3話:消しゴムの誘惑。
△▽
何か変。
やっぱり林くんは変だ。
消しゴムを拾ってくれたり、実験器具を受け止めてくれたり……たまたまにしては出来すぎている。
それに目が合うと、すぐ逸らす。あれは絶対に意識している人の反応だ。
間違いない。
たぶん、きっと。
……うん、間違いない。
森川さんは小さく頷いた。
だからといって簡単にその気になるほど、私は単純じゃない。そんな分かりやすいアピールで落とせると思われても困る。少しくらいは苦労してもらわないと。
そう思いながら何気なく林くんを見る。
すると、ちょうどこちらを見ていた林くんと目が合った。
「あっ」
次の瞬間、林くんは慌てたように顔を逸らした。
「……ふふ」
やっぱり。分かりやすすぎるんだから。
でも目を逸らすだけじゃ証拠としては弱い。もっと決定的なものが欲しい。
誰が見ても分かるような証拠が……。
そこで森川さんはあることを思いついた。
視線を机の上へ落とす。
そこにあったのは、使い慣れた白い消しゴム。
「……あ」
いいこと考えた、あの日と同じ状況を作ればいいんだ。もし林くんが本当に私のことを意識しているなら絶対に拾う。
森川さんは小さく口元を緩めた。
作戦は単純だった。
授業中に消しゴムを落とす。
ただそれだけ。
そして林くんが拾って渡してくる。完璧、失敗する要素が見当たらない。
キーンコーンカーンコーン――。
チャイムが鳴り、次の授業が始まる。
十分後。
森川さんは何食わぬ顔で消しゴムを指先から滑らせた。
ポトッ。
狙い通り、消しゴムは林くんの机のすぐ横へ転がる。
よし。
森川さんは内心でガッツポーズをした。
さあ、どうするの? 林くん。
数秒が過ぎる。
拾わない。
一分が過ぎる。
まだ拾わない。
五分が過ぎる。
……あれ?
十分が過ぎる。
消しゴムは床にある。
十五分が過ぎる。
まだ床にある。
二十分が過ぎる。
やっぱり床にある。
「……」
森川さんはちらりと横を見ると、林くんは真面目な顔でノートを取っていた。消しゴムの存在など最初から知らないみたいに。
そして――。
キーンコーンカーンコーン――。
終業のチャイムが鳴った。消しゴムは最後まで拾われずに。
「……え?」
森川さんは人生で初めて、自分の作戦に首を傾げた。
△▽
あ、消しゴム。
足元に転がる白い消しゴムを見つけ、林は反射的に拾おうとして手を止めた。見覚えがある。というより、隣の席の持ち主しか考えられない。森川さんの消しゴムだ。
何気なく隣を見ると、森川さんは授業を受けながらも時折床へ視線を落としていた。やはりあの消しゴムを気にしているらしい。
だったら拾って渡せばいい話なのだが、林の脳裏には先日の出来事が鮮明によみがえっていた。
――私、彼氏いるんだからね!
あの言葉はなかなかの衝撃だった。思い出すだけで胃が痛くなる。
いや、待て。
もしかしてこれは試されているのではないだろうか。
あれだけ釘を刺したのに、まだ懲りずに消しゴムを拾うのか。そんな無言の確認作業なのかもしれない。
もちろん考えすぎだと言われればその通りだ。だが、あの日の公開処刑を経験した身としては慎重にならざるを得ない。
ここで消しゴムを拾えばどうなる。
また変な誤解をされるかもしれない。
また教室中の視線を浴びるかもしれない。
そう考えると、とてもじゃないが手を伸ばせなかった。
よし。
見なかったことにしよう。
林はそう結論づけると、消しゴムから意識を切り離し黒板へ視線を戻した。
床には消しゴムが落ちたまま。
隣では森川さんが時折そちらを気にしている。
だが俺は知らない。
何も見ていない。
今の俺は授業に集中している優等生なのだ。
△▽△▽
ちょっと話が違うじゃない。
授業終了のチャイムが鳴ると同時に、森川さんは床に落ちたままの消しゴムを拾い上げた。
手の中に収まった白い消しゴムをじっと見つめる。
おかしい。
絶対におかしい。
だって、あの日は拾ってくれたのに。
実験の時だって助けてくれたのに。
今回はどうして何もしなかったの?
森川さんはそっと横目で林を見る。
林は何事もなかったかのように教科書を鞄へしまっていた。
本当に気付いていなかった?
いや、それはない。
消しゴムは林くんの机のすぐ横に落ちていたのだから。
じゃあ、どうして……。
その時だった、ふと一つの考えが頭をよぎる。
もしかして……。
照れていた?
