上がり、男の手首へ巻きついて、その腕を下へ引く。
「なっ――」
体勢を崩した男の足を払い、濡れた石畳へ転がす。
隣の男が拳を振り上げる。レイチェルは身を翻して空いた脇をすり抜け、水帯を男の足首へ移した。踏み込んだ足だけを横へ払い、二人目が一人目の上へ倒れる。
「こいつ、魔法を使うぞ!」
「今さら気づいたの?」
三人目が短い棒を抜いた。レイチェルは水帯を放し、振り下ろされる棒の外へ踏み込んだ。手首を押して向きをずらす。棒が木箱へ食い込み、男の膝裏を蹴ったところで、背後から金属の擦れる音がした。
最後の男が老人へ刃を向けていた。
「動かないで!」
自分の声が、思ったより鋭く出た。排水溝の水を引き上げ、二筋に割る。一筋で手首を打ち、もう一筋で足元を払う。刃物が石畳へ落ち、男の身体もその隣へ転がった。
四人が倒れるまで、ほんの数呼吸だった。
水は勢いを失い、何事もなかったように排水溝へ戻っていく。レイチェルは裾を整え、少し得意げに胸を張った。
「もう大丈夫よ」
止められた吊り荷の脇から、クラリスが駆け込んできた。
「レイチェル様!」
まずレイチェルの手、顔、衣服を見る。怪我がないと確かめてから、倒れた四人と落ちた刃物へ目を移した。起き上がろうとした男を鋭い視線で制し、落ちた刃物を足で遠ざける。
「そのまま。動かないでください」
老人は倒れた男たちを見た。次にレイチェルを見て、最後に、先ほど男が何かを言いかけていた空間へ目を向ける。
「……余計なことしてくれたな」
「何ですって?」
「いや、気持ちはありがてぇんだがよ」
老人は大きな手で額を掻いた。
「あと一息で、こいつらに俺を追い払わせた奴の名が聞けた」
レイチェルは倒れた四人を見た。先頭の男は鼻を押さえながら、仲間へ黙れと目配せしている。
「今から聞けばいいわ。まだ話せるでしょう」
「今からじゃ、こいつらは自分が助かるための名を言う。本当の名かどうか、わからん」
レイチェルは足元へ目を落とした。さっきまで操っていた水は、もう細い流れに戻っていた。
「……それは悪かったわ。でも、骨を折るなんて言っていたのよ」
「ああ」
「殴られてから助けたのでは遅いわ」
老人は口を閉じた。灰色の眉の下から、レイチェルをまっすぐ見る。やがて、喉の奥で低く笑った。
「それもそうだな」
「でしょう」
「俺が本当に何もできん年寄りなら、上出来だ」
「四人に囲まれているところだけ見れば、何もできないように見えたわ」
「そいつは早とちりってやつだ、嬢ちゃん」
クラリスは倒れた四人から、ようやく老人へ視線を移した。その顔を見て、表情が変わった。
「……ヴェイル卿?」
老人もクラリスを見る。
「今はその呼び方をされる覚えはねぇな」
「ローデリック・ヴェイル卿でいらっしゃいますね」
クラリスは警戒を解かなかった。それでも、声には明らかな敬意が混じっている。
レイチェルは老人を見上げた。
「ローデリック・ヴェイル?」
「知ってるのか」
「名前は。海の仕事をしていた人でしょう」
老人の眉が上がった。
「ずいぶん広い括りだな」
「一隻の船から、大陸屈指の海運網を築かれた方です」
クラリスが答えた。
「昔の話だ」
「では、今は?」
「見ての通り、一隻の船長だ」
「それで、どうして荒くれ者に囲まれていたの?」
「今、その話を始めますか」
クラリスが遮った。港の警備兵が駆けつけ、倒れた男たちを取り囲む。ローデリックは四人を一瞥した。
「そいつらは別々に連れていけ。同じ部屋へ入れると、話を合わせるぞ」
警備兵は一瞬ためらい、クラリスを見る。
「ヴェイル卿のおっしゃるとおりに。所持品も、一人ずつ記録してください」
「承知しました」
男たちは引き起こされ、それぞれ違う兵に連れられていった。先ほどまでの喧騒が、少しずつ岸壁へ戻ってくる。
クラリスはレイチェルへ向き直った。
「陛下とのお約束を、覚えておいでですか」
「覚えているわ。あなたの視界から出ていないし、港務官の指示には――」
「危険へ飛び込んでよいとは、どこにも書かれておりません」
「四対一だったのよ」
「殿下が入られれば、四対二になるという問題ではございません」
「でも、四対一よりはいいでしょう?」
「そういう数え方をなさらないでください」
ローデリックが、声を立てて笑った。
「苦労してるな、騎士殿」
「笑い事ではございません、ヴェイル卿」
「卿はやめろ。港じゃ船長で十分だ」
「それでも、あなたがローデリック・ヴェイルであることは変わりません」
クラリスの返答に、老人は少しだけ目を細めた。
倉庫の向こうから、若い船員が顔を出した。
「船長! 最後の樽、積み終わりました!」
「今行く」
ローデリックは片手を上げた。
その先に、一隻の商船が停まっていた。大陸中に名を知られた人物の船としては、驚くほど小さい。帆柱は二本で、船腹には何度も塗り直された跡がある。帆には新しい布と古い布が混じり、船首の飾りもない。
けれど、甲板を動く船員たちに迷いはなかった。誰かに怒鳴られなくても、それぞれが次に運ぶものを知っている。綱が引かれ、樽が固定され、一つの作業が終わる前に次の手が伸びていた。
ローデリックが歩き出すと、港の者が自然に道を空けた。王女に対して取るような礼ではない。その背中が通るなら、そこを道にする。そんな空き方だった。
「待って」
レイチェルは呼び止めた。
「あの船、あなたの船なの?」
「今はな」
「中を見てもいい?」
「いけません」
クラリスが即答した。ローデリックは顎で彼女を示す。
「だそうだ」
「あなたに聞いたのよ」
「俺は命の恩人様の護衛を敵に回すほど、命知らずじゃない」
「私が助けたことは認めるのね」
「策を潰されたことも忘れちゃいないがな」
ローデリックは船へ向き直った。
「次に誰かを助ける時は、殴る前に一つくらい事情を聞け、娘っ子」
「では次は、もっと助けられたような顔をしていて」
「無茶を言うな」
大きな背中が渡り板を上がっていく。
レイチェルは、その足元から船内へ運び込まれる荷を目で追った。樽、木箱、巻いた布、封をされた小さな包み。あれらはどこから来て、どこへ行くのだろう。あの船の中では、誰が何をしているのだろう。
「レイチェル様」
「乗らないわ」
「まだ何も申し上げておりません」
「顔に書いてあるもの」
商船の帆が、海からの風を受けて一度だけ大きく鳴った。
レイチェルは船へ乗らなかった。
その日は。




