10話:優しいペン先。
試されている。
森川さんは俺を試しているんだ。俺がどんな人間なのか、困っている人を見かけた時にどうするのかを。
「その問題、教えようか?」
……いや、それは駄目だ。
俺からそんなことを言えば、「私はそんな問題も解けないと思われているの?」と、森川さんのプライドを傷つけるかもしれない。
じゃあ、このまま何もしない?
それも違う気がする。困っている人が目の前にいるのに知らん顔をしていたら、今度は「何で声くらいかけてくれないのよ」と思われるかもしれない。
どっちを選んでも怒られる未来しか見えない。
何が正解なんだ……。
林はいつものように考え込みながら、目の前の問題集を眺めていた。
△▽△▽
水野……本当に行っちゃった。
森川さんは、図書室の入口へ消えていった友人の背中をしばらく見つめたあと、ゆっくりと視線を戻した。
正面には林くんがいる。
水野がいる時なら、なんとなく会話もできた。
でも今は違う。
二人きりだ。
静かな図書室の中で、向かい合って座っているのは私と林くんだけ。
……こ、この状況、どうすればいいのよ。
勉強なんて、手につくはずがない。
頬が熱くなるのを誤魔化すように問題集へ視線を落とすものの、さっきから同じ問題を何度読んでも頭に入ってこなかった。
……ん?
ふと顔を上げると、林くんも同じようにペンを止めている。
もしかして、分からない問題があるのかな。
それなら――。
ふふん。
さては林くん、私に教えてもらえるのを待っているんじゃないかしら。
さっきから時々こっちを見てくるのも、その証拠よね。
……まあ、教えてあげてもいいんだけど。
これ以上、その気にさせちゃうのも悪いし。
どうすればいいのかな……。
△▽△▽
水野さん、戻ってこないな。
本当にトイレへ行ったのかすら怪しい。
しかも、さっきから森川さんの視線を感じる。
やっぱりだ。
何も行動を起こさない俺に、憤りを感じているんだ。
……仕方ない。
ここまで来たら、もう腹をくくるしかない。
「も、森川さん」
「はや……林くん」
顔を上げた二人の視線が重なり、ほとんど同時に声が出た。
「……」
「……」
一瞬、時間が止まったようだった。
何だこれ。
どうして声をかけただけで、こんな空気になるんだ。
怒ってるのか……?
いや、怒っているにしては顔が少し赤いような気もする。
「ど、どうしたの? 森川さん」
「そっちこそ……何?」
酸素が薄い。
そんな馬鹿なことを考えながら、俺は視線を問題集へ逃がした。
すると、森川さんが小さく俺の名前を呼ぶ。
「……林くん」
「ん?」
「わ、分からないところ……教えてあげてもいいよ」
「え?」
それ、俺が言おうとしていたんだけど。
……いや、それ以前に。
どうして森川さんが、俺に教えようとしているんだ?
まさか、さっきから勉強が進んでいなかった俺を見かねたのか。
「ど、どこが分からないの?」
えっと。
別に、分からないところなんて……。
……いや、待て。
ここで「大丈夫」と断ったら、せっかく森川さんが勇気を出して言ってくれたのに恥をかかせてしまう。
それは駄目だ。
「えっと……ここが、少し難しいかなって」
俺は適当に問題集の一問を指さした。
もちろん嘘だ。
このページは家で何度も復習している。
「ここね」
森川さんは俺の指先を確認すると、少しだけ表情を和らげた。
「これは、まずここをこうして……」
そう言いながら、自分のノートに式を書いていく。
途中で手を止めることもなく、俺が分かりやすいように順番を追って説明してくれた。
森川さんが勉強のできる人だということは知っていた。
でも、教えるのまで上手いなんて知らなかった。
「それで、ここがこうなるから……」
真剣な横顔。
ノートの上を滑る細い指先。
普段はどこか近寄りがたい森川さんが、今は俺のために一生懸命説明してくれている。
気づけば俺は、問題集ではなく森川さんの方を見ていた。
「……ねえ」
「ん?」
「聞いてる?」
森川さんがこちらを見る。
「……林くん」
「あ、ああ。うん」
俺は慌てて頷いた。
「分かりやすくて……ちょっと感動してた」
「……え?」
「ありがとう、森川さん」
すると、森川さんは急に黙り込んだ。
何かおかしなことを言っただろうか。
「……だからね」
「ん?」
「そんな、お礼を一言言われただけじゃ……意味ないんだから」
「え?」
「な、何でもない!」
森川さんは顔を赤くしながら、ぷいっと横を向いた。
……意味ない?
何が?
