16話:花が咲く。
△▽
最近、また林くんの様子がおかしい。
この前、私があんな態度を取ったから、やっぱりへこんでいるのかしら。
教室にいるときの林くんは、以前にも増してぼんやりしている。授業中も頬杖をついたまま、黒板を見ているようで見ていない。先生が話しているのに、どこか上の空で、たまに目の焦点すら合っていないように見える。
まるで意識がどこか遠くへ飛んでしまっているみたいで、見ているこっちが心配になってしまう。
……でも。
「大丈夫? 林くん」
そう声をかけるだけでも、今の私には少し勇気がいる。
もし、ここで私から優しく話しかけたりしたら、林くんはまた私のことを意識してしまうかもしれない。
それは困る。
もちろん、嫌なわけじゃない。
むしろ、林くんが私のことを意識してくれるのは嬉しい。
でも、あまり露骨に優しくしすぎると、それがきっかけで林くんが余計に私を意識してしまって、また変な態度を取られたりしたらどうしよう。
……優しさが、逆効果になることだってある。
だから、今は何もしないほうがいい。
林くんが落ち着くまで、そっとしておく。
それが一番だと思う。
そう決めたはずなのに、授業中に林くんが頬杖をついてぼんやりしている姿を見るたび、どうしても気になってしまう。
大丈夫かな。
ちゃんと眠れてるのかな。
何か悩みでもあるのかな。
そんなことばかり考えてしまって、気がつけば黒板よりも林くんのほうを見ている時間のほうが長くなっていた。
△▽△▽
それから三日が過ぎた。
……ちょっと。
ちょっと待って。
林くん、本当にどうしたの?
あれからずっと、ぼーっとしている。
一日だけならまだ分かる。でも三日も続くとなると、さすがに心配になってくる。
もしかして、体調が悪いのかな。
それとも、何か悩み事があるとか?
私は休み時間になるたびに林くんの様子をうかがっていた。
けれど、本人は相変わらず頬杖をついて、窓の外をぼんやり眺めている。
ただ、お昼になると田宮と普通に弁当を食べているし、笑うときはちゃんと笑っている。
だから余計に分からない。
体調が悪いわけではなさそう。
じゃあ、どうして教室にいるときだけ、あんなにぼーっとしているんだろう。
「……心配」
思わず、小さな声が漏れた。
「林くん……ここのところ元気ないなあ。大丈夫かなあ」
「うん。心配……って!」
後ろから声がして、私は慌てて振り返った。
そこには、口元をニィッと吊り上げた水野が立っていた。
「わ、私、そんなこと――」
「思ってたんでしょ?」
「……っ」
図星を突かれて、言葉が詰まる。
「ち、違うし。別に、林くんのことが心配とか、そういうんじゃなくて……」
「ふーん?」
水野は明らかに面白がっている。
その顔を見ていると、なんだか無性に落ち着かなくなった。
すると、その瞬間だった。
胸の奥を、何か細い針で不意に突かれたような感覚が走った。
「……っ」
思わず胸元を押さえる。
なに、これ。
今の……痛い。
ほんの一瞬だったけれど、心臓のあたりがズキッとした。
「森川?」
「……え?」
「どうしたの?」
「う、ううん。なんでもない」
私は慌てて笑ってみせた。
ただの気のせいだ。
きっと、そう。
そんなことより、今は林くんのほうが気になる。
すると水野が、急に声を落とした。
「そういえばさ、男子に聞いたんだけど」
「何を?」
「林くんって、教室以外では普通らしいよ?」
「……え?」
思わず眉を寄せる。
「どういうこと?」
「そのまんま。教室にいるときだけ、やたらぼーっとしてるんだって」
「教室にいるときだけ……?」
その言葉を聞いて、私は林くんを見る。
林くんは今日も頬杖をついたまま、窓の外を眺めていた。
どうして。
教室にいるときだけ?
私がそう考えていると、水野は腰に手を当て、妙に偉そうな顔で頷いた。
「つまり」
「……つまり?」
「つまりね?」
水野はそこで一度、わざとらしく間を置いた。
そして、ニヤリと笑う。
「……そういうことなんだよ、森川くん」
「どういうことよ!」
思わず声が大きくなる。
けれど水野は、私の反応を見て楽しそうに笑っているだけだった。
その顔を見た瞬間、嫌な予感がした。
――この子、何か分かってる。
私だけが分かっていない何かを。
一体、何なの。
林くんが教室でぼーっとしている理由って――。
△▽△▽
あれから三日が経った。
その間、森川さんは何度かこちらをちらちらと見てくるようになった。けれど、俺に話しかけてくることはなく、態度そのものも特に変わっていない。相変わらず難しそうな顔をしているし、目が合いそうになると、すぐに視線を逸らされる。
……佐々木作戦は、失敗だったのか?
