第一話 水冠の王女
「レイチェル様ぁ――っ!」
水都ミスティクスの朝に、一人の近衛騎士の声が響き渡った。
白い回廊を抜け、段丘の庭園を越え、幾筋もの滝の音に消えていく。その声を聞いた侍女が窓を開け、庭師が顔を上げた。
「今日はお早いですね」
「まだ朝食の片付けも終わっていないのに」
誰も驚かなかった。
王女付き筆頭近衛騎士、クラリス・ウェルフォード。青い髪の彼女は、剣と水魔法の腕を王国でも高く評価されている。だが、その実力を最も頻繁に試してくる相手は、敵でも賊でもなかった。
フォローレシア王国の王太女、レイチェル。十七歳。
現在、逃走中である。
「講義まで一時間。市場まで十五分、往復三十分。焼き菓子を買っても余裕があるわ」
当の本人は、すでに王立アクアリア宮の外にいた。
朝凪宮の衣装室から古い使用人扉を抜け、壁の内側の階段を下り、使われなくなった水位監視廊を通る。庭師の倉庫を出た先には西の段丘庭園。旧物資門をくぐれば、市街地へ続く小橋はすぐそこだ。
長い年月をかけて覚えた、誰にも褒めてもらえない近道だった。
レイチェルは外出着の裾をつまみ、坂を駆け下りた。
眼下に広がるのは、幾重にも重なる白亜の建物と運河の街。荷船が石橋の下を滑り、商店の軒先には開店を知らせる旗が揺れている。水路の先には、朝日に輝く内海が見えた。
背後の王宮の高空には、巨大な水球が浮かんでいた。
青く透き通る水球から、四本の細い水帯が制御塔へ伸びている。その水は王都の運河を満たし、遠くの街や農地にも届く。
王国の跡取りが、焼き菓子のために全力疾走していた。
「おはよう、レイチェル様」
橋の手前で、花売りの女が籠を並べていた。
「おはよう。今日は私を見なかったことにしてね」
「お花は見ていかれませんか」
「帰りにするわ。今は急いでいるの」
「そうですか。お気をつけて」
あっさり見送られたことが、少し意外だった。
「今日はうまくいきそう」
レイチェルが橋を渡りきると、花売りは水桶を運んでいた少年を手招きした。
「青い髪の近衛さんに会ったら、王女様は市場へ向かわれたと伝えておくれ」
少年は頷いて、宮殿へ続く坂を駆け上がっていった。
◇
「間に合った!」
市場の角にある菓子屋へ滑り込むと、蜂蜜を塗った丸い焼き菓子が、ちょうど焼き台から下ろされるところだった。
「一つ。端の、よく焼けたものをお願い」
「はいよ。今日も早いですね」
店主が紙を広げる横で、先客の女がパンを二枚、籠から取った。硬貨を数えた店主が、申し訳なさそうに告げる。
「昨日から値上げしたんだ。その額だと少し足りないね」
女は値札と手の中の硬貨を見比べ、しばらく迷った末、一枚を籠へ戻した。
「じゃあ、今日は一枚で」
レイチェルは道を譲った。女の持つ袋には、ほかに野菜が少し入っているだけだった。
「これも値上がりしたの?」
レイチェルが尋ねると、店主は焼き菓子を包む手を止めた。
「ええ。粉の仕入れが上がりまして」
「蜂蜜は?」
「変わってません」
「お砂糖も?」
「そちらもです」
「なら、粉なのね。どうして上がったの?」
「粉問屋の話じゃ、西大橋の工事で運び賃が上がったそうですよ」
レイチェルは眉を寄せた。
西大橋の修繕なら、王宮で報告を読んだ。全面通行止めにはせず、荷馬車を交互に通す計画だったはずだ。
「でも、橋は通れるでしょう?」
「さあ。私は馬車を引くわけじゃありませんから」
店主の答えはもっともだった。菓子屋に、橋の運用まで知る義務はない。
レイチェルは代金を払って菓子を受け取った。
「お釣りは明日!」
「明日もいらっしゃるんですか!」
返事をせずに飛び出す。店先の角を曲がると、粉問屋の印が付いた麻袋を運ぶ二人の男が見えた。
「ねえ、ちょっと!」
若い荷運び人が振り返り、王女の顔を見て小車の取っ手を放しかけた。年嵩の男が慌てて支える。
「おはようございます、レイチェル様。今日は何のご用で?」
