8話:片想いの歌練。
「無理」
水野さんの表情は、意外にも真剣だった。
……あれ。
もしかして、この人は意外とこういう悪戯を許せないタイプなのだろうか。
いや、「意外と」なんて考えるのは失礼か。まだほとんど話したこともない相手なのだから、勝手なイメージを持つ方がおかしい。
「無理。無理だよ、こんなに面白そうなことを見なかったことになんてできない!」
次の瞬間、水野さんの表情がぱっと明るくなった。
「誰に!? 誰に飲ませるの!?」
……ああ、やっぱりこういう人ね。
俺は心の底から胸を撫で下ろした。
「田宮だよ。今、二人で来てるんだ。それで俺がドリンクを取りに来たんだけど……まあ、なんというか、いつもパシリにされてる気がして」
「なるほどねー」
水野さんは楽しそうに頷いた。
「偶然だね! 私たちも二人で来てるんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、なぜだか嫌な予感がした。
「へ、へぇ……。じゃあ、俺はもう戻るから」
余計なことは聞かない。
聞かない方がいい。
そう自分に言い聞かせて、その場を離れようとした時だった。
「森川と来てるんだよ」
「……やっぱり」
最近、森川さんに関する第六感が働きすぎている気がする。
できれば、この能力はもう少し別のことに使いたい。
「そ、そうなんだ。じゃあ楽しんで」
「ふーん」
水野さんは俺の反応をじっと見たあと、何か納得したように頷いた。
「……なるほどね」
「何が?」
「いや、別に?」
意味深な笑みを残したまま、水野さんはくるりと背を向けた。
……嫌な予感しかしない。
△▽△▽
部屋へ戻ると、田宮は相変わらず熱唱中だった。
俺は曲の邪魔をしないように、そっとテーブルへコップを置く。
コーラwithコーヒー。
見た目は完璧なコーラだ。
これで一口飲んだ瞬間、田宮はどんな顔をするのか――。
曲が終わる。
「ふぅー! どうよ!」
田宮はマイクを置くなり、何の迷いもなくコップを手に取った。
「ありがとうな」
ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ。
……。
……あれ?
「いやー、カラオケはやっぱコーラに限るなあ!」
「……え?」
俺は自分の目を疑った。
いや、確かに入れたよな?
底から三センチ。
しっかりコーヒーを。
「ん? どうした?」
「いや……なんでもない」
まさか。
田宮は、想像以上の味音痴なのかもしれない。
俺は静かに、今回の作戦の失敗を受け入れた。
△▽△▽
コンコン。
「ん?」
曲を止め、二人で次に歌う曲を探していた時だった。
突然、ドアがノックされた。
「お前、なんか頼んだ?」
「いや。林が頼んだんじゃねえの? ポテトとか」
「今日はまだ何も――」
俺が言い終わるより早く、ドアが開いた。
「あ」
「え」
そこに立っていたのは、森川さんだった。
彼女は一歩だけ部屋の中に入り、そのまま固まっている。
俺たちを見たまま、何かを考えているように。
「あれ? 森川、何してんの?」
田宮が不思議そうに声をかけても、森川さんはすぐには返事をしなかった。
「……」
「おーい?」
「あ、ううん。部屋、間違えた」
ようやくそう言うと、森川さんは慌てたように視線を逸らした。
「ごめんね」
「そっか。じゃあな」
田宮は特に気にした様子もなく、手を振る。
森川さんは「うん」とだけ答え、そのままドアを閉めて出ていった。
……いや。
部屋を間違える?
そんなはずがない。
俺たちの部屋と、森川さんたちがいるはずの部屋は、ドリンクバーを挟んで反対側だ。
間違えるような位置じゃない。
林は閉じられたドアをしばらく見つめながら、ひとり眉を寄せた。
△▽△▽
水野がドリンクバーから戻ってくると、森川さんはテーブルの上に置かれた自分のグラスを見て笑った。
「水野、ありがとうね」
「ううん、大丈夫だよー。それに……」
「それに?」
水野は何かを言いかけてから、にやりと口元を緩めた。
「……なんでもない!」
「なによ、それ。気になるじゃない」
森川さんは不満そうに口を尖らせる。
放課後にこうして二人でカラオケへ来るのは久しぶりだった。でも、歌うこと自体は嫌いじゃない。むしろ好きな方だし、気の知れた水野と一緒なら、こういう時間も悪くないと思っていた。
「そういえばさ、うちのクラスの子も何人か来てるみたいだよ」
「へえ、そうなんだ」
「さっきドリンクバーで会ったの」
水野はストローを指先でくるくると回しながら、何気ない口調で続けた。
「その子が言ってたんだけどね。好きな人とカラオケに行くことになっても大丈夫なように、今から練習してるんだって」
「好きな人のために?」
「うん。健気だよねー」
好きな人のため、か。
そんな理由で何かを頑張ったことなんて、森川さんにはなかった。
だって、そもそも……。
「……まあ、いいんじゃない?」
自分の中で浮かびかけた考えを誤魔化すように、森川さんはグラスに口をつける。
すると、水野がぱっと顔を上げた。
「じゃあさ、森川も一緒に行ってみない?」
「どこに?」
「さっき会った子のところ」
「え? でも急に行ったら迷惑じゃない?」
「大丈夫大丈夫。森川の席の隣にいる、あの子だから」
「ああ」
それなら問題ないか。
普段から顔を合わせている相手だし、教室でも何度か話している。急に部屋へ遊びに行ったとしても、そこまで変には思われないだろう。
……いや、俺じゃなくて林くんだけど。
「じゃあ、行ってみようかな」
「ほんと!?」
「う、うん」
水野の反応が妙に大きい。
「じゃあ決まり! 行こう行こう!」
「……にしても、水野。なんかテンション高くない?」
「気のせい気のせい!」
絶対に気のせいじゃないと思いながらも、森川さんはそれ以上追及しなかった。
△▽△▽
教えてもらった部屋の近くまで来ると、水野がふと足を止めた。
「ごめん、森川。私ちょっとトイレ行ってくるから、先に入ってて!」
「え? うん、まあいいけど」
そう言うが早いか、水野は小走りで廊下の向こうへ駆けていった。
……妙に急いでる。
森川さんは首を傾げながら、目の前にあるカラオケの部屋を見た。
とはいえ、人が使っている部屋に一人で入るのは少し緊張するものだ。
おまけに、ここのドアはガラス越しに中の様子がはっきり見えない。
誰がいるかも分からないまま入るなんて、なんだか変な気分だった。
……まあ、すぐ帰ればいいだけだし。
森川さんは一度だけ深呼吸をして、ドアの前に立つ。
そして。
コンコン。
「あ」
「え」
思わず、お互いの声が重なった。
どうして――どうして林くんが、ここにいるの?
