第九章 もう遅い
使者が来てから十日後、また蹄の音が村に近づいてきた。
今度は馬車ではなく、騎馬の一行だった。
数は十名ほど。
先頭の馬に乗った人物を見た瞬間、私の足が止まった。
金色の髪。
紺碧の外套。
整った顔に、疲弊の色が滲んでいる。
レオルド殿下だった。
「リリアーナ」
馬から降りながら、私の名前を呼んだ。
その声は、舞踏会の夜とは違った。
あの夜は冷たく、宣言するような声だった。
今日の声は、かさついていて、どこか縋るような響きがある。
私はしばらく動けなかった。
村人たちが遠巻きに見ている。
ティカが私の袖を、ぎゅっと握った。
「……殿下」
声は出た。
震えてはいなかった。
殿下が私の前に立った。
近くで見ると、思ったより憔悴していた。
目の下に影があり、頬も少しこけている。
この数ヶ月で、何かが削られたのだろうと思った。
「来てしまった」
殿下が言った。
言い訳のような、独り言のような口ぶりだ。
「使者を帰して、俺が来るべきだと思った。それだけは、わかったから」
「……それは」
「話を聞いてほしい。頼む」
頼む、という言葉が、この人の口から出るとは思っていなかった。
断る理由を探したが、見つからなかった。
見つからないまま、私は短く頷いた。
集会所の一室を借りた。
アルヴェインは扉の外に立った。
護衛として、ではなく、ただそこにいることを選んだように見えた。
その存在が、今の私には確かな支えだった。
向かい合う椅子に座ると、殿下が口を開いた。
「王都が、壊れていっている」
静かな声だった。
「結界が崩れ、魔物が増え、民は不安がっている。魔道具は動かなくなり、作物も育ちにくい。宮廷は毎日紛糾して、誰も解決策を出せない。クロヴィス卿から真実を聞いたとき、俺は初めて、自分が何をしたのか理解した」
私は黙って聞いた。
「君が婚約者としてそばにいた五年間、君が王都を守っていた。俺はそれを何一つ知らなかった。知ろうともしなかった」
殿下の目が、テーブルの上の一点を見つめていた。
「君を地味と言った。役立たずと言った。人前で断罪した。今思えば、あの夜の俺は何と愚かだったのか」
愚かだった、という言葉は本物だと思った。
演技をできる人ではないと、五年間傍にいてわかっていた。
今の後悔も、本物なのだろう。
「君を愛していた」
殿下がようやく顔を上げた。
「本当かどうか、自分でもわからないが、俺なりに、そう思っていた時期があった。ただそれを、どう伝えればいいのかわからなくて。気づいたらセシリアの明るさに惹かれていて、それが正しいことのように思い込んでいた」
「……殿下」
「戻ってきてくれ、リリアーナ」
殿下が、前のめりになった。
「国のためだけじゃない。俺のそばに、いてくれ。誤りを認める。あの夜のことは、正式に謝罪する。だから」
言葉が、静かに降ってくる。
聞きながら、私は過去を思い出していた。
五年間の記憶が、静かに流れていく。
舞踏会で殿下に呼ばれるのを待っていた時間。
隣に立って、でも視線が合うことはほとんどなかったこと。
体調が優れなくても、気づかれなかったこと。
好きなものを聞かれたことは、一度もなかったこと。
嬉しかったことも、悲しかったことも、話せる場がなかったこと。
一度も、この人は私を見なかった。
必要だから見るのではなく、ただ一人の人間として、見たことがなかった。
「殿下」
私は静かに言った。
「婚約中、私が好きなものを聞いてくださったことは、ありましたか」
殿下が、目を瞬いた。
「……それは」
「薬草が好きです。土に触れることが好きです。朝の空気が好きで、子供の笑い声が好きで、夜に星を見るのが好きです。でも殿下はそれを、何一つご存じないはずです」
殿下が黙った。
「私が毎朝何をしていたか、ご存じですか。どんな夢を見ていたか。何が怖くて、何が嬉しかったか。知ろうとしてくださったことは、五年間で一度もなかった」
責めているのではなかった。
声に怒りはなかった。
ただ、事実を並べていた。
自分の中で整理するように、一つひとつ確認するように。
「今さら愛していたと言っていただいても」
一度、息を吸った。
「もう遅いのです」
その言葉を口にしたとき、胸の奥で何かがすとんと落ちる感覚がした。
もう遅い。
怒りでも、哀しみでもなく、ただ静かな事実として。
あの舞踏会の夜から、もうずっと、遅かったのかもしれない。
いや、もっと前から。
五年間のどこかで、すれ違ったまま戻れなくなっていたのだと思う。
殿下の顔が、何かに耐えるように歪んだ。
「では、国はどうすればいい。民はどうなる」
「それは、私が考えることではありません」
「しかし君の力がなければ」
「私は道具ではありません」
はっきりと言えた。
「国が必要とするなら、私を一人の人間として扱う方法を考えてください。呼び戻すなら、命令ではなく、誠意を持って話し合う形で。私にも、居場所があります。ここに」
殿下が、私を見た。
その目に、驚きと、それから何か複雑なものがあった。
「変わったな、リリアーナ」
「変わりました」
頷いた。
「ここへ来て、初めて自分の声で話せるようになったから」
長い沈黙があった。
外から風の音がする。
春の辺境の風は、まだ少し冷たい。
殿下がゆっくりと立ち上がった。
その顔には、疲れと、どこか諦めのような色があった。
「……わかった。今日は帰る」
扉に向かいながら、一度だけ振り返った。
「すまなかった、リリアーナ。あの夜のことを、ずっと後悔している」
私は何も言わなかった。
頷きもしなかった。
ただ、その背中を静かに見送った。
扉が開いて、殿下が出て行く。
アルヴェインの横を通り過ぎるとき、二人の目が合った気がしたが、言葉は交わされなかった。
馬蹄の音が遠ざかっていく。
私はしばらく椅子に座ったまま、動かなかった。
やがて扉が、静かに開いた。
「終わったか」
アルヴェインの声だ。
「はい」
「泣いていないな」
「泣く必要がなかったから」
アルヴェインが部屋に入り、向かいの椅子に腰を下ろした。
何も言わずに、ただそこにいた。
それがありがたかった。
「もう遅い、と伝えました」
「そうか」
「すっきりしました。不思議なくらい」
窓の外に、春の空が広がっている。
雲一つない、澄んだ青だ。
あの舞踏会の夜から続いていた何かが、今日ようやく終わった気がした。
悲しくはなかった。
ただ、軽かった。
「ありがとうございます、ずっと扉の前にいてくださって」
アルヴェインが、少し目を逸らした。
「気になっただけだ」
その横顔が、わずかに赤い気がしたのは、春の光のせいだろうか。
私は窓の外の青空を見上げながら、小さく息をついた。
もう遅い。
その言葉は、終わりではなくて、きっと始まりの言葉だったのだと思う。
新しい季節が、静かに始まろうとしていた。