「西大橋の工事で、そんなに荷が遅れるの?」
「橋は通れますよ。ただ、一台ずつでね。待っている間に昼になっちまう」
「それで?」
「南へ回して、船で運ぶようにしたんです」
「船の方が早いの?」
二人は顔を見合わせた。
「先週までは」
「今は?」
「南船着場が詰まってます。この粉だって、昨日の昼には着くはずだった」
男が麻袋を叩く。
「船が空かないから、待つ間も人が要る。荷を預ければ倉代がかかる。馬も餌を食いますからな」
「だから運び賃が上がるのね」
「そういうことでさ」
「南船着場に行けば、理由が分かる?」
「行けば分かるでしょうが……」
男が答え終える前に、レイチェルは礼を言って走り出した。
少し遅れて、背後から短い警笛が聞こえた。
「見つかった!」
レイチェルは速度を上げる。正面から魚籠を担いだ男が来た。右には荷車、左には細い水路。彼女は車輪止めを踏み、荷台の端に片足をかけて飛び越えた。
「おい、姫さん! 鯖を蹴るなよ!」
「蹴ってないわ!」
着地した拍子に左の袖がずれた。細い革帯に留められた小さな丸い文字盤がのぞき、朝日が硝子の表面を一瞬だけ走った。レイチェルはすぐに袖を引き戻し、角を曲がった。
魚屋は、遅れて駆け込んできたクラリスへ声を張り上げた。
「クラリス様、南だ! 今そこの角を曲がった!」
「ありがとうございます!」
「レイチェル様! お止まりください!」
クラリスの声は、思ったより近かった。
「理由を調べたら戻るわ!」
「戻ってから調べてください!」
「戻ったら出してもらえないでしょう!」
「当然です!」
レイチェルは細い路地へ飛び込んだ。洗濯物の下をくぐり、石段を下り、低い橋を渡る。普段から使っている近道だったが、今日は途中で水管の工事が始まっていた。
「危ない! そっちは掘ってあるぞ!」
職人の声に足を緩めた時には、もう穴の手前だった。レイチェルは端の石縁を踏んで反対側へ跳び、着地した勢いのまま駆け抜ける。
「大丈夫!」
「こっちが大丈夫じゃねえ!」
職人は胸を押さえた。直後に現れたクラリスには、慌てて足場板を渡す。
「どうもありがとうございます」
「いや、礼なんざいいから、早く捕まえてくだせえ!」
クラリスは板を渡って追いかけた。次の角でいったん足を止めると、遠ざかる靴音とは反対の道へ曲がった。南船着場へ下りる階段は、結局そこで一つになる。
◇
南船着場は、レイチェルの予想よりも混雑していた。
荷車が三列に並び、艀が船腹を寄せたまま順番を待っている。東倉庫には修繕用の足場が組まれ、隣の広い石敷きの区画は縄で閉ざされていた。荷を置けそうな場所なのに、そこだけ何もない。
レイチェルは、水路を見渡してから、係留杭に腰掛けている赤い帽子の船頭へ近づいた。
「何日、待っているの?」
男は片方の前歯が欠けた口を開けて笑った。
「俺は二日。後ろの麦船は三日目だ」
「荷を降ろせないの?」
「場所がないんですよ。あの空き地でも使えりゃ違うんでしょうがね」
「祭りの資材置き場でしょう。でも、祭りは二十日も先よ」
「役所の予定表じゃ、もう始まってるらしい」
レイチェルは空き地と倉庫を見比べた。今朝、粉問屋で聞いたことが少しずつ形になっていく。
「橋の工事で、荷がこっちへ増えた。でも倉庫も工事中で、空き地は使えない。だから船が待つしかないのね」
「そういうことです」
「……分かったわ」
「そりゃよかった」
赤帽の船頭は、気のない拍手を二度した。
「じゃあ、俺たちは今日帰れますかね」
レイチェルは答えようとして、口を閉じた。
空き地の縄を外せば、今ある荷は置けるかもしれない。だが祭礼の資材はどこへ運ぶのか。工事の順番を変えれば、ほかの職人の仕事はどうなるのか。そこまで自分が決めてよいのか、答えは持っていない。
「今日帰れるとは、約束できないわ」
船頭は笑うのをやめた。
「じゃあ、誰なら約束できますかね」