だって、水野がさっき言っていたのは、隣の席にいる子で……。
……っ。
まさか……水野が言ってた人って、林くんだったの!?
頭の中で、さっきまでの会話が一気につながっていく。
好きな人とカラオケに行くことになっても困らないように、こっそり練習している男の子。
そして、その子は私の隣の席にいる。
どうして林くんが?
気づけば、そんな言葉が喉まで出かかっていた。
「森川、何してんの?」
田宮の声に、森川さんははっと我に返る。
……そうだ。
水野はまだ来ていない。
いや、違う。
来ないんだ。
水野は最初から知っていた。
私がここへ来たら、林くんがいることを。
「おーい、森川?」
「あ、ううん! 部屋、間違えた」
「部屋?」
「そう! 間違えたの。ごめんね!」
苦し紛れの言い訳だった。
これ以上ここにいたら、顔が熱くなっていることまで気づかれてしまいそうで、森川さんは慌ててドアへ向かった。
その時だった。
ふと、カラオケの入力画面が目に入った。
そこには、次に歌う曲を探すための検索画面が表示されている。
そして画面に映っていた文字。
『米澤玄師』
……え。
森川さんの足が止まる。
私の好きなアーティスト。
まさか、林くん――。
「……」
その続きを考える前に、森川さんは逃げるように部屋を出た。
△▽△▽
部屋へ戻ってからも、森川さんは一人で悶々としていた。
頭の中に浮かんでは消えるのは、さっき部屋で見た林くんの顔と、カラオケの入力画面。
……好きな人のために、歌を練習している。
そして、林くんが歌おうとしていたのは。
私の好きな、米澤玄師。
「……」
どう考えても、偶然とは思えなくなってくる。
そんなことを考えていると、水野がやけに楽しそうな顔で戻ってきた。
「ごめんごめん! で、どうだった?」
……その顔。
その笑顔。
その、すべて分かっていたような表情。
「どうだった、じゃないわよ!」
森川さんは思わず水野を睨みつけた。
「どうして林くんがいるのよ!」
「え? 私、間違ったこと言った?」
「間違ってるでしょ!」
「言ってないよ? 隣の席にいる子が、好きな人のために歌を練習してるって」
「隣の席って……」
言われてみれば。
確かに林くんは隣の席だ。
その言葉を聞いた時、一瞬だけ納得しかけた森川さんだったが――すぐに我に返った。
「……ちょっと待って」
水野をじっと見つめる。
「好きな人のためって、どういう意味?」
そう尋ねながら、森川さんの頬が少しずつ熱くなっていく。
水野はそれを見逃さなかった。
「そのままの意味」
「……」
「もう分かったでしょ?」
水野が楽しそうに笑う。
林くんが。
私のために。
私の好きな曲を練習している。
私に見つからないように、こんなところでこっそりと。
……もう。
「……林くんってば」
森川さんは両手で顔を覆った。
隠したつもりでも、耳まで赤くなっているのを水野はしっかり見ていた。
その様子を見ながら、水野は小さく笑う。
――これは、思っていたより面白くなりそう。
△▽△▽
「なんだったんだろうな、森川のやつ」
「さあな」
田宮は首を傾げながらも、すぐに次の曲を探し始めた。
「まあいいか! よーし、次も俺が歌うぞ!」
「え、また?」
「今度は米澤玄師だ!」
田宮はマイクを握ると、何のためらいもなくイントロを流し始めた。
……うわ。
俺が歌おうと思っていた曲なのに。
まあ、いいか。
今日は気分を変えて、別の曲でも練習しよう。
俺はタブレットを手に取り、何となく検索欄へ文字を入力した。
ミスターグリーンアップル。
その頃、森川さんは別の部屋で――。
少しだけ頬を赤くしながら――林くんのことを考えていた。
まだ知らない。
彼女が信じ始めたその気持ちが、盛大な勘違いから始まっていることを。
だけど、あの瞬間。
森川さんの世界では確かに、林くんが自分のために歌っていた。




