9話:数学は難問?
何か変だ。
ここ数日、隣の席からピリピリとした視線を感じる。
……この前のカラオケの件だろうか。
あの時、俺は何かしでかしたのか。森川さんの気に障るようなことを言ったのか。
考えてみても、何も思い当たらない。
それなのに、どうして俺はこんなにも森川さんに嫌われているのだろう。
授業中だというのに頭を抱えて悩む俺の姿は、さぞかし頭の悪い生徒に見えていることだろう。
「よーし、ここテストに出るから、ちゃんと勉強しておけよー」
……え。
やべえ。聞いてなかった。
まあ、分からなければ田宮に聞けば――。
ちらりと隣を見る。
「……」
やっぱり寝てるか。
気持ちよさそうな顔で眠っている田宮を見て、俺は小さくため息をついた。
キーンコーンカーンコーン……。
授業終了のチャイムが鳴り、俺はようやく顔を上げる。
今回のテスト、結構難しそうなんだよな。
このままだと普通にまずい。放課後、図書室にでも残って勉強していくか。
「なあ、田宮。今日、図書室で勉強していかね?」
ようやく目を覚ました田宮は、両腕を大きく伸ばしながらあくびをした。
「はー? 勉強? そんなのなんとかなるって。それより俺、部活行かねえと」
「そっか。それなら仕方ないな。頑張れよ」
「おう。お前もな」
……俺は部活じゃないけど。
田宮はそのまま鞄を担ぐと、テニス部の仲間たちが待っているグラウンドへと駆けていった。
田宮はテニス部のエース的な存在らしい。
まあ、運動神経がいいことだけが取り柄の男だから、それくらい活躍していても不思議ではない。
「……さて」
俺は一人、図書室へ向かった。
△▽△▽
うわ、結構人いるな……。
放課後の図書室には、すでにテスト勉強を始めている生徒たちが何人もいた。
空いている席を探しながら歩いていると。
「……ぉーぃ」
小さな声が聞こえた。
声のした方へ視線を向けると、そこには水野さんが座っていた。
……なんとなく嫌な予感がする。
けれど、無視するわけにもいかないので、仕方なくそちらへ向かった。
「席、探してるの?」
「え? うん、まあ」
水野さんは相変わらず、何がそんなに楽しいのか分からない顔でニヤニヤしている。
「ここ空いてるから使いなよ。それにさ、私も数学教えてほしいし」
水野さんが指差したのは、同じ机を囲む三つの空席だった。
その席を見て、俺は少しだけ安心する。
……森川さんはいない。
水野さんも案外、気が利く人なのかもしれない。
「じゃあ、俺そっちの席でいい?」
俺は水野さんの正面ではなく、斜め向かいの席を選んだ。
すると水野さんは、ますます口元を緩めた。
「……なるほど。そっちなんだね」
「?」
何が「なるほど」なのか分からない。
俺は首を傾げながらも、それ以上は気にせず教科書を開いた。
△▽△▽
それから二十分ほど経った頃だった。
俺と水野さんが使っている机の前で、誰かの足が止まった。
何となく嫌な予感がして、ゆっくりと視線を上げる。
――そして、心臓が止まるかと思った。
「……」
そこにいたのは、森川さんだった。
思わず水野さんを見ると、彼女は顔を伏せ、肩を小さく震わせている。
……笑ってる。
絶対に、笑いを堪えてる。
「水野、これって……どうして……えっと」
森川さんもどこか落ち着かない様子で、俺と水野さん、そして空いている席を順番に見ていた。
……もしかして。
この席、最初から森川さんのために取っていたのか?