森川さんは目をぱちぱちと瞬かせた。
確かに、何度も名前を呼んで消しゴムを渡すのは恥ずかしいかもしれない。
しかも前は勢いで話しかけられたけれど、今は私も林くんもお互いを意識してしまっている。
だから声を掛けられなかった。
そう考えれば全部辻褄が合う。
「なるほど……」
森川さんは一人で納得したように頷いた。
そういうことだったんだ。
つまりこれは失敗じゃない。
むしろ逆。
林くんは私を意識しすぎて、拾いたくても拾えなかったのだ。
「ふふっ」
思わず笑みがこぼれる。
案外かわいいところあるんだ。
そんなことを考えながら、森川さんは大事そうに消しゴムをペンケースへ戻した。
えっと、確か少女漫画に書いてあった。
片想い中の男子は好きな女の子をつい目で追ってしまうものらしい。だから気付けば視線が合うし、何度も目が合うようなら脈ありの可能性も高いのだとか。
森川さんは腕を組みながら小さく唸った。
確かに林くんから視線を感じることはある。だけど、それは数えるほどだ。そもそも席が隣なのだから視界に入るのは当たり前な気もする。
うーん……。
少し考えた末、森川さんはあることを思いついた。
だったら逆に、私から見ればいいんじゃない?
好きな人に見つめられたら、相手だって気になって視線を返してしまうはずだ。漫画でもそんな展開を何度か見たことがある。
つまり私がじっと見ていれば、林くんも自然とこちらを見るようになる。
完璧な作戦だった。
森川さんは満足そうに頷く。
その名も、『片想い男子の視線を逆手に取る作戦』。
よし。
林くんが教室に戻ってきたら、じっくり観察してみよう。
△▽△▽ △▽
「やっぱチーターズの四番は、あの助っ人外国人で決まりだよな」
昼休みが終わり、田宮とそんな話をしながら教室へ戻る。
田宮は筋金入りのプロ野球ファンだ。そして俺も同じチーターズファンなので、自然と話題は野球になる。
「まあ順当だろ」
「だよな!」
田宮は満足そうに頷きながら教室の扉を開いた。しかし次の瞬間、不思議そうに首を傾げる。
「ん?」
「どうした?」
「いや、なんか森川がすげえ勢いでこっち見てるんだけど」
その言葉を聞いた瞬間、ゾッとした。
森川さんが。
こっちを。
思い当たることは一つしかない。
消しゴムだ。
やっぱり拾った方が良かったのか。でも拾ったら拾ったで何か言われる気もしたし、あの状況でどうするのが正解だったんだ。
林の頭の中で同じ考えが何度もぐるぐると回る。
とにかく今は目を合わせてはいけない。
そんな確信だけはあった。
林は視線を落としたまま自分の席へ向かい、そのまま静かに椅子へ腰を下ろした。
すると左側から、突き刺さるような視線を感じる。
気のせいではない。
間違いなく見られている。
そんなに怒らせるようなことだったのだろうか。
林はますます顔を上げられなくなった。
いっそのこと謝るか?
林はちらりと左隣を意識しながら考えた。
だが、すぐにその考えを打ち消す。
何と謝ればいいのだろう。
『消しゴムを拾わなくてすみませんでした』なんて謝罪をしたところで、余計に変なやつだと思われるだけな気がする。
それに、そもそも森川さんは本当に怒っているのだろうか。
いや、怒っているからこそあんな視線を向けてくるのかもしれない。
考えれば考えるほど分からなくなる。
そもそも森川さんって、こんなに圧のある人だったっけ。
少なくとも林の知る限りでは、いつも明るくて友達に囲まれている人気者という印象だった。
やっぱり関わらない方がいい。
林はそう結論づけると、これ以上余計なことを考えないよう黒板へ視線を戻した。
△▽△▽ △▽
どうしてだろう。
森川さんは頬杖をつきながら林の横顔を眺めていた。
漫画に書いてあった通りなら、好きな相手に見つめられた男子は自然と視線を返してくるはずだ。
それなのに林くんは違う。
視線が合いそうになると、まるで逃げるように顔を逸らしてしまう。
恥ずかしがっているのだろうか。
それとも別の理由があるのだろうか。
どちらにしても、これでは確かめようがない。
しばらく考え込んでいた森川さんは、ふとあることを思いついた。
消しゴムを拾ってもらったのなら、今度は私が拾ってあげればいいんじゃない?
そうすれば何か反応が見られるかもしれない。
森川さんは一人で納得したように頷いた。
よし、次の作戦はそれでいこう。
問題は――林くんが消しゴムを落としてくれるかどうかだった。