俺は内心で頭を抱えた。
ぼーっとしている人間なら話しかけやすくなる。そう考えて始めた作戦だったが、どうやら思ったほど単純な話ではなかったらしい。
それでも諦めるわけにはいかない。
俺は今日も、森川さんの視界に入っている間だけは、できる限り気の抜けた男を演じていた。頬杖をついてぼんやり窓の外を眺めたり、授業の合間に意味もなく机の上を眺めたり、とにかく「何も考えていません」という雰囲気を全力で出している。
その甲斐があるのかどうかは分からないが、左側から森川さんの視線が向けられているのだけは、ひしひしと感じていた。
「……」
俺は気づいていないふりをして、さらにぼーっとする。
そのときだった。
「いてッ!」
突然、頭に軽い衝撃が走った。
「おい、林」
「……田宮かよ」
隣の席にいる田宮が、片手を伸ばして俺の頭を小突いていた。
「いつまでそれやってんの? それ面白い?」
どうやら、この作戦における最大の問題は、俺のすぐ隣に田宮がいることだったらしい。
こいつは昔から、暇さえあれば俺にちょっかいを出してくる。最初のうちは俺がぼーっとしているのを面白がっていたようだが、三日も続けばさすがに飽きたらしい。最近では、俺の反応が薄すぎるせいで、むしろ田宮のほうがつまらなそうにしている。
「な、なんだよ~」
俺は作戦を継続するため、できるだけ間の抜けた声を出した。
「それ、もうつまんねえって。いつもみたいにツッコミ入れろよ」
「ツッコミを入れろって……」
どうやら田宮自身も自分の頭がおかしいことには気づいているらしい。
「お前、自覚あるのかよ」
「は? 何言ってんだよ」
田宮は眉を寄せると、俺のほうへ顔を近づけた。
「森川にツッコミ入れろって言ってんの」
「森川さんに俺が? なんで俺が森川さんにツッコミを入れるんだよ」
「だって、お前ら仲いいじゃん」
「……は?」
どうやら田宮は自分へのツッコミを待っていたのではなかったようだ。
田宮は気にする様子もなく続ける。
「消しゴム拾ったくらいで楽しそうにするし、勉強だって一緒にするような仲なんだろ?」
「……」
微妙に合っている。
合ってはいるのだが、田宮が認識している内容と、実際に俺が経験したことには、かなり大きな隔たりがある。
まず、消しゴム。
あれが俺と森川さんの関係をおかしくした、そもそもの原因だった。
森川さんの消しゴムを拾った。
ただ、それだけだった。
それなのに、なぜか俺は森川さんに怒鳴られ、それ以来、ことあるごとに避けられるようになった。
田宮の言う「楽しそうにする」とは、どう考えても結びつかない。
……図書室の件は、まあ例外だろう。
あの日は、たまたま水野さんが席を外していて、森川さんと二人で勉強するような状況になっただけだ。
森川さんは普通に話してくれたし、分からない問題を丁寧に教えてくれた。
あのときだけは、いつものような張り詰めた空気がなかった。
まるで、最初から俺たちが普通のクラスメイトだったみたいに、自然に話せた。
「……例外、か」
そう考えたところで、ふと手が止まった。
本当に、あれは例外だったのだろうか。
思い返してみる。
森川さんが問題を説明してくれて、俺がそれを聞いていた時間。
彼女がノートに文字を書いている姿を、俺は妙にじっと見ていた。
説明が終わったあとも、なんとなくその場から離れたくなかった。
あのときだけは、森川さんと一緒にいても、なぜか居心地が悪くなかった。
むしろ――。
「ねえ……」
不意に、左側から声がした。
「え?」
俺は反射的にそちらを見る。
椅子に座った森川さんが、こちらを見ていた。
正確には、俺の目を見ることを避けるように視線を少し横へ逸らしている。それでも、俺に声をかけたのだということだけは、はっきり分かった。
「林くん……。ちょっといい?」
「……えっと、どうかした?」
一瞬、何を言われるのか分からなくて戸惑った。
けれど。
次の瞬間、俺の中で一つの答えが弾けた。
佐々木作戦、成功だ。
三日間、ひたすらぼーっとしていた甲斐があった。
俺は心の中で拳を握りしめた。
ありがとう、佐々木。
会ったこともないし、どんな顔をしているのかも知らないけど、いつかアイスくらい奢ってやる。
そんなことを考えているうちに、自然と口元が緩んでしまった。
森川さんが俺に話しかけてくれた。
たったそれだけのことなのに、さっきまで失敗だと思っていた作戦が、急に大成功だったように思えてくる。
俺は浮かれていた。
まさか森川さんが何を伝えるために声を掛けたのかも知らずに。