だったら、俺は完全に邪魔者じゃないか。
「座りなよー、森川。突っ立ってると目立っちゃうよ」
実際、周囲の生徒たちも森川さんの方をちらちらと見ている。
森川さんはしばらく迷っていたが、やがて諦めたように俺の正面の席へ座った。
……いや、やっぱり帰ろう。
俺はそっと教科書を閉じようとした。
その時だった。
「あ、ここは? これってどうやって解くの?」
まるで俺の行動を見計らっていたかのように、水野さんが教科書の問題をペン先で指した。
「えっと、ここは……まず、こうして……」
仕方なく一通り解き方を説明する。
これで役目は終わった。
今度こそ退散しようとしたが。
「森川にも教えてあげてよ。この子、数学苦手なんだよね。そうだよね? 森川」
「えっ!? いや……苦手じゃないよ。私は一人でも勉強できるし」
この二人のやり取りを、俺はどんな顔で見ていればいいのだろう。
もう本当に帰りたい。
「ってことで、今日は林くんに教えてもらいましょう!」
水野さんは勝手に話をまとめると、森川さんの頭を軽くぽんぽんと叩いた。
「ちょっと、水野……!」
森川さんは不満そうに眉を寄せ、それからゆっくりとこちらを見た。
一瞬だけ視線が合う。
すると森川さんは、なぜか少し頬を赤くして。
「……そんなことしても、何も意味ないからね」
そう呟いた。
「……え?」
意味がない?
俺にメリットがないという意味なら分かる。
でも、森川さんは一体何の話をしているんだ?
俺が首を傾げていると、水野さんがついに耐えきれなくなったように、ぷっと吹き出した。
△▽△▽
それからしばらく、三人で勉強を続けた。
――と、言いたいところだが。
正直なところ、俺はあまり勉強に集中できていなかった。
原因はもちろん、目の前にいる森川さんだ。
ただでさえ普段から何を考えているのか分からない相手なのに、こうして正面に座っていると妙に意識してしまう。視線を上げれば目が合いそうで、かといってずっと教科書だけを見ているのも不自然な気がして、結局、問題文を何度も読み返すことになった。
そして、そんな俺以上に落ち着きがないように見えるのが森川さんだった。
さっきから何度もペンを止めては、何か考えるように視線を落とし、少ししてからまた書き始める。その繰り返しで、どうにも勉強が進んでいるようには見えない。
分からない問題でもあるのだろうか。
そんなことを考えていると、水野さんがふいに立ち上がった。
「ちょっとトイレ行ってくるね」
どこか勉強に飽きたような声だったが、立ち上がる瞬間に森川さんへ向けた視線には、なぜか妙なものが含まれていた。
「え、待ってよ」
すぐに森川さんが顔を上げる。
その反応があまりにも早かったので、俺まで一瞬驚いてしまった。
「待てませーん。分からないところがあるなら、林くんに聞いてねー」
水野さんは楽しそうにそう言い残すと、今度は俺の方を見て口元を押さえた。
……また笑ってる。
何がそんなに面白いのかは分からないが、嫌な予感しかしない。
そのまま水野さんは、俺たちを残して図書室の出口へと歩いていった。
…………。
しん、と静かになる。
もともと図書室なのだから静かなのは当然だ。
それでも、水野さんがいなくなった途端、この机の周りだけ別の空間になってしまったような気がした。
ページをめくる音も、ペン先が紙を擦る音も、妙に大きく聞こえる。
俺は何度か問題集に視線を落としたが、さっきまで以上に集中できない。
ちらりと正面を見ると、森川さんもまたペンを止めていた。
……やっぱり分からない問題があるんだろうか。
水野さんも、さっきそんなことを言っていた。
でも、俺から声をかけるべきなのか?
下手に話しかけて、また何か気に障るようなことをしたらどうする。
とはいえ、このまま何もしなければ、それはそれで「何で教えてくれないのよ」と怒られるかもしれない。
……詰んでないか?
俺は自分の課題をほとんど進められないまま、そっと頭を抱えた。
ただテスト勉強をするために、図書室へ来ただけだった。
それなのに、目の前にいる一人のせいで、今日一番分からない問題は――数学ではなくなってしまっていた。