レイチェルは相手の顔を見た。
「決められる人に話す。ここで起きていることを、きちんと伝えるわ」
「船着場の使用料も頼みますよ。動けない日まで、きっちり取られてる」
「それも書くわ。赤い帽子の……」
「名前を聞いてくだせえよ」
その時、短い警笛が鳴った。
赤帽の船頭が振り向く。
奥の岸壁で、荷を積んだ艀が横へ流れ始めていた。船員が綱を手繰っている。だが船尾を留めていた綱が岸壁から外れ、流れに押された船体が斜めに振られていた。
「後ろの船、下がれ!」
「下がれない! 船が詰まってる!」
艀の先には、小さな渡し船がいた。ちょうど乗客を降ろしているところで、まだ三人が船内に残っている。
渡し船の船頭が櫂を突っ張った。だが片側には岸壁、反対側には別の荷船がいる。逃げる余地がほとんどなかった。
「渡し板を外せ! 早く!」
怒声が飛ぶ。
渡し船にいた幼い女の子が、揺れに驚いて母親へしがみついた。母親の足元もふらついている。
レイチェルは走り出した。
「姉ちゃん、近づくな!」
赤帽の船頭が叫ぶ。
けれど、レイチェルは水際で止まった。飛び込むつもりはなかった。まず二隻の位置を見た。
荷船は重い。流れに逆らって正面から押し返すには、時間が足りない。渡し船の方なら動かせる。船首の右前方に、岸壁へ沿う細い逃げ道が残っていた。
「渡し船の船頭さん! 舵を右へ!」
「右だと? あっちは岸壁だ!」
「岸と平行にするの! 船尾は私が押すから!」
渡し船の船頭がレイチェルを見た。迷っている暇はなかった。舵が切られる。
レイチェルは両手を伸ばした。
水路の水が、船底に沿って動き始める。
少しずつ流れを変える。勢いではなく、向きが必要だった。渡し船の船首が、ゆっくりと岸壁に沿い始める。
「動いてるぞ!」
岸の荷役人が叫んだ。
「前の綱を取って! そこへ寄せるわ!」
二人の男が投げ綱を用意した。渡し船の船頭も、懸命に櫂を動かす。
しかし、迫る艀の船腹が、思ったより速く距離を詰めた。
レイチェルは唇を噛む。
あと少しで渡し船が外れる。あと少しだけ、速く動けば。
「……もう少し!」
魔力を強めた。
船尾の下から水が大きく盛り上がる。渡し船は一気に前へ滑った。だが同時に、船体が横へ傾いた。
「きゃあっ!」
女の子の悲鳴が響いた。母親が手すりをつかみ、娘を抱き寄せる。
レイチェルは反射的に力を緩めた。
水が船底から逃げ、渡し船の揺れが収まる。
けれど、その間にも艀は迫っていた。
「レイチェル様! そのまま、渡し船の進路を保って!」
聞き慣れた声が、岸壁へ響いた。
「クラリス!」
青い外套が荷車の陰から現れた。クラリスは一瞬で二隻の位置を見て、岸壁の男たちへ声を飛ばした。
「荷船の船尾綱を確保してください! 船首は私が抑えます!」
水面から、太い水の帯が立ち上がった。
レイチェルのものとは違う。無理に押し返さず、荷船の横滑りだけを止めるように、流れが幾筋にも分かれて回り込む。重い船体が軋み、わずかに速度を落とした。
「今です!」
「分かってる!」
レイチェルは渡し船へ意識を戻した。先ほどのように力を込めすぎず、船尾の下へ細い流れを通す。
渡し船の船頭が櫂を突く。岸壁から投げられた綱を船員が受け取り、杭へ回した。
「引け!」
男たちが綱を引く。
渡し船は、ぎりぎりで艀の進路から外れた。
直後、荷船の船腹が岸壁の防舷材へぶつかった。木の砕ける音がして、水しぶきが上がる。だが荷船はそれ以上流されず、港務の職員が次々に綱を取った。
警笛が三度鳴った。
後続の船が停止する。岸壁では乗客と船員の安否確認が始まった。
「三名、全員無事!」
「こっちも怪我人なしだ!」
レイチェルは両手を下ろした。胸が大きく上下している。
渡し船から降りた女の子が、母親にしがみついて泣いていた。母親も青ざめていたが、その足はしっかり石畳を踏んでいる。
「……よかった」
「よくありません」
すぐ背後から声がした。