俺には、さっぱり分からなかった。
△▽△▽
しばらくすると、水野さんがこちらの様子を窺うようにしながら、そっと戻ってきた。
何か悪いことでもしているのかと思うほど慎重な足取りだったが、俺たちの机の近くまで来たところで、森川さんが小さく声を尖らせる。
「もう、遅いわよ!」
「ごめんごめん。クラスの子に突然呼ばれちゃってさ」
絶対に嘘だ。
こんなにも分かりやすい嘘を、よく平然と口にできるものだと思う。何より、水野さんの口元が笑っているのがその証拠だった。
……そもそも、この人の目的は何なんだ?
「それよりさ、どう? どうだったの?」
水野さんは何事もなかったように話を切り替えた。
「ど、どうって……何よ」
森川さんが一気に動揺する。
さっきから思っていたが、どうして森川さんはこんなにも落ち着かないんだろう。
水野さんは俺と森川さんを交互に見つめ、何かを探るように目を細めた。
「……じー」
「何もないわよ」
「へえー。でもさ」
水野さんの視線が、今度は俺に向く。
「林くんは? 何かあった?」
「え? ああ、少し森川さんに数学を教えてもらったよ」
スッと言葉が出てしまった。
……あれ。
簡単に答えてしまってよかったのだろうか。
森川さんはさっき、何もなかったような言い方をしていた。もしかすると、俺に数学を教えたこともわざわざ言いたくなかったのかもしれない。
でも、それなら何のために――。
「……帰る」
「え?」
「帰るね」
突然、森川さんが立ち上がった。
「なんでよ、森川」
「だって……!」
森川さんは何か言いかけたものの、すぐに唇を結ぶ。
「……な、なんでもないわ」
そう言うと、教科書とノートを慌ただしく鞄へしまい始めた。
水野さんはそれを見ながら、ふと机の上に残されたノートへ視線を落とす。
そこには、普段よりもずっと丁寧な文字で、誰かに説明するためのような解説がいくつも書かれていた。
「じゃあね……」
森川さんは鞄を持ち、俺の方を見た。
「えっと……林くんも」
「うん」
「……違う。いや、違わないんだけど……」
何か言いたそうに口を開いては閉じる。
「私のせいで……」
「森川さんの?」
「と、とにかく帰る!」
顔を赤くした森川さんは、それ以上何も言わずに図書室を出ていった。
「バイバーイ」
水野さんは、そんな背中を楽しそうに見送っている。
戸が閉まり、森川さんの姿が完全に見えなくなったところで、水野さんはゆっくりとこちらを振り返った。
「よかったね。ナイス水野さん! って感じ?」
えっへん、と胸を張る。
「え? 何が?」
「たくさん話せたんじゃないの?」
「話すっていうか……勉強を教えてもらっただけだけど」
すると、水野さんは俺の教科書をペンでツンツンと指した。
「ここ」
「ん?」
「教えてもらわなくても分かってた問題だよね」
一瞬、心臓が跳ねた。
「……何で分かるの?」
「分かるよ。さっきまでの林くんの解き方見てたら」
水野さんは、ふふふ、と意味ありげに笑う。
「じゃあ、どうして教えてもらったの?」
「……だって、断れないだろ。あんなの」
「あんなの?」
「森川さんが、自分から教えてあげるって言うからさ」
すると水野さんは、ほんの少しだけ驚いたように目を丸くした。
「……意外と積極的なんだ」
「え? なんか言った?」
「ううん、こっちの話!」
どっちの話だよ。
そうツッコミたかったが、余計なことを言えばまた何か面倒なことになりそうだったので、俺は黙っておくことにした。
水野さんはしばらく俺の顔を眺めていたが、何か納得したように頷いた。
「ふーん。なるほどね」
「……何が?」
「何でもない」
さっきから何なんだ、この人は。
「じゃあ私も行くね。勉強教えてくれてありがと」
「え? もう?」
「うん。今日はもう、目的達成したから」
「目的?」
俺が聞き返すより早く、水野さんは手を振りながら図書室を出ていった。
まるで、本当に何か用事を終えたみたいに。
一人取り残された俺は、しばらく静かになった机を眺めていた。
……分からない。
水野さんが何を考えていたのかも。
森川さんが、どうしてあんなに顔を赤くしていたのかも。
何一つ分からない。
それなのに。
目を閉じると、さっきの森川さんの姿だけは、妙に鮮明に思い出せた。
問題を解きながら、片側の髪をそっと耳にかける仕草。
俺にも分かるように、一つひとつ言葉を選びながら、ノートの上をゆっくりと走らせていたペン先。
ただ数学を教えてもらっただけだ。
それだけのはずなのに――。
どうして俺は、今になっても、あの時の森川さんのことを思い出してしまうのだろう。