振り向くと、クラリスが立っていた。青い髪は少し乱れていたが、息は上がっていない。
怒っている時ほど姿勢が美しくなるのは、レイチェルにとって恐ろしいところだった。
「クラリス……怒ってる?」
「はい」
「全員無事だったわ」
「承知しております」
「ちゃんと船頭さんにも声をかけたし、岸の人にも手伝ってもらったのよ」
「それも見ていました」
「なら――」
「最後に魔力を強めた時、渡し船が大きく傾きましたね」
レイチェルは言葉を飲み込んだ。
女の子の悲鳴が、まだ耳に残っている。
「……ええ」
「あのまま続けていれば、今度はあなたの魔法で乗客を危険にさらしたかもしれません」
「分かってる。だから止めたわ」
「止められたのはよかったと思います」
クラリスは一呼吸置いた。
「最初に渡し船の進路を変えた判断も、適切でした。ですが、船体を動かす力の加減には、まだ訓練が必要です」
「……褒めてるの? 叱ってるの?」
「両方です」
レイチェルが言い返そうとすると、渡し船の母親が近づいてきた。
「あの……ありがとうございました。娘を助けていただいて」
レイチェルは女の子へ膝を折り、顔の高さを合わせた。
「怖かったでしょう。怪我はない?」
女の子が頷く。
「お姉ちゃん、水を動かしたの?」
「ええ。でも、ちょっと乱暴だったわね」
「青いお姉ちゃんも、すごかった」
「そうでしょう。クラリスはすごいのよ」
横からクラリスの声がする。
「レイチェル様も、十分に頑張られました」
少しだけ得意になりかけた時、母親が顔を上げた。
「……レイチェル様?」
「ええ」
「王太女殿下でいらっしゃいますか?」
周囲の人々が、そっと笑った。
「今日は普通に買い物へ来ただけだったのだけれど」
「普通の買い物で、港の船を動かしたりはいたしません」
クラリスが即座に返す。
「あなたも動かしたでしょう!」
「私はお仕事です」
女の子が笑った。それにつられて、母親もようやく笑った。
◇
事故が収まると、港務官はすぐに調査へ入った。係留綱が外れた原因も、船の扱いに問題がなかったかも、これから調べるという。混雑が危険を大きくした可能性はあるが、事故の原因まで決めつけることはできない。
レイチェルはもう少し話を聞きたかった。しかし、クラリスは首を振った。
「港の仕事を、これ以上止めるわけにはまいりません。戻りましょう」
「でも、あの船の人たちは、まだ帰れないのよ」
「その件は、女王陛下と担当部署へ報告します」
レイチェルは、岸壁の列を見た。さっき救った渡し船は人を降ろせた。それでも、後ろの艀は待っている。赤帽の船頭も係留杭のそばで、港務官の指示を聞いていた。
「……じゃあ、戻って話すわ」
「ありがとうございます」
「でも、先にあの船頭さんの名前を――」
「あとで確認していただきましょう」
「名前くらい今聞いても――」
「レイチェル様」
「……はい」
クラリスに肩へ外套をかけられ、レイチェルはようやく船着場を離れた。
帰り道、水管工事の現場では、自分から足を止めて職人たちへ頭を下げた。朝の顔を見て、職人の一人が大きく息を吐く。
「今日はもう飛び越えないでくだせえよ」
「飛び越えないわ」
「そのお言葉、記録しておきたいくらいです」
クラリスが静かに答えた。
水路沿いの坂を上がる頃、レイチェルはようやく口を開いた。
「今日は、かなりうまく街へ出られたと思ったのに」
「そうですか」
「花売りさんも見逃してくれたし、あの魚屋さんだって邪魔しなかったわ」
「レイチェル様」
「何?」
「街の方々は、最初から殿下だと気づいていらっしゃいましたよ」
レイチェルは立ち止まった。
「……全員?」
「花売りの方は私へ知らせてくださいましたし、魚屋の方は進路を教えてくださいました。水管工事の職人さんは、私が通れるよう足場板を渡してくださいました」
「私を捕まえたかったの?」
「いいえ。殿下のなさることを邪魔せず、それでもお一人にはしないよう動いてくださったのです」
レイチェルは街を見下ろした。
運河沿いでは、いつもと変わらず荷車が動き、店が開き、船頭が仕事を続けている。誰も、王太女のためだけに一日を過ごしているわけではない。
けれど、走っていく自分を見かければ、誰かがほんの少し気にかけてくれる。
「赤い帽子の船頭さんも?」
「最初は、どなたか分かっていなかったようです」
「よかった。一人は欺けたわ」
「誇るところではございません」
レイチェルは笑った。
ところが次の瞬間、手元に何もないことに気づいた。
「あっ」
「どうされました?」
「焼き菓子……」
いつの間にか失くしていた。水を動かす時に手放した包みが、岸壁のどこへ転がったのか分からない。
「買い直しには戻りませんよ」
「まだ何も言ってないでしょう!」
「お顔に書いてあります」
レイチェルは、今日一番深いため息をついた。
◇
エレノア三世は、娘の話を途中で遮らなかった。
アクアリア宮の政務区画にある執務室には、すでに港務局からの速報が届いていた。人的被害なし。船体と岸壁の損傷については調査中。救助に加わった王太女と筆頭近衛の名も記されている。
レイチェルが話し終えると、女王は書類を伏せた。
「まず、今朝の外出について聞きます」
「……はい」
「許可は取りましたか」
「取っていません」
「護衛は?」
「最初は、一緒ではなかったわ」
「自分がどこへ行くのか、誰かへ伝えましたか」
「……市場へ行くつもりだったの」
「それは、あなたの頭の中だけの予定ですね」
レイチェルは黙った。
「港で人を助けたことは聞いています。よく行動しましたね。ですが、それと無断外出は別の話です」
「でも、お母様。出なければ、パンが値上がりした理由も分からなかったわ」
「そうかもしれません」
「船着場のことだって、報告書では別々に書かれていたのよ。実際に見て、やっとつながったの」
「あなたが原因を見つけたことは認めます」
「だったら――」
「正しいものを見つけた者は、規則を破ってよいのですか」
レイチェルは反論しようとして、言葉を失った。
エレノアは怒鳴らない。だからこそ、答えをごまかせない。
「……そういう意味ではないわ」
「けれど、今はそれを理由にしようとしましたね」
「はい」
エレノアは頷くと、今度は事故報告の紙を手元へ寄せた。
「あなたが最初に渡し船の進路を変えた判断は適切だったと、クラリスから報告を受けています。人を助けようとしたことも、私は認めます」
レイチェルは顔を上げた。
「ただし、魔法の力を強めた時、船体が傾いたそうですね」
「……ええ」
「目の前の人を守ろうとして、その人を別の危険へ近づけてしまうこともある。今日、あなたが覚えておくべきことです」
レイチェルは女の子の悲鳴を思い出した。
「次は、もっと上手にやるわ」
「そうありなさい。あなたの勇気を失わせたいのではありませんから」
母の声は、少しだけ柔らかくなった。
「でも、次はクラリスを待ってから――」
「待てない時もあるでしょう」
「……そうね」
「ならば、待てない時にどう判断するかも、学ばなければなりません」
レイチェルは素直に頷いた。
エレノアは別の三枚の書類を取り出した。西大橋の修繕状況、南船着場の利用数、王都市内の物価推移。担当部署の印章は、どれも違う。
「それで、あなたが見つけた問題ですが」
レイチェルは姿勢を正した。
女王は三枚を重ねた。
「どれも、それぞれの部署では予定どおり進んでいます。けれど、別々の予定が一つの船着場で重なってしまった。そこを確かめたのですね」
「ええ。それから、船が待っている間の使用料も」
「その点も確認させましょう。祭礼用区画の一部を臨時の荷置場にできないか、東倉庫の工事日程を調整できないか、担当者に検討させます」
「それなら、赤い帽子の船頭さんも帰れる?」
「まだ約束はできません。何を変えれば、ほかの誰に負担がかかるかも調べる必要があります」
レイチェルは船頭の言葉を思い出した。
――じゃあ、誰なら約束できますかね。
「……そうね」
「あなたが現場で見たことは、役に立ちます。だからこそ、見たものに責任を持ちなさい」
エレノアは白紙を差し出した。
「誰から何を聞き、どこで何を見たのか。担当者が確認できるように、報告書へまとめなさい」
「今から?」
「今からです」
「今日の講義は?」
「これが本日の講義です」
「お母様。それ、罰じゃないの?」
「教育です。罰については、その後に考えましょう」
レイチェルの肩が落ちた。
「書き終えるまで、外出は認めません」
「……はい」
「クラリス。完成まで見届けなさい」
「かしこまりました」
クラリスは真面目な顔で答えた。
その口元が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。
「クラリス、今笑ったでしょう!」
「いいえ、レイチェル様」
「絶対に笑ったわ!」
「報告書の用紙をお持ちいたします」
女王の前で、それ以上の抗議はできなかった。
◇
午後、朝凪宮のレイチェルの部屋には、紙をめくる音とペン先の音だけが続いていた。
報告書は思ったより難しい。橋の工事がいつ始まったかは書ける。どこでパンを買ったかも書ける。だが、船着場で会った赤い帽子の男の名前が分からない。
「クラリス」
「はい」
「赤い帽子で、左の前歯が一本ない船頭さんって書いたら、誰だか分かるかしら」
「お名前を伺うべきでしたね」
「聞こうとしたのよ」
「存じております」
「でも、船が動き始めたんだもの」
「その事情も、書き添えてください」
レイチェルは渋々ペンを動かした。
書き進めるうちに、どうしても気になるものが増えていく。西大橋の向こうから来た粉は、もともとどこで作られたのか。荷を運ぶ船は、どの港から来るのか。王都で降ろされた荷の一部は、さらに別の街へ行くのだろうか。
彼女は地図を広げた。
ミスティクスから内海へ伸びる航路。その先に、アルヴェールやセレヴィアの名がある。さらに遠くには、国境を越える航路も描かれていた。
「ねえ、クラリス」
「はい」
「港へ行けば、船がどこから来るのか分かるわよね」
「港務官にお尋ねになれば、分かることも多いでしょう」
「船の中も見てみたいわ」
「それは港へ行くこととは別です」
「まだお願いしてないでしょう!」
「念のためです」
レイチェルは地図へ目を戻した。
今日、水を動かして助けたのは、小さな渡し船だった。だが、その周りには、もっと大きな船が何隻も並んでいた。自分の知らない港から来て、見知らぬ誰かのために荷を運んでいる。
王宮の窓から見ていた運河は、今朝よりもずっと長く感じられた。
「……クラリス」
「今度は何でしょう」
「外出申請書って、ここにある?」
クラリスが顔を上げた。
「申請書、ですか」
「そう。今度はちゃんと許可をもらうわ。どこへ行くのかも、誰と行くのかも書く」
「……そうなさるのでしたら、用紙をお持ちします」
「同行者は、もちろんクラリスよ」
「私でございますか」
「ほかに誰がいるの?」
クラリスは一瞬、返事に困ったような顔をした。
「……かしこまりました」
申請書が運ばれてくると、レイチェルは報告書の隣へ置いた。
目的の欄に、少し考えてから文字を書く。
――王都港における船舶と積荷の調査。
自分でもずいぶん立派な理由だと思った。
「これなら、お母様も許してくれるかしら」
「まずは、今の報告書を完成させてください」
「……分かってるわ」
レイチェルは不満そうに答え、もう一度ペンを取った。
けれど、目はすぐに地図へ戻った。
朝、ただ焼き菓子を買いに行ったはずなのに、帰ってきた彼女の机には、知らなかった港へ続く道が一本増えていた。
そしてその道の先を、レイチェルはどうしても見てみたかった。




